阪神・淡路大震災 - Wikipedia

阪神・淡路大震災

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湊川熊野橋東側すぐ南・トポス東山店前
中山手通 にしむら珈琲店前
生田新道 東急ハンズ三宮店東側
二宮・神戸経理コンピューター専門学校近く

阪神・淡路大震災(はんしん・あわじだいしんさい)は、1995年(平成7年)1月17日火曜日兵庫県南部地震によって発生した大規模災害である。

「阪神・淡路大震災」は、政府により閣議了承された名称である。一般的に「震災」、「大震災」などと言われている。

目次

[編集] 概要

1995年(平成7年)1月17日午前5時46分52秒(日本時間UTC+9)、淡路島北部(あるいは神戸市垂水区)沖の明石海峡北緯34度35.9分、東経135度2.1分、深さ16km)を震源として発生したM7.3[1]の兵庫県南部地震は、兵庫県淡路島本土阪神間神戸市芦屋市西宮市尼崎市宝塚市伊丹市川西市猪名川町三田市)、東播磨地方中南部(明石市加古川市三木市稲美町播磨町高砂市小野市旧吉川町など)、姫路市(旧飾磨郡夢前町家島町)・旧神崎郡香寺町)・旧宍粟郡安富町)も含む)、大阪府豊中市を中心に甚大な被害を受け、加えて兵庫県本土の北部・中部・南西部(豊岡市西脇市相生市加西市篠山市(旧多紀郡)・加東市(旧加東郡)・たつの市(旧竜野市揖保郡(現太子町も含む)、丹波市(旧氷上郡)など)、大阪府北西部および北東部(池田市箕面市豊能町茨木市高槻市など)、大阪府中北部(吹田市摂津市守口市)、大阪市(特に兵庫県境に近い西淀川区淀川区此花区で被害が大きく、北区梅田など)、中央区淀屋橋本町地区・北浜心斎橋難波など)、東淀川区西区福島区浪速区大正区港区西成区住之江区など、都心部・副都心部を含めた市内の低地や海岸部を中心に被害が出た)、堺市東大阪市泉州地区岸和田市、震災発生前年(1994年9月4日)に開港したばかりの関西国際空港など)、京都府京都市大山崎町など、広域に渡り大きな被害をもたらした。特に、震源に程近い神戸市市街地(特に東灘区灘区中央区三宮元町ポートアイランドなど)・兵庫区長田区須磨区)の被害状況は、日本中はもちろん世界中に衝撃を与えた。

地震による揺れは、阪神間及び淡路島の一部において震度7の激震が適用されたほか、東は小名浜福島県いわき市)、西は長崎県佐世保市、北は新潟県新潟市、南は鹿児島県鹿児島市までの広い範囲で有感(震度1以上)となった。戦後に発生した地震では、南海地震1946年)や福井地震1948年)を上回り、最大最悪・未曽有の被害を出した。震度7が適用された地震である上に、実地検分によって震度7の激震が適用された最初で最後の地震でもある。又、戦前に発生した北丹後地震1927年)を超える死者を出した。被害の特徴としては、都市の直下で起こった地震による災害であるということが挙げられる。

[編集] 命名

1月17日の災害発生当時、気象庁は命名規定[2]に基づき、地震を「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」(The South Hyogo prefecture Earthquake in 1995)と命名。しかし、気象庁による正式名称とは別に、毎日新聞が「阪神大震災」と呼び始め、他の報道機関の中にもこれに追随する動きが出始めた。

一方、朝日新聞日刊スポーツでは「関西大震災」と呼称していたこともある。

その後、政府が、今回の災害の規模が大きい事に加えて今後の復旧に統一的な名称が必要であるという観点から、淡路島地区の被害も大きかったことにより、災害名を「阪神・淡路大震災」と呼称する事が2月14日の閣議によって口頭了解された。2月24日には、5年間の時限立法として「阪神・淡路大震災復興の基本方針及び組織に関する法律(平成7年法律第12号)」が制定(即日施行)された。この時に「阪神・淡路大震災」と呼ばれるようになる。

この名称については、「阪神」にも「淡路」にも該当しない明石市などから、「大阪市と神戸市および中間地域」「両市を含まない中間地域」いずれの意味においても「阪神」という言葉は被害の実態に即していないとの批判もある。

[編集] 被害

  • 死者:6,434名 行方不明者:3名 負傷者:43,792名

死者の内訳は、兵庫県内6,402名(99.5%)・兵庫県外(大阪府、京都府など)32名(0.5%)

  • 負傷者のうち重傷者は県内10,494名(98.2%)・県外189名 (1.8%)
  • 軽傷者:県内29,598名(89.4%)・県外3,511名(10.6%)

死者の県内県外の比率から見て県内の負傷者数は混乱の中、正確には数えることができなかったと推定される。

  • 避難人数 : 30万名以上
  • 住家被害 : 全壊104,906棟、半壊144,274棟、全半壊合計249,180棟(約46万世帯)、一部損壊390,506棟
  • 火災被害 : 住家全焼6,148棟、全焼損(非住家・住家共)合計7,483棟、罹災世帯9,017世帯
  • その他被害 : 道路10,069箇所、橋梁320箇所、河川430箇所、崖崩れ378箇所
  • 被害総額 : 約10兆円規模

[3] 都市型震災としては、大都市を直撃した東南海地震以来であり、道路・鉄道・電気・水道・ガス・電話などのライフラインは寸断されて広範囲において全く機能しなくなった。これ以降、都市型災害および、地震対策を語る上で、「ライフライン」の早期の復旧、「活断層」などへの配慮、建築工法上の留意点、「仮設住宅」「罹災認定」等の行政の対策などが注目されるようになった。

元々、日本は地震大国であり、日本の大型建築物は大地震にも耐えられない構造であると分かり、1982年には大幅な建築基準法の改正が行われた。しかし、日本の建造物が安全であるとする報道に基づいた誤解をしている市民も依然多く、1982年以前に建てられたビルマンション病院鉄道の駅舎などでも広範囲にわたって倒壊・全半壊が多くみられた。

特に神戸市の長田区においては、木造住宅が密集していた地域を中心に火災の被害が甚大で、地震直後に発生した火災に伴う火災旋風が確認されている。これにより、近隣の建物に次々と延焼して須磨区東部から兵庫区にかけても6,000棟を越す建物が焼失した。

消火活動では上水道が断水したため、わずかな防火貯水槽を探しているうちに炎が延焼して被害が大きくなる結果となった。消防士が、断水により消防水が出ないホースを持って炎の近くに立ち尽くす姿が報道映像として残されている。

当時の消防局には、進出路の瓦礫を除去して消防車を現場へ啓開する車両・消防ヘリコプターが十分に配備されておらず、現場への到着が遅れて重要な初期消火に失敗している。そして、各地の消防車が応援に来ても消火栓とホースの規格が合わず消火出来なかった事が問題になった。

これら火災の原因は、一端止まった送電が一時的に再開された(すぐに止まったが)事により、倒壊した家屋などで漏電、損壊した送電機器や家電品が発火の火種になったのではないかという説もある。

これほどの大きな被害であったのにもかかわらず、多くの研究者・専門家の間においては、「犠牲者については、地震が冬季の早朝の発生であったために交通量や火の使用が少なかったために最低限である6,000人に抑えられている」との意見がある。もしも通勤時間もしくは午後6時頃に地震が発生していたとすると死者は、20,000人を超えていたとみられている。また、老朽木造瓦屋根が無くなった場合は、死者は1/10に減少すると言われている。

また、瓦礫の下の被災者を救出する車両が不充分であったほか、防災機関の(救急ヘリ)での搬送も少なかった(震災当日のヘリ搬送:西宮市にて1名のみ)。この搬送は大阪市消防局から緊急医薬品輸送に従事した機体が帰りに搬送したものである(62人/1週間(内、17人/3日間))[4]ゆえに、負傷者の救出・搬送が遅れることとなった。走行する自動車によって道路上の消火ホースが踏まれたため破損送水不能になる現象が多発した。震災後、兵庫県・神戸市においては、防火貯水槽が整備されて消防へのヘリコプターの活用が検討されている。

西宮市仁川では、住宅街に面した造成斜面において大規模な地すべりが起こり、34名が犠牲になった[5]

死者は関東大震災の10万人に比べると約1/16である。これは被災地域が関東大震災より狭かったこともあるが、大正時代に比べると建築物の不燃化が進んでいること、住宅の耐震性が高くなったことも大きい。

柏井ビル倒壊 推移1傾いていた頃
柏井ビル倒壊 推移2 完全に倒壊したビル

[編集] 建造物・交通

阪神高速道路神戸線の倒壊は、震災の甚大な被害を象徴するものとして世界中の新聞の一面に大きく掲載された。「倒壊した高速道路が、倒壊する寸前に波打っていた」という目撃談話が報道番組において報じられている。また、山陽新幹線においては、橋脚の倒壊と倒壊箇所の調査から手抜き工事の痕跡が見つかっている。

