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湾岸戦争

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湾岸戦争

戦争:湾岸戦争
年月日1991年1月17日 - 1991年2月28日
場所ペルシャ湾
結果:多国籍軍の勝利、安保理決議687号
交戦勢力
アメリカ合衆国
イギリス
サウジアラビア
フランス
etc...
イラク
指揮官
ノーマン・シュワルツコフ サッダーム・フセイン
戦力
956,600名 360,000名
損害
戦死・行方不明 186
戦傷 513
捕虜 46
推定戦死者 100,000~150,000
湾岸戦争
クウェート侵攻 - 砂漠の盾作戦 - カフジの戦い - 砂漠の嵐作戦 - スカッドミサイル狩り - 砂漠の剣作戦 - 東部戦線 - 中部戦線 - 西部戦線 - 死のハイウェイ - 砂漠の送別作戦
戦後の監視活動
サザン・ウォッチ作戦
クウェート全図

湾岸戦争(わんがんせんそう、英語:Gulf War)は、1990年8月2日イラククウェートに侵攻したのを機に、アメリカ合衆国が中心となり、国際連合多国籍軍(連合軍)の派遣を決定し、1991年1月17日にイラクを空爆した事にはじまる戦争。イラクのクウェートへの侵攻から湾岸戦争の開始ととらえることもある。アラブ諸国では、イラン・イラク戦争を第一次湾岸戦争として、こちらを第二次湾岸戦争(حرب الخليج الثانية)と呼ぶことが少なくない。

目次

[編集] 概説

日本では英語の“GULF WAR”を訳した「湾岸戦争」が開戦直後に定着した。ペルシャ湾に面したクウェートが舞台になったことから名づけられたと見られ、ほとんどの国が訳語を使用している。「イラク戦争」と呼ぶ人もおり、2003年イラク戦争を受け、こちらを第一次イラク戦争、後者を第二次イラク戦争とも呼ぶ。又、2003年イラク戦争の事を「第二次湾岸戦争」と呼び、こちらを第一次湾岸戦争と呼ぶ人もいる。一方イラクでは、多国籍軍が30ヶ国ほどで結成されたことから「30の敵戦争」或いは「ブッシュ戦争」などと呼んでいる。

CNNなどで初めてリアルタイムで戦争が伝えられ、まるでテレビゲームのようにミサイルが正確に目標に命中する映像から、"ニンテンドー"がテレビゲーム一般の呼び名(語源は日本のテレビゲームメーカーの任天堂)となっている欧米では、「Nintendo War(ニンテンドーウォー/任天堂戦争/意訳:テレビゲーム的な戦争)」とも呼ばれた。

[編集] 湾岸危機(開戦までの経緯)

[編集] イラクとクウェートの摩擦

1988年8月20日、シーア派イスラーム主義国家イランサッダーム・フセイン率いる全体主義国家イラクとの、8年間に及ぶイラン・イラク戦争が一応の停戦を迎えた。戦争中にアメリカ合衆国ソビエト連邦などの大国や、ペルシャ湾岸のアラブ諸国に援助された軍事力は、イスラエルをのぞいた中東では最大となったが、イラクは600億ドルもの膨大な戦時債務を抱えることとなり、戦災によって経済の回復も遅れていた。イラクが外貨を獲得する手段は石油輸出しかなかったが、当時の原油価格は1バーレル15から16ドルの安値を推移し、イラク経済は行き詰っていた。

イラクが戦時債務を返済できないことから、アメリカは余剰農作物の輸出を制限し始めた。食料をアメリカに頼っていたイラクはすぐに困窮してしまった。また、アメリカが工業部品などの輸出も拒み始めたことで、石油採掘やその輸送系統についても劣化が始まり、フセインは追い詰められた。

