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源義経

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源義経
下関市みもすそ川公園の源義経像
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 平治元年(1159年
死没 文治5年4月30日1189年6月15日
改名 牛若、遮那王、義經、義行、義顕
別名 九郎、判官、廷尉、豫州
戒名 通山源公大居士
官位 左衛門尉検非違使従五位下伊予
氏族 清和源氏義朝流(河内源氏
父母 源義朝常盤御前 (養父:一条長成
兄弟 義平朝長頼朝義門希義範頼
全成義円義経坊門姫、女子
廊御方能成、女子(常盤の娘)
正室:河越重頼の娘(郷御前
静御前平時忠の娘
娘、娘(源有綱室)、男児

源 義経(みなもと の よしつね、源 義經)は、平安時代末期の河内源氏武将鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟である。本姓源氏家系清和源氏の一支流、河内源氏の棟梁・源頼信の流れを汲む。仮名輩行名)は九郎、(実名)は義經(義経)である。

河内源氏の当主である源義朝の九男として生まれ、幼名牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に奥州平泉へ下り、奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護を受ける。兄頼朝平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷屋島壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことでその怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。

その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。

目次

[編集] 生涯

源九郎義経が確かな歴史に現れるのは、黄瀬川で頼朝と対面した22歳から31歳で自害するわずか9年間であり、その前半生は史料と呼べる記録はなく、謎に包まれている。今日伝わっている牛若丸の物語は、歴史書である『吾妻鏡』に短く記された記録と、『平治物語[1]や『源平盛衰記』の軍記物語、それらの集大成としてより虚構を加えた物語である『義経記』などによるものである。

[編集] 誕生

清和源氏の流れを汲む河内源氏の当主源義朝の九男として生まれ、牛若丸(うしわかまる)と名付けられる。母常盤御前九条院雑仕女であった。父が平治元年(1159年)の平治の乱で平清盛に敗れ、数え年2歳の牛若は、母の腕に抱かれて2人の同母兄・今若乙若とともに大和奈良県)の山中を逃亡した。しかし常盤は実母が捕まったことを知ると、清盛の元に出頭して3人の子と母の助命を乞い、その許しを得た。

後に常盤は公家一条長成に嫁ぎ、牛若丸は7歳の時鞍馬寺京都市左京区)に預けられ、稚児名を遮那王(しゃなおう)と名乗った。そして11歳(15歳説も)の時、自分の出生を知ると、僧になる事を拒否して鞍馬山を駆け回り、武芸に励んだ[2]

遮那王は成人するに至って父を滅ぼした平家に対する復讐の念を抱き、16歳の時に鞍馬寺を出奔する。自らの手で元服を行い、奥州藤原氏宗主、鎮守府将軍藤原秀衡を頼って奥州平泉に下った。秀衡の舅で政治顧問であった藤原基成は一条長成の従兄弟の子で、その伝をたどった可能性が高い[3]。『平治物語』では近江国蒲生郡鏡の宿で元服したとする。『義経記』では父義朝の最期の地でもある尾張国にて元服し、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って実名義経としたという。

[編集] 治承寿永の乱

詳細は治承・寿永の乱を参照

黄瀬川八幡神社にある頼朝と義経が対面し平家打倒を誓ったとされる対面石

治承4年(1180年8月17日に兄頼朝伊豆で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。秀衡から差し向けられた佐藤継信佐藤忠信兄弟等およそ数十騎[4]が同行した。義経は富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で涙の対面を果たす。頼朝は、義経ともう一人の弟の範頼に遠征軍の指揮を委ねるようになり、本拠地の鎌倉に腰を据え東国の経営に専念することになる。

平氏を破り、京を支配していた源義仲と頼朝が対立。寿永2年(1183年)に範頼と義経は大軍を率いて近江国へ進出した。翌寿永3年(1184年)正月、範頼と義経は宇治川の戦いで義仲を討ち取り、頼朝の代官として入京した。

この間に平氏は西国で勢力を回復し、福原兵庫県神戸市)まで迫っていた。義経は、範頼とともに平氏追討を命ぜられ、2月4日、義経は搦手軍を率いて播磨国へ迂回し、三草山の戦いで夜襲によって平資盛らを撃破。範頼は大手軍を率いて出征した。2月7日一ノ谷の戦いで義経は精兵70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平家本陣を奇襲する。平氏軍は大混乱に陥り、鎌倉軍の大勝となった[5]。上洛の際、名前も知られていなかった義経は、義仲追討・一ノ谷の戦いの活躍によって歴史上の表舞台に登場する事となる。

一ノ谷の合戦後の元暦元年(1184年)6月、朝廷の小除目が行われ、頼朝の推挙によって範頼ら源氏3人が国司に任ぜられたが、そこに任官を願っていた義経の名は無かった。8月6日、義経は頼朝の推挙を得ずに後白河法皇によって左衛門少尉検非違使少尉判官)に任官し、従五位下に叙せられ院への昇殿を許された。鎌倉には「これは自分が望んだものではないが、法皇が度々の勲功を無視できないとして強いて任じられたので固辞する事ができなかった」と報告。頼朝は「意志に背く事は今度ばかりではない」と激怒して義経を平氏追討から外してしまう。8月、範頼は大軍を率いて山陽道を進軍して九州へ渡る。9月、義経は河越重頼の娘(郷御前)を正室に迎えた。