高速道路においては、橋脚と道路面の接合部分が地震によって破壊されたことも確認された。そのため、「柱の上にただ乗っかっている板」のような状態になり、耐震性はほぼゼロになったと考えられる。崩落した高速道路と、辛うじて残った部分との境に取り残された高速バスの写真が印象深いが、その部分ではこの事象が発生していたと考えられている[6]

一方、地下神戸高速鉄道東西線大開駅が崩壊したために、その上の国道28号において陥没が発生した。直後の交通規制などが迅速に行われずに国道43号国道2号山手幹線などの神戸方面に至る主要幹線道路において大規模な渋滞が発生した(規制をしなかった理由としては、この時の警察の方針が倒壊家屋などからの人命救助を優先していたためである)。

また高速道路と同様、当時「地下鉄道は地震に強い」という風潮があったが、大開駅周辺は軟弱地盤かつ開削工法であったために、震動に揺さぶられて中間柱が崩壊したと考えられている。

被災地区を運行する鉄道路線のうち、最も南を走行する阪神電気鉄道本線は主に、東灘区から灘区における高架構造である区間に大きな被害を受けている。特に大きな被害を挙げると、御影駅西方の留置線の車輌が横転して大きく損壊した。石屋川車庫も崩壊し、地震の発生が早朝であったために前夜から留置されていた多数の車輌が崩壊に巻き込まれて損傷した。これは、この高架構造の区間が高度経済成長期の1967年に竣工した物件であり、耐震構造が十分ではなかったことが原因の一つとして指摘されている。また、この区間においては、数箇所におよんで道路をまたぐ鉄橋が落下して南北にいたる道路が遮断された。その後、日本各地の橋梁において落下を防止するための補強工事が行われる契機ともなっている。三宮付近の地下区間で運行中に被災した車輌と合わせて、41輌もの車輌が廃車され、一度、車庫自体を全て解体撤去した後に、工事を翌年までかけて再建せざるを得なかった。

同じ高架構造の駅舎であるホームに電車を留置した状態であった阪急伊丹線伊丹駅東海道本線JR神戸線六甲道駅の崩壊した映像は、阪神高速道路が倒壊した映像と共にこの震災を象徴することとなった。

収益源である神戸港も被害を受けて多くの埠頭の使用が不可能となった。また、神戸市中央区ポートアイランド東灘区六甲アイランド、芦屋市の芦屋浜、尼崎市の築地地区など埋め立て地を中心に地面が軟弱化する液状化現象が見られた。このために、海からの支援なども難しい状態となってしまった。

当時、建設中であった明石海峡大橋は、地震による直接的な被害は無かったものの、全長が1m伸びるという事態が発生した。大橋の淡路側の山上に、フランス革命200周年記念事業として、日仏友好モニュメントが建設予定であったが休止されている。

都心部にある神戸市役所は、第2庁舎の6階部分が潰れている。当時、須磨区にあったラジオ関西の本社も被災し、敷地内の仮設スタジオに移転したのち1996年6月に現在のハーバーランドへと移転した。

また、神戸新聞本社が置かれていた三宮の神戸新聞会館も同じく被害に遭って本社を西区の制作センター(印刷工場)に仮移転するとともに編集業務はダイヤニッセイビル(ハーバーランド)で仮構築し、1996年7月に神戸情報文化ビルへと正式に移転する。ただし、新本社への移転は震災以前からの既定方針で、同ビルも建設中だった。

[編集] ビル・マンション・病院

マンション・病院の住民の死者はほとんど出なかったので、結果的に鉄筋コンクリートのマンションの安全性が確認された。

さらに、建築基準法が厳しくなった1982年以降に建築されたビルには建物の被害も少なかった。超高層ビルにおいては建物の被害は殆どなかった。老朽化したビル・一階が駐車場のビル・マンションの物件では被害も多かったものの、幸いにも死者は少なかった。一部の鉄筋コンクリートのマンションでは火災が発生していたが、当然ながら隣戸に延焼することはなかった。三宮駅北側の三宮日本生命ビルの5階も崩壊した。また、傾いた状態でいた柏井ビルが、翌朝の余震によって完全にフラワーロードに横倒しになったが死者は出なかった。

長田区にある神戸市立西市民病院も中層階が圧壊して入院中の患者が閉じ込められる状態になったが、生存空間があった為即死することは無かった。ただし、後に患者1名が死亡した。他の損壊を免れた病院には多大な数の負傷者が搬送される事となり、病院は軽度の入院患者については当日中に早期退院、または地方に転院させるなどして病床をできるだけ確保した。しかしそれでも病床の数が全く足りず、ロビーや待合室にソファーや布団を敷き詰めて病室とするなどの緊急処置を取らざるを得なかった。また、治療を行う医師の数も患者の数に対して圧倒的に不足していた事もあり、治療を待っている間に息絶えた人もいた。

木造家屋の多い兵庫区・長田区の被害は特に甚大で、火災が多く発生した(兵庫区会下山町辺り)

[編集] 約5000人は木造家屋の下敷きで即死

死者の80%相当、約5000人は木造家屋が倒壊し、家屋の下敷きになって即死した。特に1階で就寝中に圧死した人が多かった。また2階建て木造住宅の場合、屋根瓦と2階の重みで、1階の柱が折れて潰れるケースが多かった。2階の場合は、生存のスペースが残りやすい。建物が倒壊しても生存のスペースがある場合は、死者は少なかった。老朽木造建造家屋がなければ、死者は1/10になっていたと言われる。
また、死亡に至る時間も短かった。遺体を検案した監察医のまとめでは、神戸市内の死者約2456人のうち、建物倒壊から約15分後までに亡くなった人が2221人と92%にものぼり、圧死・窒息死で「即死」した人が大半を占めた。[7]

[編集] 約600人が家具の転倒で圧死

震災の犠牲者6434人のおよそ1割に当たる約600人が、室内家具の転倒による圧死と推定する調査(山口大学・大田教授のグループ)があった。

[編集] 瓦屋根、木造、日本家屋の危険性

日本瓦を使い、基礎が石に柱を載せただけで、筋交いの少ない老朽化した木造住宅でも多くの死者が出たため、以降、神戸においては新築の屋根はほとんどみられなくなった。日本の伝統構法の流れを汲む木造軸組構法の住宅に被害が集中し、新しい住宅においても筋交いなどが不十分であった物件は大きな被害を受けている。坂本功著の『木造建築を見直す』という書において「死亡者のうち5,000人近くは、軸組構法の住宅の下敷きによって圧死した」と述べている。しかし重要なのは、「構造的に問題のある建築に瓦屋根のものが多かった」ことにも拘らず、一般的には「瓦が重いから問題」であると誤解され、地震以降、関西では瓦屋根が少なくなってしまった。

倒壊した家屋

古い木造住宅は年月の経過によって乾燥している点や、耐火材を使っていないなどの理由による火災の被害も多い。これは、神戸地区の木造住宅は、地震よりも台風に対応した木造住宅であり、振動に弱く瓦部分が重く、尚且つ瓦の固定方法も屋根に土を葺いてその上に瓦を載せる方法が多かったことにも起因している。なお、筋交いを多く入れてある木造住宅においては耐震性も十分にある。また、同じ木造住宅でも、プレハブやツーバイフォー(木造枠組壁構法)と呼ばれる構法の住宅が耐震性を示している。3階建住宅の被害も殆どなかった。


[編集] 生存空間

日本の伝統構法の流れを汲む木造軸組構法で多くの死者が出た原因は、大破した場合、 瓦屋根の瓦、土、柱、の重みで生存空間が無くなり、体が潰れるためである。建造物が破壊されても、人が生きていくために必要な空間がある場合は体がつぶれることが少ない。鉄筋コンクリート造りの場合は、大破しても天井が低くなるだけで即死することが少ない、それは、構造的に生存空間が残るためである。

[編集] 建築基準法

耐震性を考慮に入れて建築基準法が改正された1982年以降に建築された物件の被害が少なかったことが報告されている。結果的に、改正された建築基準法の有効性が証明されることになった。倒壊して死者の出た住宅は1982年以前の建築物件で、当時の建築基準法により設計されていて耐震性が弱かったともいえる。震災後も、1996年、2000年、2006年に建築基準法は改正されている。

[編集] 危険な合法住宅の問題点

古い住宅の場合は耐震性が無く危険であっても違法ではない。違法かどうかは、新築時の建築基準法に対して判断するため、新築時の法規に適合していた建物は、その後老朽化し危険になっても違法ではない(既存不適格と呼ぶ)。たとえば、建築基準法が無い江戸時代の建造物は危険であっても合法である。

3階建て住宅ではほとんど被害が出ていないのは1988年に建築基準法が改正・施行されるまでは、準防火地域において木造3階建ての建築は禁止されていた為、耐震性がない合法3階建住宅(古い3階建て)がなかった為である。

日本では耐震性のない古い合法木造住宅が1000万戸有ると言われている[要出典]

[編集] 復興

全国からさまざまな形の「救援・支援」が寄せられた。救援物資・義捐金・ボランティア活動のほか、インフラストラクチャーの復興には他府県の電力会社・ガス会社などの多くの職員が復興応援のために現地入りした。