一方、サウジアラビアとクウェートがOPECの割当量を超えた石油の増産を行なっていた。サウジアラビアは表向きOPECの指示に従っていたが、国有油田とは別にサウド家の私有物として石油を採掘し、海外に売りさばいていた。クウェートはOPECを完全に無視して大量に採掘し、原油価格は値崩れを起こした。こうして石油価格は大きく下がり、石油輸出に依存していたイラク経済に打撃を与えていた。

クウェートはルメイラ油田から大量採掘を行ったが、この油田については、イラクも領有を主張しており(地下でイラク・クウェートの油田が繋がっていると考えられた)、クウェートの行為は盗掘だと非難した。また、クウェート国内では石油利益の配分を巡って対立が起こっており、政府がイラクに無償援助した約100億ドルを返済させる運動が起こったため、クウェートはイラクに返済を働きかけたが、当然ながらイラクには返せる財産はなく、反対に更なる援助を要求され、両国は外交的衝突に至った。

フセインはOPECに対し、原油価格を1バーレル25ドルまで引き上げるよう要請していた。しかし、OPECは聞き入れず、クウェートやサウジアラビアはなおも増産を続けたため、ついにイラク軍が動いた。7月27日にはクウェート北部国境に機甲師団を集結しているところを米偵察衛星が発見した。集結した戦車隊は砲門を南側へ向け、威嚇していた。

アメリカはこれを周辺アラブ諸国に通知したが、湾岸諸国はまるで相手にしなかった。エジプトは仲介のため動き、OPECはフセインを懐柔する為に、原油価格をそれまでの18ドルから21ドルに引き上げたが、フセインは不満だった。一方、クウェートは金銭により解決できると考えたのか、充分な防衛体制を敷かなかった上、7月31日の両国会談ではイラクを激しく侮辱した。

8月1日、両国を仲介していたエジプト大統領のホスニー・ムバーラクパレスチナ解放機構(PLO)議長のヤーセル・アラファートは「イラクのクウェート侵攻は無い」とクウェートに明言し、自国のテレビで断言した。イラクとクウェートの武力衝突は避けられると思われた。

[編集] イラク軍クウェート侵攻

1990年8月2日午前2時(現地時間)、戦車350両を中心とするイラク軍機甲師団10万人はクウェートに侵攻を開始した。ムバーラクとアラファートを完全に出し抜いた格好だった。

クウェート軍の50倍の兵力での奇襲により、午前8時までにクウェート全土を占領した。同時に革命評議会はクウェート政権が打倒されたと宣言し、同日夕刻にイラク国営放送が、アラアー・フセイン・アリー首班のクウェート暫定自由政府(ほぼ全員の政府閣僚が、クウェート人に知られていないイラク軍人だったと見られる)なる事実上の傀儡政権の成立を報じた。一方、クウェートの首長ジャービル・アル=アフマド・アッ=サバーハサウジアラビアへ亡命した。

これに対し、同日中に国連安全保障理事会は即時無条件撤退を求める国連決議第660号を決議、さらに8月6日には全加盟国に対してイラクへの全面禁輸の経済制裁を行う国連決議第661号も決議した。この間に石油価格は一挙に高まったものの、661号の経済制裁によって、イラクは恩恵にあずかることができなかった。

8月7日アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュはサウジアラビアへ圧力をかけて、米軍駐留を認めさせ、軍のサウジアラビア派遣を決定した。アメリカはイラン・イラク戦争の際にイラクを支援しており、サウジアラビアも国内に聖地を抱え、外国人に対して入国を厳しくしている国であるため、異教徒の軍隊の進駐を認めることは、多くのイスラム国家にとって予想外の出来事であった。しかし、サウジアラビアとしても、クウェートに続いて自国も侵略される事を恐れていたのであり(石油の過剰輸出もある)、バーレーンカタールオマーンアラブ首長国連邦、といった湾岸産油国も次々にアメリカに同調した。