一方、範頼の遠征軍は兵糧と兵船の調達に苦しみ、進軍が停滞してしまう。頼朝はやむなく義経の投入を決意。元暦2年(1185年)2月、新たな軍を編成した義経は、暴風雨の中を少数の船で出撃。通常3日かかる距離を数時間で到着し、四国讃岐瀬戸内海沿いにある平氏の拠点屋島を奇襲する。山や民家を焼き払い、大軍に見せかける作戦で平氏を敗走させた(屋島の戦い)。

範頼も九州へ渡ることに成功し、最後の拠点である長門国彦島に拠る平氏の背後を遮断した。義経は水軍を編成して彦島に向かい、3月24日(西暦4月)の壇ノ浦の戦いで勝利して、ついに平氏を滅ぼした。宿願を果たした義経は法皇から戦勝を讃える勅使を受け、一ノ谷、屋島以上の大功を成した立役者として、平家から取り戻したを奉じて4月24日京都に凱旋する[6]

頼朝代官としてにある時には、後白河院の御所にほど近い六条堀川の河内源氏重代の館である六条室町亭に住み、都の治安維持にあたった。

[編集] 頼朝との対立

平家を滅ぼした後、義経は、兄頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵として追われることになる。

元暦2年(1185年)4月15日、頼朝は内挙を得ずに朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また4月21日、平氏追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状[7]が頼朝に届いた。

一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた平宗盛清宗父子を護送して、5月7日京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れた。このとき、鎌倉郊外の山内荘腰越(現鎌倉市満福寺に義経は留め置かれた。5月24日兄頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近大江広元に託した書状が有名な腰越状[8]である。

義経が頼朝の怒りを買った原因は、『吾妻鏡』によると許可なく官位を受けたことのほか、平氏追討にあたって軍監として頼朝に使わされていた梶原景時の意見を聞かず、独断専行で事を進めたこと、壇ノ浦の合戦後に義経が範頼の管轄である九州へ越権行為をして仕事を奪い、配下の東国武士達に対してもわずかな過ちでも見逃さずこれを咎め立てするばかりか、頼朝を通さず勝手に成敗し武士達の恨みを買うなど、自専の振る舞いが目立った事によるとしている。主に西国武士を率いて平氏を滅亡させた義経の多大な戦功は、恩賞を求めて頼朝に従っている東国武士達の戦功の機会を奪う結果になり、鎌倉政権の基盤となる東国御家人達の不満を噴出させた。

特に前者の許可無く官位を受けたことは重大で、まだ官位を与えることが出来る地位に無い頼朝の存在を根本から揺るがすものだった[9]。また義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇二位尼を自殺に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失した事は頼朝の戦後構想を破壊するものであった。

そして義経の兵略と声望が法皇の信用を高め、武士達の人心を集める事は、武家政権の確立を目指す頼朝にとって脅威となるものであった[10]。義経は壇ノ浦からの凱旋後、かつて平氏が院政の軍事的支柱として独占してきた院御厩司に補任され、平家の捕虜である平時忠の娘を娶った。かつての平氏の伝統的地位を、義経が継承しようとした、あるいは後白河院が継承させようとした動きは、頼朝が容認出来るものではなかったのである。

結局義経は鎌倉へ入る事を許されず、6月9日に頼朝が義経に対し宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放った。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。義経は近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を重衡自身が焼き討ちにした東大寺へ送った[11]。一方京に戻った義経に、頼朝は9月に入り京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく梶原景時の嫡男景季を遣わし、かつて義仲に従った叔父源行家追討を要請した。義経は憔悴した体であらわれ、自身の病と行家が同じ源氏であることを理由に断った。

[編集] 謀叛

義経の一行が逃げ込んだ吉野山

10月、義経の病が仮病であり、すでに行家と同心していると判断した頼朝は義経討伐を決め、家人土佐坊昌俊を京へ送った。10月17日、土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、自ら門戸を打って出て応戦する義経に行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わった。義経は、捕らえた昌俊からこの襲撃が頼朝の命であることを聞き出すと、これを梟首し行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げた。彼らは後白河法皇に再び奏上して頼朝追討の院宣を得たが、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。京都周辺の武士達も義経らに与せず、逆に敵対する者も出てきた。さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。

29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。11月1日に頼朝が駿河国黄瀬川に達すると、11月3日義経らは西国九州の緒方氏を頼り、300騎を率いて京を落ちた。途中、摂津源氏多田行綱らの襲撃を受け、これを撃退している(河尻の戦い)。6日に一行は摂津国大物浦兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは不可能となった。一方11月11日、義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。さらに頼朝は、義経らの追捕のためとして、諸国への守護地頭の設置を求め、入洛させた北条時政の交渉の末、設置を認めさせた。

義経は郎党や愛妾の白拍子静御前を連れて吉野に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。逃れた義経は反鎌倉の貴族寺社勢力に匿われ京都周辺に潜伏するが、翌年の文治2年(1186年)5月に和泉国で叔父・行家が鎌倉方に討ち取られ、各地に潜伏していた郎党達も次々と発見され殺害される。院や貴族が義経を逃がしている事を疑う頼朝は、同年11月に「京都側が義経に味方するならば大軍を送る」と恫喝している。