[編集] 街の復興

復興事業は、ライフラインの復旧を最優先として行われた。電気は早期の復旧が可能であったが、地下に埋まっている水道・ガスの復旧に時間が掛かり[8]、4月末まで続いていた。

復興支援物資の輸送も全国各地において受け付けられた。また、交通網も至る所で寸断されていた。大量の復興支援物資を早急に送るため、復旧よりも残された道路を優先的に整備して被災地と大阪市を結んでいた。

神戸近郊の道路においても、「神戸市に行く」と言えば交通整理などで最優先に通行させてもらえるなど復興活動を支援する場面が見受けられた。

建造物の本格的な復興事業が開始されたのは翌月に入ってからである。この頃には多くの機材・人材が全国から駆けつけて瓦礫の撤去や再建をサポートしていた。

ウォーターフロントの地盤が陥没した岸壁に仮設の桟橋を設けて大阪と神戸を結び、疎開する人・復興支援者の負担を少しでも軽減する努力を行っている。また、残された海岸を利用して医療物資などの搬入を優先的に行っていた。多くの手助けのもと、2年後の1997年3月31日に、全ての埠頭・コンテナバースが復旧した。そして、同年5月19日に神戸港復興宣言が発表された。

[編集] 復興支援活動

3月7日には、東京日本武道館にて有志のミュージシャンによるチャリティーコンサート「MARCH OF THE MUSIC」が開催されて収益が全額寄附された。公演に参加しなかった多くのミュージシャンも、自らのコンサートやラジオ番組での募金などの取り組みがなされた。復興と重なり合って日本のジャズ教育が活発化する拠点ともなっている(神戸はジャズが日本での第一歩を記した地として知られる)。

中央競馬では6月3日、4日の京都競馬(1月21日、22日中止分の代替開催。4日にはGI宝塚記念が行われた)、翌年1996年7月7日の中山阪神(前年同様宝塚記念が組み入れられた)、札幌競馬が復興支援開催として催されて馬券の売り上げの一部が寄附された。

当時放送がスタートしたばかりの「とんねるずのハンマープライス」(関西テレビ制作・全国ネット)では、番組開始後すぐに震災が発生したことから、番組のコンセプトである落札で得た収益を「震災復興支援資金」として日本赤十字社等を通じて寄贈することとなった。チャリティーオークションの盛んな欧米の著名人から出品の協力を得られることにもつながり、日本にチャリティーオークションが広く知られる機会にもなった。

[編集] ボランティア活動

地震直後に現地において、被災者支援のボランティア活動に参加した人の数は一日平均2万人超、3ヶ月間で延べ117万人とも言われる。被災地でのボランティア活動(専門ボランティア・情報ボランティアを含む)の重要度に対する一般の認識も飛躍的に高まった。現地には行かずに被災負傷者の為の献血義捐金拠出・物資提供などの後方支援に携わった人々も含めると参加人数はさらに増えるものと見られる。

このために、この年は日本における「ボランティア元年」とも言われる。後に、内閣は1月17日を「防災とボランティアの日」、17日を中心とした前後3日の計7日間を「防災とボランティア週間」と定めた。

この震災で、ボランティアに関わった人々の中には、精神的に大きなダメージを負ってしまった人も多かった。被災した人々のケアだけでなく、ボランティアの心のケアも、とても重要なことであることが明らかになった初めてのケースになった。

震災当時の状態が保存されている神戸港震災メモリアルパーク浜手バイパスの奥に見える阪神高速神戸線も倒壊した。2004年2月撮影

この地震が大惨事となった最大の理由は、老朽木造瓦屋根の住宅が多かったことであるが、その他の理由の一つに、近畿地方瀬戸内海岸では他の地方に比べて地震の発生が少なかった事が挙げられる。地震の専門家の一部は、小さい規模の地震すら起こらないことで、エネルギー(歪み)の蓄積が起こっており、ひとたび地震が発生した場合には規模の大きなものになる危険性を孕んでいる事を述べていた。

しかし、「近畿地方は地震が少ない。仮に起こったとしてもそんなに大きな地震ではないだろう」といった“実体験”による過信(ただし、実際には紀伊半島を初めとして近畿地方は幾度も巨大地震に襲われている。「地震の年表」も参照すること)から、「近畿地方では大きな地震は起こらない」とする誤解の広まり、または、地震自体を意識することが少なく専門家の指摘を信用する人間も少なかった。

ゆえに、地震対策は震度5を想定しており、防災については地震対策よりもむしろ「阪神大水害」の教訓から水害を重視した防災計画が作成されていたとみられる。

それまでの大地震の発生する構造については、太平洋プレートフィリピン海プレート日本海溝南海トラフにおいてユーラシアプレートの下に滑り込み、そのプレートの跳ね返りによって発生するもの(海溝型地震)ばかりが注目されて活断層のずれによる大地震の発生はさほど注目されていなかった。

実際に、これらのプレートの境界の近くに位置する関東地方東海地方紀伊半島においては、大地震(関東地震東海地震東南海地震南海地震など)の発生する可能性が最も高い地域として防災訓練や建造物の補強など徹底した対策が実施されて来た。ところが、近畿地方(紀伊半島)でも、太平洋岸である三重県和歌山県とは対照的に、瀬戸内海岸である大阪府兵庫県は無警戒に近い状態であった。

北海道東北地方北陸地方などの豪雪地帯であれば、地震の多発地帯以外でも、「」という重量物が屋根の上に積み重なる前提に家屋が建てられるために、結果的に「地震」など揺れにも強い構造となることが指摘されている。ただし、2004年新潟県中越地震において豪雪地帯の建物が少なからず倒壊・損壊した事で、耐雪構造と耐震構造を分けて考える必要性が指摘されるようになっている。

全てではないが、その後のビルディングも含めた物件を建築や補修する際には、阪神・淡路大震災における被害を教訓とした上に最低限度の耐震性を考慮した構造に変わっていっている。また、前述の「高架構造になっている高速道路や一般道路、鉄道などの橋脚」の構造上の脆弱さが指摘され、順次、行政主導のもとで補強工事が施工されていった。

この地震の原因である活断層は、全国に広く分布している。しかし、現在においても、大地震を正確かつ厳密に予知することは不可能であり、「活断層上の建造物の耐震性」「地盤の強弱」を前提とした補修、建築であっても、地震発生の際の被害予測は非常に難しい。

「地震に起因する火災(特にもらい火)」などは、多くの火災保険では填補除外条項とされているケースが多く、採算性の問題も含めて改善が進んでいない。そのため、この震災を機会に地震保険への注目が集まるようになった。

そういった諸問題も含めてこの「大震災」は日本の災害対策上重要な位置を占めている。

兵庫県は、以上の教訓を踏まえて神戸市中央区に人と防災未来センターを建設した。なお、新潟県中越地震による新潟県への別館建設も検討中である。また、震災の記録を残すため、津名郡北淡町(現・淡路市北部)には兵庫県南部地震の震源となった野島断層を保存する北淡震災記念公園が、神戸市中央区のメリケンパークには崩壊したメリケン波止場を保存する神戸港震災メモリアルパークが整備された。

[編集] 救助活動

[編集] 消防・自衛隊による救助活動

消火活動。消防は、人員も足らず、ほとんど手の付けようがなかった(兵庫区)。

地震発生後、消防・警察・自衛隊などの各組織は救助活動に入っている。

総務省消防庁警察庁が調整を行って全国から消防部隊や機動隊員が現地に送られていたが、交通渋滞に巻き込まれずに到着した者はほとんど無かった。現地に到着出来ても大規模災害に対する技術も知識も装備も機材も満足とは言えない状況だったため活動は難航した(この災害で挫滅症候群(クラッシュ症候群)が全国的に有名になった。つまりそれ以前は知られていなかった)。現地の消防・警察においては、自身が被害を受けていることもあり、初期における救助などの活動は円滑とはいえなかった。このほか、淡路島においては、消防団および、近隣住民が中心となった救助活動が行われた。特に、北淡町においては発生から約11時間で捜索救助活動および遺体収容が完了している[9]。建造物や人口の密度を勘案すれば神戸市街地とは救助に要する時間を単純に比較はできないが、地震発生直後において近隣住民などの地域コミュニティーによる救助活動の重要性を示している。消防はこの地震での失敗を教訓にして、後の特別高度救助隊・高度救助隊の創設のきっかけとなる消防機動救助部隊(通称ハイパーレスキュー)と緊急消防援助隊を創設し警察も広域緊急援助隊を創設することになる。

自衛隊については、地震発生数分後には行動を始めたものの、阪急伊丹駅へ近傍派遣(災害派遣)を行った第36普通科連隊を除き、神戸市中心部への災害派遣は直ちにはなされなかった。第36普通科連隊は、「近傍派遣」(自衛隊法第八十三条三項)によって出動しているが、他の部隊は知事の要請(自衛隊法第八十三条一項)の待機状態になっていた。

貝原俊民・兵庫県知事(当時)からの災害派遣要請はすぐに行われなかったが、これは各所轄の警察署単位で調べていた被害情報を、兵庫県警本部の警備部がまとめていたのに連絡を怠り、貝原知事にまで伝達されなかったことが最大の原因であった。例えば兵庫県警東灘署だけでも午前8時に「死者100名以上、行方不明者数百名」という情報を把握していたにもかかわらず、兵庫県警警備部が知事への報告を地震発生後2回しか行わず、午前10時の段階で知事に伝わっていた兵庫県全体の被害情報は「死者4名」というあまりに現実とかけ離れたものだった[10]。貝原知事は「被害情報が正しく伝えられていれば、即座に自衛隊派遣要請を出来ていた」と答えている[10]。知事が即座に派遣要請を出していれば、建物の下敷きとなり圧死した犠牲者の数は更に減っていたという意見もある。また知事以外の首長が要請を出すことは許されないという、当時の法制の不備も原因している。

こうした状況把握の混乱から、派遣要請は、地震発生から4時間後に自衛隊との電話が偶然つながった野口一行・兵庫県消防交通安全課課長補佐(当時)の機転で行われ、知事へは事後承諾となった。これを教訓に、後に自衛隊への派遣要請は都道府県知事や市町村長または、警察署長などからも要請が行えるようになった。

[編集] 国の機関の対応

当時、首相官邸をはじめとする政府、国の機関が、直接に被災地域の情報を収集する手段は整備されておらず、地方自治体や各省庁の地方支分部局、自衛隊の部隊などから本省等へ上げられた情報を迅速に集約する体制も、収集した情報を内閣総理大臣等へ通報する体制も整っていなかった。そのため、テレビやラジオなどの報道機関が最大の情報源となり、集約整理されていない情報をもとに、各機関が行動する体制となっていた。災害対策の所管官庁とされていた国土庁にも独自の情報収集手段はなく、関係省庁に上げられた情報を集約することも十分にはできなかった。

「官邸をはじめとする政府、国の機関はもとより、地元の行政機関、防災関連機関にとってもテレビ・ラジオが最大の情報源であった。国土庁が独自に情報収集手段を持たず、また関係省庁からの情報の集約を十分に行えなかったことから情報が官邸に十分伝わらなかったという制度上の問題点が指摘された。」

阪神・淡路大震災教訓情報資料集[11]

村山富市内閣総理大臣には地震の一報がかなり早い時点で入ったものの、これは首相が地震発生直後にテレビでニュースをたまたま見ていたことによるもので、秘書官等から詳細な情報を上げることは遅くなった。その後、不完全ながらも随時上げられる情報により未曾有の大災害であることが明らかになりつつある中でも、村山首相は開会が差し迫った通常国会への対応や懸案となっていた新党問題、財界首脳との食事会など予定通りの公務をこなす傍ら災害対応を行ったため、十分な対応を行わなかったのではないかという疑念を生んだ。

二階俊博衆議院議員「(略)最初にお尋ねしますが、国家の最高責任者である村山総理は、17日の午前5時46分ごろ兵庫県南部で発生した震災をいつごろ、どこで、だれから報告を受けられ、どのような対策を指示されたのかをお伺いいたします。なお、災害発生当日の総理御自身の御日程についても明らかにしていただきたいのであります。この際、この最初の総理への報告内容がいかなるものであったのかが重大な問題であります。当初これほど大きな災害に及ぶという認識に欠けていたのではないかとの疑問を抱くものであります(後略)。」
村山富市内閣総理大臣「(略)私は、この地震災害の発生直後の午前6時過ぎのテレビでまず第一に知りました。直ちに秘書官に連絡をいたしまして国土庁等からの情報収集を命じながら、午前7時30分ごろには第一回目の報告がございまして、甚大な被害に大きく発展をする可能性があるということを承りました。この報告を受けまして、さらにその被害状況の的確な把握をして連絡をしてほしいということを要請するとともに、何よりも人命救助を最優先に取り組んでくれ、同時に、火災も起こっておりますから、消火に全力を尽くせということも指示をいたしたところでございます。午前10時からの閣議におきまして非常災害対策本部を設置いたしまして、政府調査団の派遣を決めるなど、万全の対応をとってきたつもりでございます。(後略)」

1995年(平成7年)1月20日衆議院本会議(代表質問及び答弁)

さらに、村山首相は、地震発生3日後に開かれた衆議院本会議の代表質問に対する答弁の中で、政府の情報収集の遅れと危機管理体制の不備を問われ、「何分初めての経験でもございますし、早朝の出来事でもございますから、幾多の混乱があったと思われまする」と答えたため、強く批判された。

二階俊博衆議院議員「(略)災害発生時の事態の掌握のおくれが自衛隊の出動に大きな影響を及ぼしていると考えますが、県からの要請があろうがなかろうが、国土と国民の安全を守る崇高な任務を持つ自衛隊の出動について、タイミングや規模等について判断に重大な誤りがなかったのか、大いに反省の必要があります。と申し上げるのは、生き埋めの人が200名ばかりおるので直ちに自衛隊の出動をという新進党の国会議員の要請に対し、地震当日の朝、…の段階においては防衛庁幹部はこの事態を承知していなかったという重大な事実があるからであります。自衛隊の最高指揮官としての村山総理は、救援の初動活動において、人命救助最優先の立場からもう少し積極的なしかも迅速な指揮がとれなかったのか、悔やまれてならないのであります。(拍手)政治責任もあわせて、この際、総理の御見解を伺いたいのであります。高秀横浜市長は、…大都市の首長の立場から政府の危機管理体制の不備を指摘しておられますが、国民のだれもが同じ思いであります。村山総理はこれらの声をどのように受けとめ、みずからの責任の重大さをいかに感じておられるか、重ねてお尋ねをいたします。(後略)」
村山富市内閣総理大臣「(略)次に、政府の危機管理体制についての御質問でありますが、災害発生時におきましては、関係機関に対する迅速かつ的確な指示が実施できるよう政府の防災体制をとっているところでございまして、自衛隊等の対応につきましても、発生後直ちに伊丹で第36普通科連隊が災害派遣を実施してきたところでございます。また、災害対策を円滑に実施するため、地方公共団体に対しましても必要な指示や要請を行ってきたところでございます。しかし、今から振り返って考えてみますると、何分初めての経験でもございますし、早朝の出来事でもございますから、幾多の混乱があったと思われまするけれども、いずれにいたしましても、防災上の危機管理体制の充実は極めて重要な課題であると認識をしておりまして、今回の経験にかんがみながら、今後見直すべき点は見直すこととして、危機管理体制の強化に努力をしてまいりたいと考えているところでございます。(後略)」

1995年(平成7年)1月20日衆議院本会議(代表質問及び答弁)

出動した自衛隊も、交通渋滞や被災者がひしめく中で、部隊の移動・集結・宿営地の造営に手間取り、現地に到着したLO(Liaison Officer、連絡幹部)が状況を把握してから大規模な災害派遣部隊が現地に展開されて救助活動を開始するまでに3日間を要した(政治判断に3日を要したわけではない)。

最も早く救援体制を敷いた米海軍第7艦隊(横須賀)が、「艦艇を神戸港に入港させてのヘリコプターによる負傷者の救援」を政府に申し入れたところ、神戸市の受け入れ体制の未整備、政治的理由、接岸施設の被災による危険性などの要因により、拒否する事態を発生することとなった。しかし、この対応が特別であったわけではなく、当初から、各国からの支援の申し出にも政府として対応できていなかった。 アメリカ政府は空母インディペンデンスの提供を申し出たが、「あの時点では毛布であり水であり、そういうものが緊急である」との判断から日本政府はこの申し出を拒否した。[12]

日本が地震多発地帯であるにもかかわらず、前述の被害地域の惨状を把握する手段が十分に講じられていなかったこと、危機管理体制の欠如、縦割り行政といった行政上の様々な弊害が現れた。

兵庫県からの自衛隊への災害派遣要請が、発生後4時間以上も後であったことは前述の通りであるが、県知事からの派遣要請がなされていない事を知った地元選出衆院議員・高見裕一新党さきがけ議員)も、携帯電話によって東京の議員会館にいる秘書を通じ、防衛庁に緊急要請を行った際、東京では「“大げさだ”」「非公式」「未確認情報」との認識しかされていなかった[13]

[編集] 民間企業・組織による活動

国政の対応が遅れる一方で、神戸市に本社を構えていたスーパーマーケット大手のダイエー以下、当時のダイエーグループ企業(ローソンなど)は、震災の一報を東京都内の自宅で知った中内功社長(当時)の指揮により、建物が半壊状態であっても兵庫県内を中心に関西圏の営業可能な状態の店をすぐに開け、在庫のある商品、空輸で届いた商品(食料品以外の毛布、懐炉なども含む)などを破格(菓子パンやおにぎり一個10円等)で提供した。またダイエーと同様にセブン-イレブン・ジャパンも地震発生3時間以内に救援物資や食料などを他地域からヘリ空輸するなど、非常に早い対応を行った。地震当時神戸市内に店舗がなかったセブン-イレブンは震災後素早くヘリコプター6機を自社で借り、京都府の弁当製造工場で緊急製造した弁当・おにぎり等約6000人分を神戸市へ空輸し無償提供した。生協は災害時に食料等を放出するという契約に基づき食料の配給を行った。