京都に居られなくなった義経は、藤原秀衡を頼って奥州へ赴く。『吾妻鏡』文治3年(1187年2月10日の記録によると、義経は追捕の網をかいくぐり、伊勢美濃国を経て奥州へ向かい、正妻と子らを伴って平泉に身を寄せた。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたという。

[編集] 最期

高舘義経堂から見た北上川と束稲山

藤原秀衡は関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年(1187年10月29日に病没した。頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。一方、義経は文治4年(1188年)2月に出羽国に出没し、鎌倉方と合戦をしている。また文治5年(1189年)1月には義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている。

しかし泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して父の遺言を破り、義経を慕っていた弟の頼衡を殺害。そして4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成衣川館に襲った。義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討たれた。

館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であった。

泰衡は義経の首を差し出し、先に殺害した弟頼衡と同じく義経派であった別の弟忠衡も殺して、頼朝に助命を願い出る。しかし鎌倉は奥州追討に乗り出し、逃亡した泰衡は家人に裏切られ殺害された。義経の首は泰衡の弟・高衡に護衛され、43日間かけて鎌倉に送られた。首は、美酒に浸けて運ばれたものの、折からの暑気で腐敗し、誰の首かわからなくなったという。このことが義経不死伝説を生む一因となっている。文治5年(1189年6月13日首実検和田義盛梶原景時らによって、腰越の浦で行われた。

伝承ではその後、首は藤沢に葬られ白旗神社に祀られたとされ、胴体は栗原市栗駒沼倉の判官森に埋葬されたと伝えられる。また、最期の地である奥州市衣川区の雲際寺には、自害直後の義経一家の遺体が運び込まれたとされ、義経夫妻の位牌が安置されていたが、平成20年(2008年)8月6日、同寺の火災により焼失した。

[編集] 人物

[編集] 系譜

義経は九郎の通称から明らかなように、父義朝の九男にあたる。一説には実は八男だったが武名を馳せた叔父為朝が鎮西八郎という仮名(けみょう)であったのに遠慮して「九郎」としたともいわれるが、伝説の域を出ない。義朝の末子であることは確かである。

源義平、源頼朝、源範頼らは異母兄であり、義経の母常盤御前から生まれた同母兄として阿野全成(今若)、義円(乙若)がいる。また母が再婚した一条長成との間に設けた異父弟として一条能成があった。

妻には頼朝の媒酌による正室の河越重頼の娘(郷御前)、鶴岡八幡宮の舞で有名な愛妾の白拍子静御前、平家滅亡後に平時忠が保身の為に差し出したとされる時忠の娘がある。子には、都落ち後の逃避行中に誕生し衣川館で死亡した4歳の女児、静御前を母として生まれ出産後間もなく鎌倉の由比ヶ浜に遺棄された男児、伊豆源有綱摂津源氏源頼政の孫)の妻になった女子の3人が確認される。