震災が起こり混乱状態だった当初、一部の露店商などでは、市民が物資に窮乏している点を利用して食料品や日用品を法外な高値(おにぎり1個、水1リットルが数千円など)で販売する闇市の方式を取っており問題となっていた。ダイエーやセブン-イレブンなど大手小売企業各社の迅速な対応は、単なる物資の提供のみならず値段高騰の抑止にも一役買っていたのである。

任天堂ゲームボーイを5000台とヘッドホン、トランプ3000個を、セガはリコーダー20000本を被災児童に提供した[14]

支援活動としては、一番乗りの救世軍、神戸に総本部を置く日本最大の暴力団組織・山口組、阪神地域で強い影響力を有する宗教団体PL教団天理教創価学会金光教、2ヵ月後に地下鉄サリン事件を起こすオウム真理教といった組織・団体が、食料や飲用水の供給・便所・風呂・避難場所の提供などの積極的な支援を行った。その他、渡哲也渡瀬恒彦兄弟や、河島英五嘉門達夫ジャイアント馬場と言った関西にゆかりがある芸能タレント・文化人も現地入りし、炊き出しや支援を個人単位で行っている。

三宮 東門辺り

[編集] 震災の影響

[編集] 救助組織

この災害によって消防・レスキューの得た経験は、消防無線における全国共通波の増波や、緊急消防援助隊広域緊急援助隊消防救助機動部隊(ハイパーレスキュー)、救助機動中隊の発足と整備につながる。後の、新潟県中越地震2004年10月)やJR福知山線脱線事故2005年4月)においても大きく貢献することとなった。また、1995年3月の地下鉄サリン事件と合わせ、自衛隊の災害援助の意味での機能が注目され、国民の自衛隊に対する好感が、震災以前と比べて格段に大きくなり、自衛隊が必要であるという世論も大きくなった(消防組織はもともと市町村単位であり、この震災によって、消防の広域動員における指揮・通信などで多くの問題が露呈し、改善中である。しかし2009年現在、道州レベルの広域大災害の消防/救命活動指揮組織は漸く作られつつあるが、事が起こってから臨時で設置される組織であって、常設組織を設けて平時から大規模災害対処計画を研究立案する段階にはなっていない。防衛省はもともと平時にあって有事に備える広域危機管理官庁なので、震災対処計画機能はあるものの、道州レベルでの協議の消防側カウンターパートが消防庁しか居ないのが実情である)。

一方で、災害援助では装備や組織の問題によって充分に機能し得ないので「必要な組織は、装備のほとんどが武器・兵器の自衛隊ではなく災害救助隊だ」という意見や、「蓋然性の低い大災害に対応する官僚組織を戦争・災害の別建てで設立するのは予算の無駄であり自衛隊の災害救助装備機能をもっと充実させるべきだ」という意見も出されている(尚、道路が寸断されている場合、消防車両が現地に容易に近づけない場合も多いので、ヘリによる瓦礫除去車・消防車の吊下空輸は有効である。但し2009年現在、消防側は自衛隊にヘリ空輸は依頼せずに瓦礫除去車/重機で進路の瓦礫/土砂を除去しながら数時間かけて現場に到着する計画である。また消火水道断裂に備え数億円する防火水槽を全国各自治体に数千基整備する事は予算面から進んでいないが、既にある自衛隊の重輸送ヘリ約40機で水コンテナを校庭に吊下空輸すれば大幅に補完する事ができる。しかしCH-47などの重輸送ヘリは数十億円するので市町村消防局で重複購入するのは財政難のため困難である。なお自衛隊のCH-47は重輸送ヘリを購入できない途上国の震災等の災害救援にも派遣されて役立っている。またUH-60などの汎用ヘリは、構造上はミサイルに代えてインパルス消火システムを装着することで初期消防にも投入可能だが、主管の関係もあって実現していない)[15]

さらに、報道陣に(関東大震災等があるのに)震災を杞憂扱いして危機管理計画を定めていなかった怠慢を責められて「まさか、関西で大地震が起こるとは思わなかった」という(「まさかの大災害」への平時からの準備が重要という危機管理の初歩を理解していない)釈明をしたために新聞などによって激しく批判をされた。これは当時の自治省の指導にも不備があったうえ、現在においても自治体の防災規定に対する総務省の指導は不徹底で、同様の事態が別の自治体でも起こりうるとの指摘もある。さらに、多くの死者が出たにも拘らず、「震災等の有事に対する政府・自治体の備えが不備で惨事を招いた事」の地方・国官僚制内部での追跡調査や不作為責任の追及、再発防止の問題は第三者委員会によってメスが入れられず、うやむやにされて報道陣の前で頭を下げただけで終わっているために、再度震災が起これば、学習効果なく同様の問題が発生しうる庁・自治体もある、との指摘もある。

社会党の村山富市首相は自衛隊出動命令の遅れを責めらて「なにぶん初めての事ですので」と釈明したため、「前例ある有事を杞憂扱いして備えを怠り、危機管理官庁の自衛隊を感情的に毛嫌いして有効活用せず国民被害を拡大した」と首相官邸の危機管理の不備が明らかになるまでは一部右派から感情的な批判も受けたが、竹下内閣からこの村山内閣まで7人の首相に仕えた元内閣官房副長官・石原信雄の「前例のない未曾有の災害で、かつ法制度の未整備な状態では、村山以外の誰が内閣総理大臣であっても迅速な対応は不可能であった。」[16]の証言に代表されるように、その後も村山首相は政権を担うこととなった。

震災から12年経過した2007年の政府・官房長官の記者会見においても「多くの犠牲になられた方々に改めてご冥福をお祈りしたい。防災体制はあれ以来、強化を図っているが、改善に改善を重ねていかなければならない」と述べた。当時、大きな問題点として指摘された政府の危機管理体制については一定の改善が行われたとの認識を示したうえで「十分ということはないのでいつも反省をしながら改善していく」と語った。

政府による支援が遅れた一方で、前述の通り民間による支援活動は積極的に行われた。

自治体には、震災での建物の崩壊による圧死などの直接の死亡原因だけではなく、被災者が避難したあとの持病の悪化や停電による医療機器の停止による死亡などといった間接的な原因での死亡も関連死(認定死)として認定をするか審査する委員会が置かれた。但し、失明失聴・四肢の喪失・重度精神障害など死亡に準ずる重度障害の統計は発表されていない(統計が行われたかも不明)。

[編集] 復興組織

関東大震災が起こった際の帝都復興院に相当する組織となる阪神・淡路復興対策本部が、2000年までの5年間総理府に置かれた。戦災復興都市計画による土地区画整理事業が完了しようとしていた時期に震災が起こり、また、戦災を免れたことによって戦前からの老朽木造住宅が密集して残っていた地域に特に甚大な被害が見られたため、神戸市は戦災復興の延長線として震災復興を捉えた[17]。復興に当たっては、1976年10月29日に発生した酒田大火の復興事例が短期間での都市復興の事例として参考にされた。

  • 単なる災害前の街への復旧ではなく、道路幅の拡幅など大掛かりに区画変更を行い、緑地を多く取って緩衝地帯を設定する事
  • その実施に当たっては、単なる上意下達ではなくアウトラインのみを地元に提示して細部については地域住民の声を聞いて合意を形成をしながら、街全体を短期間のうちに、一気に防災型の都市に変える事

[編集] 避難生活

家が全・半壊した住民は学校や公共機関の建物に避難した。

被災地の学校の多くは休校。被災者は、体育館・教室などで寝起きした。また、公園にテントを張ったり、自家用車において寝起きしたりする人もいた。震災当初は、公的な避難所として学校等の公共施設を避難所として認めて食料・飲料水の配布がされていたが、その後、公園への避難者が形成していたテント村についても食料等の配布が行われるようになった。

震災発生後1カ月を経て、仮設住宅が建設されて入居が始まった。しかし、その多くが被災地を離れた郊外や周辺の自治体に建設されたために避難所から仮設住宅への移行が進まなかった。学校等の避難所は、4月以降の授業開始にあわせて解消するために、都心部での仮設住宅の建設や学校等避難所から待機所への移行を促す措置がとられた他、復興支援住宅と呼ばれる恒久住宅の建設が兵庫県によって行われた。また、民間の住宅を借り上げて被災した住人への提供などが行われた。

これらの被災者向けの住宅の供給については、各市町村によって発行された罹災証明書が入居の根拠とされた。その証明を行うための調査が短期間のうちに少人数によって行われたこともあり、その精度の荒さが指摘されている。

[編集] 交通網

[編集] 鉄道

兵庫県などを走る阪急電鉄阪神電気鉄道山陽電気鉄道などが震災による甚大な被害を受けた。

震災直後からJR・私鉄など各社間で、連携して行われたバスや他社鉄道線による代替輸送は不通区間の解消とともに順次終了された。4月の段階で、最初に不通区間を全て解消したJRは、新年度の定期券発行でも優位な状況となり、その結果、利用者のシェアはJRへとシフトする形となった。

不通時の鉄道代替バスに関しては、「バス代行」の「阪神・淡路大震災時の事例」の節も参照のこと。

[編集] JR

西日本旅客鉄道(JR西日本)も同様の被害を受けているが、資本力の違いと、旧国鉄線であったため線路脇に余裕があり作業が行いやすく、また物流の大動脈でもある路線でもあったため、全国のJRグループに応援を呼んだことから急速な復旧を遂げて最初に運行を再開した。複々線であった東海道山陽本線(JR神戸線)は、地震発生翌日から姫路~西明石、大阪~甲子園口で順次、運転を再開した。配線変更などにより部分的に開通し、74日後の1995年4月1日に最後の不通区間である灘~住吉駅間を解消して、複々線での運転を再開した。山陽新幹線も震災が起こった直後に橋脚が倒壊して新大阪駅姫路駅の間が不通となっていたが、81日後の同年4月8日に不通区間を解消した。

復旧に至るまでの間、東海道本線と山陽本線を経由して中国・四国・九州地方へ向かう貨物列車と一部の寝台列車は、福知山線 - 山陰本線 - 伯備線山陰道)のルートを経由して大回りで貨物列車を運転したほか、不通区間の迂回ルートとして播但線加古川線では臨時列車が多数運転された。

東海道・山陽本線が分断されたために、電車列車をディーゼル機関車を使って当時は電化されていなかった加古川線を通過、もしくは、播但線・山陰本線を経由して福知山駅まで回送した。新幹線は、JR東海、JR西日本ともに車両が他社区間に閉じ込められたために復旧するまでお互いの車両を使用することとした。

東海旅客鉄道でも東海道新幹線の京阪間の一部で橋脚にクラック(=亀裂)が見つかったため震災直後は京都駅-新大阪駅間で徐行運転を行っていた。

[編集] 私鉄

私鉄では、阪急電鉄が地震発生から約5ヶ月後(146日後)の同年6月12日、山陽電気鉄道が阪急電鉄の不通区間解消から6日後(地震発生から152日後)の同年6月18日、阪神電気鉄道が阪急電鉄の不通区間解消から2週間後(地震発生から160日後)の同年6月26日、そして阪急・阪神・山陽の各社が相互乗り入れする神戸高速鉄道は地震発生から約7ヶ月後(208日後)の同年8月13日に不通区間を解消した。阪神に関しては三宮 - 高速神戸間でピストン運転をしていた。このピストン運転は被災者の大きな足となった。

そんな中、北神急行電鉄北神線は比較的に被害が少なく、翌1月18日から運行を再開した。また、谷上駅で北神急行電鉄北神線と接続する神戸電鉄有馬線は震災の2日後、1月19日鈴蘭台駅-有馬口駅間、直通する三田線では有馬口駅-三田駅間、鈴蘭台から加古川線への乗換駅である粟生方面への粟生線、鈴蘭台駅 - 粟生駅間で運転を再開、2月7日には鈴蘭台 - 長田駅間が運転を再開、3月31日に有馬口-有馬温泉駅間が運転再開。

そして6月22日長田駅 - 湊川駅間が運転再開し全線が復旧した。これらは復旧が早かったため、震災直後の人々、また、被災地へ向かう人々の貴重な足となった。

[編集] 道路

道路でも、中国自動車道や国道43号・国道2号は、復旧のための車線規制による渋滞が起こり、特に、高架が崩落した阪神高速道路神戸線(第二神明道路姫路バイパスなども通じ、大阪~姫路間の連絡道路となっている)は、長らくの間不通となった。このため、復旧までの期間には、国道9号国道372号国道27号に長距離トラックや長距離バスが殺到した。

中国自動車道では、吹田JCT西宮北ICの間が不通となった。このことから、近畿地方内で京阪神を経由せずに、亀山東海道沿線)や米原中山道沿線)から姫路(山陽道沿線)まで行くには、北近畿敦賀から和田山までを通らなければ迂回できないということが指摘されている。また、近年、論議がかまびすしい道州制においても、この北近畿迂回路の存在から「地域的・交通的問題を解決するには、交通的一体性を重視した枠組みにすべきだ」という意見が出されている。

震災直後、被災地の幹線道路で大規模な交通規制が実施された。当初は警察署が通行許可標章を発行していたが偽造が出回り渋滞の改善が見込めないため、その後コピーのできない新たな標章「復興標章」「除外標章」への切り替え、標章の交付審査を厳格にした。交通規制は阪神高速3号神戸線の復旧に合わせ徐々に緩和され1996年8月には全て解除となった。交通規制実施道路は次の通りである。

[編集] 海上

神戸港には、フェリーなどが四国九州方面を中心に多く発着していたが、各発着所が壊滅的な損害を受けて使用不能に陥ったため、一時的に大阪南港などに発着地を変更して運航されていた。陸上輸送が麻痺状態に陥っていたため、四国・九州方面とを結ぶメインルートとして機能した。また、大阪-神戸間、神戸-西宮間など短距離の臨時航路も設けられ、代替交通機関として利用された。

[編集] 報道・ネット

  • 震災の情報は報道に大きく取り扱われ、発生後約3日間、テレビ・ラジオはほぼ全てのチャンネルが、24時間震災関連の特別番組となり、コマーシャルも殆ど放送されなかった。
  • 大阪に本社を持つ近畿広域圏の民放テレビ各局[18]は、地震発生から数日間は完全にCM枠を抜いて震災報道を全国に発信し続け、近畿圏以外でコマーシャルが流れるようになってからも近畿では一定期間CMを流さず、CM中にはライフライン情報を静止画で流していた。独立UHF放送局であるサンテレビジョン[19]は、1月17日から1月22日まで106時間28分、独立ラジオ局であるラジオ関西[20]、1月17日から1月20日まで69時間放送を続けた。さらに、当時独立FM局であったKiss-FM KOBE[21]は、1月17日から3月頃までCMを抜いて震災放送を行い、英語の話せるサウンドクルー(DJ)による外国人被災者向けの情報発信も行われた。震災放送のためFMフェニックスも設けられた。震災は外国人向けの情報の必要性が認識されたことでFM CO-CO-LOをはじめとする外国語放送設立のきっかけとなり、また市町村単位の情報が課題とされ、3年前に制度が整備されていたコミュニティ放送制度が全国的に脚光を浴びることとなった。
  • NHK教育テレビジョンNHK-FM放送では、数日間にわたって(特に、近畿向けには136時間の連続放送を含む)被災地域の視聴者に向けた安否確認情報放送が初めて適用された。これらは現在でも、各地域で災害が起きた際に放送されている。
  • 近畿広域圏では、約7日後から一部通常番組を流し始めたが、お笑いなどの娯楽番組は差し控えられた。例外として発生3日後の1月20日の夜に、『探偵!ナイトスクープ』(ABC)が放送された(当該項目を参照のこと)。また『鶴瓶上岡パペポTV』(読売テレビ)では、震災の翌週の放送で、通常の客席を入れたトークではなく、笑福亭鶴瓶上岡龍太郎による、2人が実際に見聞きした震災に関する話題や救助活動を妨げかねないマスコミの報道姿勢に対する疑問を呈したトークを行った(当該項目を参照のこと)。

神戸新聞社は地震により本社社屋が全壊。新聞編集用コンピュータシステム(CTS、社では「ホストコンピュータ」と呼んでいた)の機器及び専用高圧電源が損傷し、新聞編集が不可能になったものの、前年に京都新聞社と締結していた災害援助協定を発動。たまたまつながった電話で情報を送り京都で見開き4ページの夕刊を編集し制作した。印刷用原版のフィルムを京都新聞の下請け運送会社の社員がオートバイで6時間かけて神戸市西区の印刷工場まで輸送し、当日午後7時31分、夕刊発行に成功した。その後全国の新聞社からの機材支援取引先の全面協力により、10日後一部のシステム再稼働に成功している(ドラマ「阪神・淡路大震災から15年 神戸新聞の7日間 〜命と向き合った被災記者たちの闘い〜」)。

デイリースポーツは日本経済新聞及び関連会社の全面協力を受けて東京で紙面を作成し発行を継続した。

一方で、全国区を取り仕切る関東広域圏の対応は、上記の時間が過ぎてから概ね通常の放送体制に戻っていったが、それでも、ニュースワイドショーといった多くの生放送番組、及び「地震から2週間」「1ヶ月」「2ヶ月」といった節目では、被災地の状況を伝えるルポを数多く伝え、被災者へのエールや義援金の呼びかけなどを行っていた。しかし、それ以外の局面では地震関連情報は全国放送から近畿広域圏のみに徐々に絞られていき、特に、約2ヶ月後の地下鉄サリン事件が発生してからは、この傾向は顕著となった。

震災当時、日本のインターネットにおいて商用利用、個人利用はまだ始まったばかりであったが、パソコン通信ネットワーク(「NIFTY-Serve」(現・@nifty)など)の掲示板や電子会議室が、被災者情報や大学の休講状況などの情報交換に役立った。以後、コンピュータネットワークの商用利用、個人利用に、マニア以外からも目が向けられるようになっていくこととなった。