[編集] 人間像

死後何百年の間にあらゆる伝説が生まれ、実像を離れた多くの物語が作られた義経であるが、以下には史料に残された義経自身の言動と、直接関わった人たちの義経評を上げる。

  • 『吾妻鏡』治承4年(1180年)10月21日条によると、奥州にいた義経が頼朝の挙兵を知って急ぎ頼朝に合流しようとした際、藤原秀衡は義経を強く引き留める。しかし義経は密かに館を逃れ出て旅立ったので、秀衡は惜しみながらも留める事を諦め、追って佐藤兄弟を義経の許に送った。
  • 同じく『吾妻鏡』によると、養和元年(1181年)7月20日 鶴岡若宮宝殿上棟式典で、頼朝は義経に大工に賜る馬を引くよう命じた。義経が「ちょうど下手を引く者がいないから(自分の身分に釣り合う者がいない)」と言って断ると、頼朝は「畠山重忠佐貫広綱がいる。卑しい役だと思って色々理由を付けて断るのか」と激しく叱責。義経はすこぶる恐怖し、直ぐに立って馬を引いた。
  • 『玉葉』によると、寿永3年(1184年)2月9日一ノ谷の合戦後、義経は討ち取った平家一門の首を都大路に引き渡し獄門にかける事を奏聞する為、少数の兵で都に駆け戻る。朝廷側は平家が皇室の外戚である為、獄門にかける事を反対するが、義経と範頼は、これは自分達の宿意(父義朝の仇討ち)であり「義仲の首が渡され、平家の首は渡さないのは全く理由が無い。何故平家に味方するのか。非常に不信である」と強硬に主張。公卿達は義経らの強い態度に押され、結局13日に平家の首は都大路を渡り獄門にかけられた。
  • 吉記』元暦2年(1185年)正月8日条によると、平家の残党を恐れる貴族達は、四国へ平家追討に向かう義経に都に残るよう要請するが、義経は「2,3月になると兵糧が尽きてしまう。範頼がもし引き返す事になれば、四国の武士達は平家に付き、ますます重大な事になります」と引き止める貴族達を振り切って出陣する。『吾妻鏡』によると、2日16日に屋島へ出陣する義経の宿所を訪れた公家の高階泰経(後白河院の使いだったとされる)が「自分は兵法に詳しくないが、大将たる者は先陣を競うものではなく、まず次将を送るべきではないか」と訊いた。これに対し義経は「殊ニ存念アリ、一陣ニオイテ命ヲ棄テント欲ス(特別に思う所があって、先陣において命を捨てたいと思う)」と答えて出陣した。『吾妻鏡』の筆者はこれを評し、「尤も精兵と謂うべきか(非常に強い兵士と言うべきか)」と書いている。また18日、義経は船で海を渡ろうとしたが、暴風雨が起こって船が多数破損した。兵達は船を一艘も出そうとしなかったが、義経は「朝敵を追討するのが滞るのは恐れ多い事である。風雨の難を顧みるべきではない」と言って深夜2時、暴風雨の中を少数の船で出撃し、通常3日かかる距離を4時間で到着した。
  • 壇ノ浦の合戦後に届いた義経の専横を批判する梶原景時の書状[7]を受けて、『吾妻鏡』は「自専ノ慮ヲサシハサミ、カツテ御旨ヲ守ラズ、ヒトヘニ雅意ニマカセ、自由ノ張行ヲイタスノ間、人々恨ミヲナスコト、景時ニ限ラズ(義経はその独断専行によって景時に限らず、人々(関東武士達)の恨みを買っている)」と書いている。その一方で義経の自害の後、景時と和田義盛ら郎従20騎がその首を検分した時、「観ル者ミナ双涙ヲ拭ヒ、両衫ヲ湿ホス(見る者皆涙を流した)」とあり、義経への批判と哀惜の両面が伺える。
  • 壇ノ浦合戦後、義経を密かに招いて合戦の様子を聞いた仁和寺御室守覚法親王の記録『左記』に「彼の源延尉は、ただの勇士にあらざるなり。張良三略陳平六奇、その芸を携え、その道を得るものか(義経は尋常一様でない勇士で、武芸・兵法に精通した人物)」とある。
  • 『玉葉』・『吾妻鏡』によると、頼朝と対立した義経は文治元年(1185年)10月11日と13日に後白河院の元を訪れ、「頼朝が無実の叔父を誅しようとしたので、行家もついに謀反を企てた。自分は何とか制止しようとしたが、どうしても承諾せず、だから義経も同意してしまった。その理由は、自分は頼朝の代官として命を懸けて再三大功を立てたにも関わらず、頼朝は特に賞するどころか自分の領地に地頭を送って国務を妨害した上、領地をことごとく没収してしまった。今や生きる望みもない。しかも自分を殺そうとする確報がある。どうせ難を逃れられないなら、墨俣辺りに向かい一矢報いて生死を決したいと思う。この上は頼朝追討の宣旨を頂きたい。それが叶わなければ両名とも自害する」と述べた。院は驚いて重ねて行家を制止するよう命じたが、16日「やはり行家に同意した。理由は先日述べた通り。今に至っては頼朝追討の宣旨を賜りたい。それが叶わなければ身の暇を賜って鎮西へ向かいたい」と述べ、天皇・法皇以下公卿らを引き連れて下向しかねない様子だったという。
  • 追いつめられた義経が平家や木曾義仲のように狼藉を働くのではと都中が大騒ぎになったが、義経は11月2日に四国・九州の荘園支配の権限を与える院宣を得ると、3日早朝に院に使者をたて「鎌倉の譴責を逃れる為、鎮西に落ちます。最後にご挨拶したいと思いますが、武装した身なのでこのまま出発します」と挨拶して静かに都を去った。『玉葉』の著者である公家の九条兼実は頼朝派の人間であったが、義経の平穏な京都退去に対し「院中已下諸家悉く以て安穏なり。義経の所行、実に以て義士と謂ふ可きか。洛中の尊卑随喜せざるはなし(都中の尊卑これを随喜しないものはない。義経の所行、まことにもって義士というべきか)」「義経大功ヲ成シ、ソノ栓ナシトイヘドモ、武勇ト仁義トニオイテハ、後代ノ佳名ヲノコスモノカ、歎美スベシ、歎美スベシ(義経は大功を成し、その甲斐もなかったが、武勇と仁義においては後代の佳名を残すものであろう。賞賛すべきである)」と褒め称えている。

[編集] 容貌・体格

中尊寺所蔵の義経像(戦国時代江戸時代作)
歌川国芳画の義経主従(江戸時代)

義経の容貌に関して、同時代の人物が客観的に記した史料や、生前の義経自身を描いた確かな絵画は存在しない。義経肖像としてよく用いられる中尊寺所蔵の画像は弁慶と対になっており、『義経記』で藤原泰衡に襲撃される場面を描いたものであるが、これは戦国時代、もしくは江戸時代の作とされ、本人の実際の姿を描いたものではない。

身長に関しては義経が奉納したとされる大山祇神社の甲冑を元に推測すると150cm前後くらいではないかと言われている。しかし甲冑が義経奉納という根拠はなく、源平時代のものとするには特殊な部分が多く、確かな事は不明である[12]

義経の死後まもない時代に成立したとされる『平家物語』では、平氏の武士・越中次郎兵衛盛嗣が「九郎は色白うせいちいさきが、むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ」(九郎は色白で背の低い男だが、前歯がとくに差し出ていてはっきりわかるというぞ)と伝聞の形で述べている。これは「鶏合」の段で、壇ノ浦合戦を前に平氏の武士達が敵である源氏の武士を貶めて、戦意を鼓舞する場面に出てくるものである[13]。また「弓流」の段で、海に落とした自分の弓を拾った逸話の際に「弱い弓」と自ら述べるなど、肉体的には非力である描写がされている。