さらに行政による救援、救助活動が後手に回った一方、前述の組織・団体、特に宗教団体暴力団などによる現場での救助・支援活動は、日本のマスメディアで報道されることは少なかった。諸団体の宣伝につながりかねないとの懸念からであった。その中で、JNNTBS)系が、地震から3日目の1995年1月19日にJNNニュースの中で、神戸市内に本拠を置く、日本最大の広域指定暴力団・山口組の総本部が備蓄していた大量の食料を地元住民に供出する様子を、「住民の苦渋の選択」として報道した。このとき山口組は石油暖房機を積んだトラックを用意し毎日手際よく食事を出したりし、多くの被災者が集まった。

報道機関としては、山口組の宣伝にならないよう決して与しない慎重な扱いであったが(大谷昭宏が『こちら大阪社会部 阪神大震災編』の中で触れ、谷とデスクが採り上げるべきか否かで議論する様子を描写している)、無数のヤクザに頭を下げながら一般市民が列をなして食料をもらう姿は、震災の過酷な現実の一断面を描くものであった。など日本国外のマスメディアも追随し、BBCは「政府の救助活動は遅々として進まないのに、現地のマフィア(ここでは山口組を指す)が救助活動を行っている」と報道した(注:三和出版『実話時代2008年2月号』の「外国メディアの方が日本のメディアに先んじて報じた」という指摘は、誤報ないしは虚報である)。

震災当時暴力団が救援活動に当たっていた事は有名であるが、一方で震災に乗じて災害援護資金を不正に受けたり、建設会社に対し工事の受注を要求する等の触法行為を犯していた事も事実である。警察は暴力団のこういった問題行為を見越して、移動暴力相談車を利用した「巡回暴力相談所」を開設するなどの臨時対策を採っていた[22]

[編集] 報道倫理に関わる問題

報道倫理に関わる問題として過剰な取材活動が挙げられる。地震発生直後、マスメディア各社が航空取材活動を開始しているが、地震直後から始まった航空映像によって首相官邸など被災地外の人々が地震の被害状況を素早くつかむことが出来た反面、この取材活動におけるヘリコプターによる騒音により、家屋の下敷きとなった被災者の声を聞き取れずに救助隊の初期活動の大きな妨げとなったとする指摘がある。1995年2月7日、衆議院地方行政委員会において、伝聞情報をもとに、この問題が取り上げられている。ただ、ヘリコプターの音で具体的に何人救出できなかったのかを科学的に検証したデータは存在せず、あいまいな部分もある。その後、関西の放送局間では、大災害発生時にはヘリコプターの飛行数を相互制限し、映像を各社で共有する方法などが検討されている。

また、一部の報道陣が被災者のための炊き出しを、取材のためと称して食したり[要出典]、夜明け前の避難所内の模様を、撮影用の照明で明るくしたりするといった光景も見られた[要出典]

それに悲惨な様子のみを取り上げる報道も目立った。当時の日本銀行神戸支店長・遠藤勝裕フジテレビの番組『日本のよふけ』(2001年10月7日放送)において語ったところによると、まるで神戸が壊滅してしまったかのようなマスメディアの報道ぶりを定例記者会見で批判し、「神戸には生き残った市民がたくさんいる。市民が生きている限り、神戸は悲惨ではあるが壊滅はしていない」と発言していたが無視され、一切報道される事はなかった。遠藤は「日銀の支店長がこういう事を言ったと報道してくれれば、少しでも被災者を勇気づけられたのに残念だ」と語っていた。

[編集] 人口

神戸市の人口は、2004年11月には震災前の人口に戻っているが、中央区より西側の兵庫区・長田区・須磨区・垂水区では、社会の高齢化少子化少子高齢化)の影響もあって人口が震災前の水準に戻らずに減少に転じる区も出ている。特に、長田区においては深刻な状況となっている。一方で、同市中央区・灘区・東灘区では、利便性の高さから工場跡地などでの再開発により、分譲マンションの建設ラッシュが起こっており、西宮市にかけての地域に小学校供給が追いつかなくなってきている。

[編集] 文化・スポーツ

宝塚歌劇団の本拠地・宝塚市宝塚大劇場も大きな被害を受けた。竣工して数年であったが壁に亀裂が入ったほか、大劇場内の消火用スプリンクラーが誤作動し座席が濡れるなどした。およそ2ヶ月半の間公演不能の状態になり、安寿ミラの退団公演を上演していたが公演中止を余儀なくされた。3月、「国境のない地図」において公演を再開。

神戸国際会館も全壊し、予定されていた公演を中止や会場を移しての公演になった。1995年12月に神戸ハーバーランドの空き地を借用して建設した仮設公演施設「神戸国際会館ハーバーランドプラザホール」が完成し、神戸での公演が本格的に再開された。

阪神競馬場阪神甲子園球場の一部が損壊。この年の「大阪国際女子マラソン」も中止を余儀なくされた。また、4月にTIサーキット英田(現・岡山国際サーキット)で開催予定だったF1パシフィックグランプリも10月に延期された。鈴鹿サーキットでの日本グランプリとの連続開催が緊急に実現した事によってF1グランプリの「日本シリーズ」が実現した。この年に予定されていたゆうあいピック兵庫・神戸大会も中止になった。

六甲アイランドで1月21日に開催予定だった日本陸上競技選手権大会男子20キロ 女子20キロ競歩が中止され、翌2月に千葉市で代替開催された。2007年4月、このときの恩返しとして、同年3月の能登半島地震で被災した石川県輪島市で行なわれる予定だった別の競歩大会を六甲アイランドにて代替開催した。

第67回選抜高等学校野球大会(春の甲子園)については、「中止すべき」という意見があったものの、吹奏楽などによる鳴り物演奏を自粛した上で予定通りに実施された。

プロ野球オリックスブルーウェーブは『がんばろうKOBE』をスローガンに1995年、1996年と連覇(1996年は日本一)を成し遂げ、被災者を勇気付けた。また、毎年恒例だった正月映画・男はつらいよシリーズの、12月に公開された第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』では、神戸市側から松竹へロケの要請があったことや、山田洋次監督の元に、復興に努めていた夫妻からファンレターが届いたことがきっかけで、当時市民による復興が行われていた神戸市長田区が舞台となり、神戸の復興とボランティアがテーマとなった。

JFLヴィッセル神戸は1995年1月1日に正式にヴィッセル神戸として始動。日本プロサッカーリーグ昇格を目指し、1月17日に初練習をする予定だった。だが、震災により岡山県倉敷市での練習開始を余儀なくされ、神戸では練習場の確保が困難であるため、練習場を転々とせざるを得なかった。また、このように震災の日にチームが生まれたことを祈念するため、ホームスタジアムでの試合ではサポーター達により、試合前に「神戸讃歌」が歌われ続けている。

[編集] 震災景気

土建業、土木機械製造業など、一部の業界はその後、約10年間にわたり好景気が続いた。但し、これらは悲惨な大震災であった為、一般に報道されることがなかった。この様な報道は、視聴者の反発が予想され、視聴率が取れないためといわれている。

[編集] デパート

そごう神戸店も本館が半壊した部分の解体撤去(この撤去した部分が現在のサンファーレ広場となっている)を含めた復旧工事の末、1996年4月28日に全館オープンした(新館と本館地階はそれ以前から再開していた)。大丸神戸店は、本館の3階部分が倒壊したために取り壊して新館として再建。西館についても全面改装を施して1997年3月に復興グランドオープンした。

一方で、三宮阪急は、入居していた神戸阪急ビル東館の上層階が崩落する全壊のため解体撤去することとなり震災5日後に閉店に追い込まれたのちに、ついに再開されることはなかった(ただし、震災前の1992年に神戸ハーバーランドに神戸阪急が開店している)。神戸デパートも、被災をきっかけに閉店した。

やや離れた大阪市でも北浜の三越大阪店の本館が被災して解体され、売場面積を大きく減らした。これが10年後の2005年に閉店する一因となった[23]

[編集] その他

  • 同震災で、被災者らが避難生活中にどこでも使えるカセット式のガスコンロを調理などに利用していたが、当時のカセットコンロではカセットボンベの規格が数種類あったため、被災者間においてカセットボンベの貸し借りができない場合があり、メーカー側に疑問が呈された。これを教訓として日本工業規格においてカセットこんろ(JISS2147)およびカセットこんろ用燃料容器(JISS2148)の規格が登録されている。
  • 日本国郵政省(現在の日本郵便)が、1995年4月20日に阪神・淡路大震災寄附金付切手を発売した。これは額面80円の切手を100円で販売し、差額の20円を震災支援の寄付金としたもので額面は「80+20」と表記されていた。ただしデザインは準備が間に合わなかった為、例年発行されている「切手趣味週間」の切手に便乗する形になった。そのため、金島桂華の『画室の客』という絵画がデザインであり、被災地に全く関係ないものとなった。印刷数5000万枚のうち約4728万8000枚が販売され、諸経費を除いた9億4000万円が地元に配分された。
  • その後、郵政省は2000年12月22日発行の「20世紀デザイン切手」の17集のなかで、同震災の事を題材にした切手を発行している。デザインは復興のシンボルとされた手塚治虫の「火の鳥」と阪神・淡路地区の地図と倒壊した高速高架道路をイメージしたものであった。
  • 日本銀行神戸支店は震災による金融パニックを防止の為、大蔵省神戸財務事務所長と神戸支店で緊急協議し、大蔵省及び日本銀行本店に対して金融特別措置発令を要請。本人確認が取れれば、通帳や印鑑なしでの預金引き出しを可能にしたほか、支店の2階に被災した銀行窓口を開設し、破損したり燃えた紙幣の交換等の業務を行い、パニックを防止した。この際神戸支店長はNHKラジオに生出演し、これらの措置に関して説明した。
  • 井戸敏三兵庫県知事は2008年11月11日に行われた近畿ブロックの知事会議において「東京一極集中を打破するための旗を揚げなければならない。関東で震災が起きれば東京は相当なダメージを受ける。これはチャンスですね」と発言し、当初は謝罪を渋ったものの猛抗議を受けた後謝罪した。