『義経記』では、楊貴妃松浦佐用姫にたとえられ、女と見まごうような美貌と書かれている。その一方で平家物語をそのまま引用したと思われる矛盾した記述もある。『源平盛衰記』では「色白で背が低く、容貌優美で物腰も優雅である」という記述の後に、『平家物語』と同じく「木曾義仲より都なれしているが、平家の選び屑にも及ばない」と続く。『平治物語』の「牛若奥州下りの事」の章段では、義経と対面した藤原秀衡の台詞として「みめよき冠者どのなれば、姫を持っている者は婿にも取りましょう」と述べている[14]

江戸時代には猿楽(現)や歌舞伎の題材として義経物語が「義経物」と呼ばれる分野にまで成長し、人々の人気を博したが、そこでの義経は容貌を美化され、美男子の御曹子義経の印象が定着していった。

[編集] 郎党・従者など

五条大橋そばの牛若、弁慶像

斜体は物語のみに見られる人物。


[編集] 伝説

義経と弁慶、明治時代の浮世絵師・月岡芳年による版画

優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して判官贔屓(ほうがんびいき[15])というようになった。また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。

義経伝説の中でも特に有名な武蔵坊弁慶との五条の大橋での出会い、陰陽師鬼一法眼の娘と通じて伝家の兵書『六韜』『三略』を盗み出して学んだ話、衣川の戦いでの弁慶の立ち往生伝説などは、死後200年後の室町時代初期の頃に成立したといわれる『義経記』を通じて世上に広まった物語である。特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「虎の巻」と呼ぶようになった。

また後代には、様々な文物が由緒の古さを飾るために義経の名を借りるようになった。例えば、義経や彼の武術の師匠とされる鬼一法眼から伝わったとされる武術流派が存在する。

[編集] 不死伝説

後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。このような伝説、あるいは伝説に基づいて史実の義経は北方に逃れたとする主張を、源義経北行説と呼んでいる。この伝説に基づいて、寛政11年(1799年)、蝦夷の日高ピラトリ(現 北海道平取町)に義経神社が創建された。

義経北行伝説の原型となった話は、室町時代の御伽草子に見られる「御曹子島渡」説話であると考えられている。これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島」と呼ばれていた北海道に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。このような説話が、のちに語り手たちの蝦夷地(北海道)のアイヌに対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。

[編集] 義経=ジンギスカン説

詳細は義経=ジンギスカン説を参照

この北行伝説の延長として幕末以降の近代に登場したのが、義経が蝦夷地から海を越えて大陸へ渡り、成吉思汗(ジンギスカン)になったとする「義経=ジンギスカン説」である。

この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にある。乾隆帝の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、という噂が流布したり、12世紀に栄えたの将軍に源義経というものがいたと記した偽書『金史別本』(偽作者は日本人)が珍本として喜ばれたりした。

このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し女真人満州人)になったという風説から、明治時代になると義経がチンギス・ハーンになったという説が唱えられるようになった。明治に入り、これを記したシーボルトの著書『日本』を留学先のロンドンで読んだ末松謙澄は、当時中国の属国としか見られていなかった日本の自己主張のために、ケンブリッジ大学の卒業論文で「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」という論文を書き、『義経再興記』(明治史学会雑誌)として日本で和訳出版されブームとなる。

大正に入り、アメリカに学び牧師となっていた小谷部全一郎は、北海道に移住してアイヌ問題に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰するオキクルミが義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って満州モンゴルを旅行した。彼はこの調査で義経がチンギス・ハーンであったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。この本は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーとなる。現代の日本で義経=ジンギスカン説が知られているのは、この本がベストセラーになった事によるものである。

こうしたジンギスカン説は明治の学界から入夷伝説を含めて徹底的に否定され、アカデミズムの世界でまともに取り上げられる事はなかったが、学説を越えた伝説として根強く残り、同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版された。この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、かつての入夷伝説の形成が江戸期における蝦夷地への関心と表裏であったように、領土拡大、大陸進出に突き進んでいた当時の日本社会の風潮があった。

しかし、現在では後年の研究の結果、チンギス・ハーンのおおよその生年も父親の名前もはっきりと判っていることから、源義経=チンギス・ハーン説は科学的には完全に否定されている。

[編集] 近年の研究

[編集] 菱沼一憲

菱沼一憲国立歴史民俗博物館科研協力員)は著書で以下の説を述べている。

頼朝との対立の原因については、確かに、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)八月十七日条には、同年8月6日、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、追討使を猶予されたと書かれている。しかし、同じく『吾妻鏡』八月三日条によると、8月3日、頼朝は義経に伊勢平信兼追討を指示しているので、任官以前に義経は西海遠征から外れていたとも考えられる。また、同月26日、義経は平氏追討使の官符を賜っている。源範頼が平氏追討使の官符を賜ったのが同29日なので、それより早い。つまり、義経が平氏追討使を猶予された記録はないのである。よって、『吾妻鏡』十七日条は、義経失脚後、その説明をするために創作されたものと思われる。

義経は優れた戦略家であり戦術家であった。どの合戦でも、神がかった勇気や行動力ではなく、周到で合理的な戦略とその実行によって勝利したのである。

一ノ谷の戦いでは、義経は夜襲により三草山の平家軍を破った後、平家の地盤であった東播磨を制圧しつつ進軍している。これは、平家軍の丹波ルートからの上洛を防ぐためでもあった。また、義経自身の報告によると、西の一ノ谷口から攻め入っているのであり、僅かな手勢で断崖を駆け下りるという無謀な作戦は実施していない。

屋島の戦いでは、水軍を味方に付けて兵糧・兵船を確保し、四国の反平家勢力と連絡を取り合うなど、1箇月かけて周到に準備している。そして、義経が陸から、梶原景時が海から屋島を攻めるという作戦を立てていたのであり、景時が止めるのも聞かずに嵐の海に漕ぎ出したわけではない。

壇ノ浦の戦いの前にも、水軍を味方に引き入れて瀬戸内海の制海権を奪い、軍備を整えるのに1箇月を要している。また、義経が水手・梶取を弓矢で狙えば、平家方も応戦するはずである。当時、平家方は内陸の拠点を失い、弓箭の補給もままならなかった。そのため序盤で矢を射尽くし、後は射かけられるままとなって無防備な水手・梶取から犠牲になっていったのである。そもそも当時の合戦にルールは存在せず(厳密に言うならば、武士が私的な理由、所領問題や名誉に関わる問題で、自力・当事者間で解決しようとして合戦に及ぶ場合には一騎打ちや合戦を行う場所の指定などがあったことが『今昔物語集』などで確認できる)、義経の勝因を当時としては卑怯な戦法にある、と非難することに対する反論もある。

義経は頼朝の代官として、平家追討という軍務を遂行しつつ、朝廷との良好な関係を構築するという相反する任務をこなし、軍事・政治の両面で成果を上げた。また、無断任官問題は『吾妻鏡』の創作であり、「政治センスの欠如」という評価は当らないのである。

[編集] 佐藤進一

佐藤進一は頼朝と義経の対立について、鎌倉政権内部には関東の有力御家人を中心とする「東国独立派」と、頼朝側近と京下り官僚ら「親京都派」が並立していたことが原因であると主張している。義経は頼朝の弟であり、平家追討の搦手大将と在京代官に任じられるなど、側近の中でも最も重用された。上洛後は朝廷との良好な関係を構築するため、武士狼藉停止に従事しており、頼朝の親京都政策の中心人物であった。その後、関東の有力御家人で編成された範頼軍が半年かかっても平家を倒せない中、義経は西国の水軍を味方に引き入れることで約2箇月で平家を滅ぼした。この結果、政策決定の場でも論功行賞の配分でも親京都派の発言力が強まった。しかし、東国独立派は反発し、親京都政策の急先鋒であった義経を糾弾した。頼朝は支持基盤である有力御家人を繋ぎ止めるため、義経に与えた所領を没収して御家人たちに分け与えた。合戦を勝利に導いたにもかかわらず失脚させられた義経は、西国武士を結集して鎌倉政権に対抗しようとしたのである。

[編集] 上横手雅敬

上横手雅敬鎌倉幕府編纂である『吾妻鏡』に疑問を呈し、義経の無断任官問題が老獪な後白河が義経を利用して頼朝との離反を計り、義経がそれに乗せられた結果であるとする通説を批判している。

頼朝が義経を平家追討に派遣しなかったのは、無断任官に対する制裁などではなく、京都の治安維持に義経が必要であり公家側の強い要望があったからである。後白河は義経の治安維持活動に期待して検非違使左衛門尉に任じた。しかしその結果、義経は後白河の側近に編成された事になり、幕府への奉仕が不可能になったため、それが頼朝の怒りを招いたのである。さらに壇ノ浦合戦後、義経を鎌倉で拘束せず京都へ帰したのは、院御厩司に補され院の側近となった義経を利用して後白河を挑発するためであった。頼朝は後白河を頼朝追討の宣旨を出さざるを得ないように追い込んだ結果、多くの政治的要求を突きつける事に成功したのである。

また伝説の義経像には陰影があり感傷的であるが、実像に近いと思われる『平家物語』の義経像は明るく闊達な勇者であり、何の陰りもない。ところが幕府編纂の『吾妻鏡』は、反逆者であるはずの義経に対して非常に同情的であり、義経の心情に立ち入っている記述が多く見られ、「判官贔屓」の度合いが強い。頼朝については弟達への冷酷さを隠そうとはせず、静御前の舞の場面では、凛然たる静と政子に対し、狭量で頑迷な頼朝という描写は悪意的なものがある。また、義経を讒言した梶原景時を悪人として断じている。景時は北条氏によって幕府から追放された人物である。『吾妻鏡』は「判官贔屓」の構図を作り、源氏から政権を奪った北条氏の立場を正当化していると見られる。

[編集] 元木泰雄

元木泰雄は従来、概ねその記述を信用できると考えられていた『吾妻鏡』について近年著しくすすんだ史料批判と、『玉葉』など同時代の史料を丹念に付き合わせる作業によって、新しい義経像を提示している。

挙兵当時の頼朝は自らの所領や子飼いの武士団もなく、独立心の強い東国武士達が自らの権益を守るために担いだ存在であった。それだけに、わずかな郎党を伴ったに過ぎないとはいえ、自らの右腕ともなり得る弟義経の到来は大きな喜びであった。以後、義経は「御曹司」と呼ばれるが、これは『玉葉』に両者は「父子之義」とあるように頼朝の養子としてその保護下に入ったことを意味し、場合によってはその後継者ともなり得る存在になった(当時、頼朝の嫡子頼家はまだ産まれていなかった)とともに、「父」頼朝に従属する立場に置かれたと考えられる。