[編集] 地震の呼称

マスメディアなどが略称として「阪神大震災」と報じていたことに疑問を持つ被災者もいる。大都市・大工業地帯・観光都市の一つである神戸・阪神地区だけが壊滅的な被害を受けた様に表現され、同様に甚大な被害を受けた淡路島北部や明石市などが考慮されていないからである。

そのために、「阪神・淡路大震災」と呼ばれるようになってはいるが、この表現でさえ明石市は含まれていないとして同市の広報資料などでは「兵庫県南部地震」を震災の呼称としている。

大阪府下では、豊中市を除くとそれほど大きな被害が生じていないにもかかわらず、「阪」の文字が入っているのは、兵庫県内における地域区分である「阪神」間(灘区・東灘区・芦屋市・尼崎市・西宮市近辺)における被害が甚大であったためである。なお、豊中市では南部を中心に甚大な被害が出ており、死者9名が出たほか、避難所暮らしを余儀なくされた人も多い。

朝日新聞や系列のスポーツ新聞日刊スポーツでは、翌日の1月18日の段階では「関西大震災」の呼称で報道した[24]

[編集] 震災の反省

最も重要な問題、すなわち古い住宅の耐震性がなくても違法とならない問題は変更されなかった。老朽化した木造の瓦屋根に死者が集中したのを受け、建築基準法を改正した。

また耐震性の小さな建造物にも被害が多く発生したことを受け、消防庁では公共施設の耐震改修を指導している[8]

しかし、「阪神・淡路大震災」の起こった兵庫県でさえ、公共施設の耐震化率は48.3%にとどまっている。東京78.1%(消防庁 2003、各都道府県耐震改修状況)に比べて耐震化は遅れている。さらに、民間の会社施設・マンションにおいての耐震化率はきわめて低いのが現状である。

さらに、ほとんど犠牲者が出なかった公共施設の耐震化は進んでいるが、犠牲者の80%以上を出した民間の耐震性のない木造住宅の耐震補強はほとんどなされていないのが現状である。

また、震災の犠牲者6434人のおよそ1割に当たる約600人が、室内家具の転倒による圧死と推定する調査(山口大・大田教授のグループ)があったことから、震災発生後しばらくは「家具転倒防止金具」を購入する人が多く見られたが、今では普及が鈍化している。

[編集] 追悼行事

1.17追悼行事(東遊園地
1.17希望の灯り(東遊園地)

毎年1月17日は、東遊園地などの広場・協会などにおいて式典が行われている。発生時刻の午前5時46分と、その12時間前と12時間後の午後5時46分に黙祷を行う。また、伊丹市昆陽池公園では、発生時刻の12時間前にあたる16日午後5時46分に黙祷を行い、ロウソクを発生時刻にあたる17日午前5時46分まで点灯している。神戸市中央区三宮にある東遊園地では広場に6,000本の灯篭で模った「1.17」を北側の神戸市役所庁舎を正面に掲示される。また、この灯篭が消えた場合は、式典開催者は手をつけずに、訪れた人々にろうそくを渡して点火してもらっている。灯篭は毎年若干の違いがあるものの5時から21時まで点火されている。

また1995年より毎年12月に、鎮魂と追悼・街の復興を祈願して神戸ルミナリエが開催されている。

被災地が即急に復興できたのは多くの支援者・ボランティアのおかげであったため、被災者は今も支援者に感謝の気持ちを声明や催し物によって示している。また、神戸市はこの支援活動の教訓や当時の恩返しの意味を込めて新潟県中越地震スマトラ島沖地震の時はどこよりも人材、資材などの援助を行ってきている。また、防災事業では、現在においてもこの震災を例に挙げられることが多く防災事業の原点となりつつある。

神戸市立小学校の音楽教諭である臼井真作曲・作詞の『しあわせはこべるように』という歌が復興の歌として取り上げられることが多く、各種学校団体をはじめ多くの追悼行事で歌われている(今ではCooley High Harmonyが歌っている)。

[編集] 阪神・淡路大震災を題材にした作品

阪神・淡路大震災をめぐって、多くの作品が発表されている。主な作品は、次の通りである。

[編集] 小説・詩

[編集] 漫画

[編集] 映画

[編集] ドラマ


[編集] 演劇

[編集] 音楽

[編集] 脚注

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  1. ^ 一部のモニュメントや資料においてM7.2とするものもあるが、これは、2001年4月23日気象庁がマグニチュードの算出方法の変更により7.3に修正したためである。
  2. ^ 地震による顕著な被害があった場合には、気象庁長官はその地震について命名すると定めている。基準は、100kmよりも浅い直下型・M7.0以上、同じく海洋型・M7.5以上・全壊100棟程度以上など。
  3. ^ 死者、住家被害、火災被害、その他被害の数値は消防庁発表「阪神・淡路大震災について(第107報)」(2003/12/25)より
  4. ^ HEM-Net
  5. ^ 埋もれた記憶 西宮・仁川の地滑り(神戸新聞)
  6. ^ 2008年8月放送「衝撃の瞬間~神戸を襲った大震災」(ナショナルジオグラフィックチャンネル)より
  7. ^ 連載<「圧死」を追う>被災地発・問わずにいられない(2)検案書は語る(神戸新聞)
  8. ^ a b 神戸市においては、当時水道局の存在していた神戸市役所2号館6階が7・8階部分に押し潰される形で被災したため、即時に資料が用意できず、水道管の経路情報の把握に時間を要するなど復旧に影響を及ぼしたとされる。その後、2号館は6階~8階までを撤去し、5階建てとして修復されており、水道局も4号館に移転している。
  9. ^ 神戸新聞 連載<「圧死」を追う>被災地発・問わずにいられない(4)地域の力/高めたか淡路の救命率
  10. ^ a b JNN報道特別番組「失われた街で~阪神大震災から1ヵ月」=1995年2月17日放送。
  11. ^ 阪神・淡路大震災教訓情報資料集『内閣府・(財)ひょうご震災記念21世紀研究機構』より
  12. ^ 衆議院会議録情報 第134回国会 災害対策特別委員会 第4号より
  13. ^ 『官邸応答せよ』から「クビを賭ける、自衛隊を呼べ!」より
  14. ^ さよならファミコン通信 199503
  15. ^ 兵庫県・神戸市が大地震時の危機管理対処規定/自衛隊出動依頼の権限代行者規定を定めていれば被害状況の確認と自衛隊への出動要請が「危機管理・緊急権限代行規定に従い、知事不在でも地震発生後4時間もかからず」なされたはずだし、規定策定の段階に「地震により、消火水道が寸断されて消火不能に陥る」という致命的問題点も消防が指摘したはずであるが、兵庫県・神戸市とも大地震対処危機管理規定を定めていなかった。
  16. ^ 『官かくあるべし―7人の首相に仕えて』より
  17. ^ 一卵性双生児/「戦後」と重なる神戸復興(神戸新聞)
  18. ^ 毎日放送ではニューススタジオにあったセットが倒壊、ABCでは『おはよう天気です』冒頭に地震に襲われた。関西テレビではスタジオの天井にあったスポットライトが転落し、読売テレビではエレベーターが止まる被害を受けた。
  19. ^ 社屋内がぐちゃぐちゃになるほどの被害を受けた。
  20. ^ 放送が6時まで停止したあげく、社屋そのものも全壊する被害を受けた。詳細はシェルタースタジオ117を参照。
  21. ^ サンテレビジョン同様、社屋内がぐちゃぐちゃになるほどの被害を受けた。
  22. ^ 平成7年 警察白書 阪神・淡路大震災に便乗し、暴力団員が違法、不当な行為によって資金の獲得を図っている実態が明らかとなったため、警察では、暴力団対策法を活用するなどして、これら違法行為に対する取締りを徹底している。
  23. ^ 三越大阪店、5日閉店…315年の歴史に幕
  24. ^ 1995年1月18日各紙朝刊

[編集] 関連項目

[編集] 救助

[編集] 放送・キャンペーン

[編集] 追悼・モニュメント

[編集] 近畿地方で起こった地震

[編集] その他関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

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