義仲追討の出陣が義経に廻ってきたのは、東国武士たちが所領の拡大と関係のない出撃に消極的だったためである。義経・範頼はいずれも少人数の軍勢を率いて鎌倉を出立し、途中で現地の武士を組織化することで義仲との対決を図った。特に入京にあたっては、法住寺合戦で義仲と敵対した京武者たちの役割が大きかった。一ノ谷の戦いも、範頼・義経に一元的に統率された形で行われた訳ではなく、独立した各地源氏一門や京武者たちとの混成軍という色彩が強かった。

合戦後の義経は疲弊した都の治安回復に努めた。代わりに平氏追討のために東国武士たちと遠征した範頼は、長期戦を選択したことと合わせ進撃が停滞し、士気の低下も目立つようになった。これに危機感を抱いた頼朝は、短期決戦もやむなしと判断し義経を起用、義経は見事にこれに応え、西国武士を組織し、屋島・壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡に追い込んだ。これは従軍してきた東国武士たちにとって、戦功を立てる機会を奪われたことを意味し、義経に対する憤懣を拡大する副産物を産み、頼朝を困惑させた。

頼朝は戦後処理の過程で、義経に伊予守推挙という最高の栄誉を与える代わりに、鎌倉に召喚し自らの統制下に置く、という形で事態を収拾しようと考えた。だがその思惑は外れた。義経は、平氏滅亡後直後に法皇から院の親衛隊長とも言うべき院御厩司に補任され、検非違使・左兵衛尉を伊予守と兼務し続け、引き続き京に留まった。後白河は独自の軍事体制を構築するために、義経を活用したのである。治天の君の権威を背景に「父」に逆らった義経。両者の関係はここで決定的な破綻を迎える。

義経は頼朝追討の院宣を得たにも関わらず、呼応する武士団はほとんど現れず、急速に没落した。既に頼朝は各地の武士に対する恩賞を与えるなど果断な処置を講じており、入京以後の義経に協力してきた京武者たちも、恩賞を与える事が出来ない義経には与しなかった。都の復興に尽力し「義士」と称えられた義経がこうした形で劇的に没落したことが京の人々に強い印象を与え、伝説化の一歩となった。

退去した義経らに代わって頼朝の代官として入京し、朝廷に介入を行ったのは、かつての弟たちではなく、頼朝の岳父である北条時政であった。未だ幼年である頼家の外祖父であり、嫡男義時が戦功を義経に奪われるなど、時政は義経に強い敵意を抱いていたと考えられる。その没落によって、時政は頼朝後継者の外戚としての地位を決定付け、勢力拡大の端緒を切り開くことができたのである。

[編集] 脚注

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  1. ^ 義経の少年期を記した「牛若奥州下りの事」の部分は金刀比羅宮本にはなく、学習院本、京師本による。
  2. ^ 鞍馬山で天狗の面を被った落人から剣術の手解きを受けたという伝説は、平治の乱で敗れたのちに、治外法権の地でもあった寺院へ僧や僧兵として落ち延びた源義朝の郎党たちによるものと考えられる。
  3. ^ 藤原秀衡の庇護を得たことについて、伝承によれば遮那王16歳の時に、金売吉次という金商人の手配によったというが、この人物は当時多くいた奥州と都を行き来する商人達を元にした虚構の人物と思われる。
  4. ^ 『吾妻鏡』では「弱冠一人」で宿所を訪れたとあり、『源平盛衰記』では20騎、『平治物語』では100騎を率いていたとする。
  5. ^平家物語』『源平盛衰記』による。信頼性の高い『吾妻鏡』寿永3年2月7日条でも、義経が精兵70騎を率いて鵯越から攻撃したとあり、義経はこの合戦で大きな働きをしたとされている。ただし近年、この「戦い」において義経が果たした役割や、「逆落とし」が実際にあったか等については、様々な異論も提示されている。詳細は一ノ谷の戦い参照。
  6. ^ 『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語では、治承・寿永の乱において義経の参加した合戦は、義経の戦法や機転が戦況を左右したように描かれている。ただし、よく義経の卑怯な戦法として語られる水夫と船頭を射殺した話は、『平家物語』でも義経が命令したという場面はなく、また史料にも無い話である。
  7. ^ a b 「判官どのは君(頼朝)の代官として、その威光によって遣わされた御家人を従え、大勢の力によって合戦に勝利したのにも関わらず、自分一人の手柄であるかのように考えている。平家を討伐した後は常日頃の様子を超えて猛々しく、従っている兵達はどんな憂き目にあうかと薄氷を踏む思いであり、皆真実に和順する気持ちはありません。自分は君の厳命を承ってるものですから、判官殿の非違を見るごとに関東の御気色に違うのではないかと諫めようとすると、かえって仇となり、ややもすれば刑を受けるほどであります。幸い合戦も勝利した事なので早く関東へ帰りたいと思います」
  8. ^ 「私は兄上の代官として、朝敵を滅ぼし、先祖代々の弓矢の芸を世に示し、父の仇を討って名誉を回復しました。当然賞賛されるべき所を、思わぬ讒言にあい、莫大な勲功を黙殺され、功績があっても罪はないのに、御勘気を被り、空しく涙にくれております。生まれてすぐ父が亡くなり、母の懐に抱かれ大和に赴いて以来、片時も心の休まることはありませんでした。諸国を流浪し所々に身を隠し、身分の低い者に仕える事もありました。しかし機は熟し、平家一族の追討のため、上洛し木曾義仲を誅し、平氏を傾けるため、或る時は岩に馬を走らせ命を落とすことを顧みず、或る時は大海に風波を凌ぎ身が海底に沈むのも厭わなかった。甲冑を枕とし戦ったのは、亡父の憤りを休め、宿願を遂げるがために他なりません。五位検非違使に補任されたことは当家の名誉であり、希なる出世です。他に何があるでしょうか。これを兄上に取り次いで下されば、貴殿(大江広元)は必ず一門と子孫を栄えるでしょう」(要約)
  9. ^ 近年の研究では、義経が平家追討を外されたのは京都の治安維持のためであり、『吾妻鏡』が前年7月の検非違使任官が頼朝との対立の原因としているのは誤りであるとの見方がされている(上横手雅敬『源義経 流浪の勇者』P43、44、元木泰雄『源義経』P129、130 三日平氏の乱参照)。『玉葉』は元暦2年6月30日条に「九郎に賞無きは如何、定めて深き由緒あるか」と恩賞の不平等を書いているが、頼朝は8月の除目で義経を伊予守に推挙し、相応の恩賞を用意していた。受領就任と同時に検非違使を離任するのが当時の原則であったが、義経は後白河院の慣例を無視した人事により伊予守就任後も検非違使・左衛門尉を兼帯し続け、兼実は「大夫尉を兼帯の条、未曾有、未曾有」と書いている。元木は義経の鎌倉召還が不可能になった文治元年8月の「検非違使留任」が両者亀裂の決定的要因であるとしている。P154-156 )
  10. ^ 安田元久『源義経』P164、178
  11. ^ なお、『延慶本平家物語』によれば、義経は一旦鎌倉に入って頼朝と対面した後都に戻ったとされている。また、現存する「腰越状」と伝えられるものへの真偽を疑う説もある
  12. ^ 甲冑の奉納に関しては五味文彦・櫻井陽子編『平家物語図典』P11、小学館より。
  13. ^ 盛嗣は屋島合戦の矢合わせでも、義経を「みなしごの稚児、金商人の従者になった小冠者」と罵っている。
  14. ^ 同書では母親の常盤は絶世の美女とされており(『平治物語』『義経記』)、容姿が重視されて源義朝の側室となった。父親の義朝については、面識のあった佐藤兄弟の母が義経と対面した際、「こかうの殿をおさなめによきおとこかなと思ひたてまつりしが、さうあしくこそおはすれども、その御子かとおぼゆる(亡き左馬頭殿(義朝)は幼心にもよい男だと拝見しましたが、あなたは父上に比べて見劣りするけれども、そのお子かと思われます)」と述べている。(『平治物語』京師本)
  15. ^ 判官(ほうがん)とは義経が後白河法皇から与えられた官位による呼称であり、はんがんびいきという読み方は間違い。

[編集] 関連項目

史料
古典
古典芸能
史跡
  • 高館義経堂(岩手県平泉町)義経最後の地とされる高舘に堂が建てられ、木造の義経像が安置されている。
  • 判官森(宮城県栗原市) 義経の胴体が葬られたとされる。
  • 黒崎城(宮城県名取市)義経が奥州藤原氏を頼り、落ち延びた際に『行敬』と名乗り、住んでいた居城とされる。
  • 義経岩(富山県高岡市) 義経伝説の残る大岩。
  • 満福寺(神奈川県鎌倉市)義経が腰越状を書いたとされる寺。
  • 白旗神社(神奈川県藤沢市) 義経の首が葬られたとされる。
  • 鏡の宿(滋賀県竜王町) 平治物語で義経元服の地とされる。
  • 鞍馬山(京都市左京区) 稚児として預けられた鞍馬寺、天狗修行の伝承がある僧正ヶ谷などがある。
  • 岡城址(大分県竹田市) 緒方惟栄が義経を迎える為に築いたとされる城址。
銅像
祭祀
大衆文化

源義経が登場する大衆文化作品一覧を参照

その他

[編集] 参考文献

  • 角川源義高田実 『源義経』 角川新書、1966年。
  • 五味文彦 『源義経』 岩波新書、2004年。
  • 高橋富雄 『義経伝説 歴史の虚実』 中公新書、1966年。
  • 菱沼一憲 『源義経の合戦と戦略 その伝説と虚像』 角川選書、2005年。ISBN 404703374X
  • 元木泰雄 『源義経』 吉川弘文館、2007年。
  • 安田元久 『源義経』 新人物往来社、1966年。
  • 渡辺保 『源義経』 吉川弘文館〈人物叢書〉、1966年。
  • 上横手雅敬編著 『源義経 流浪の勇者』 文英堂、2004年。
  • 大三輪達彦編著 『義経とその時代』 山川出版社、2005年。
  • 須永朝彦編著 『書物の王国20 義経』 国書刊行会、2000年。ISBN 4336040206

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ

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