しかし、国連軍の編制は政治的に出来ないため、アメリカは有志を募るという形での多国籍軍での攻撃を決め、イギリスフランスなどもこれに続いた。エジプトサウジアラビアをはじめとするアラブ各国もアラブ合同軍を結成してこれに参加した。さらに、米国と敵対関係にあったシリアも参戦を決定したが、これはレバノン内戦に関する取引であった。アメリカはバーレーン国内に軍司令部を置き、延べ50万人の多国籍軍がサウジアラビアのイラク・クウェート国境付近に進駐を開始した(砂漠の盾」作戦 operation desert shield )。

イラクは国連の決議を無視、さらに態度を硬化させ、8月8日に「クウェート暫定自由政府が母なるイラクへの帰属を求めた」として、イラク第19番目の県「カズマ県」として併合を宣言した。8月10日にアラブ諸国は首脳会談を開いて共同歩調をとろうとしたが、いくつかの国がアメリカに反発してイラク寄りの姿勢を採ったので、取りあえずイラクを非難するという、まとまりのないものとなった。

8月12日にイラクは、イスラエルパレスチナからの退去などを条件に撤退すると発表したが、到底実現可能性のあるものではなかった(なお、10月8日エルサレムで、20人のアラブ系住民がイスラエル警官隊に射殺されるという、中東戦争以後最大の流血事件が起こり、フセインは激しく非難したが、これを機にパレスチナ問題が国際社会で大きく取り上げられるようになった)。

さらにイラクは8月18日、一般外国人を「人間の盾」として人質にすると国際社会に発表した(のちに人質は各国からの働きかけで12月に全員解放された)。その後もイラクはクウェートの占領を継続し、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日に翌1991年1月15日を撤退期限とした「対イラク武力行使容認決議」を国連は決議した。

[編集] 戦争推移

「砂漠の嵐」に参加する米空軍F-16AF-15CF-15E
「砂漠の嵐」作戦進路

[編集] 砂漠の嵐

1月17日、多国籍軍によるイラクへの爆撃(「砂漠の嵐」作戦 operation desert storm )を開始した。この最初の攻撃はサウジアラビアから航空機およびミサイルによってイラク領内を直接たたくもので、クウェート側に軍を集中させていたイラクは出鼻をくじかれ、急遽イラク領内の防衛を固めることとなった。巡航ミサイルが活躍し、米海軍は288基のUGM/RGM-109「トマホーク巡航ミサイルを使用、米空軍B-52から35基のAGM-86C CALCMを発射した。CNNは空襲の様子を実況生中継して世界に報道した。1月27日米中央軍司令官であった陸軍大将ノーマン・シュワルツコフは「絶対航空優勢」を宣言し、戦争が多国籍軍側に有利に進んでいることを強調した。

一方、フセインは「アラブ(イスラーム)対イスラエルとその支持者(ユダヤ教キリスト教)」の構図を築こうと考え、1月18日からイスラエルへ向けスカッドミサイル「アル・フセイン」と「アル・ファジャラ」計43基を発射、イスラエル最大の都市テルアビブなどに着弾し、死傷者が出た。イスラエルは開戦直前にモサッドなどによりフセインが攻撃準備をしていることを知り、1月16日に全土へ非常事態宣言を出していたが、42日間に18回39発のミサイル攻撃を受け、うち10回の攻撃で226名が負傷し、2名がミサイルの直撃で、5名がミサイル警報のショックで、7名が対化学攻撃用ガスマスクイラン・イラク戦争時に配布したもの)の取り扱いミスで死亡した。

イスラエル世論はイラクへの怒りで沸騰したが、アメリカや国連の要請によってイスラエル政府は動かず、フセインのもくろみは失敗した。続いてイラクはサウジアラビアバーレーンに対して同数程度のミサイルで攻撃を行った。これは、異教徒に加担した裏切り者を制裁することで、アラブ世界の結束を図ろうという試みであったが、「不法な侵略者イラク 対 国際社会」の構図は揺らがなかった。

アメリカは急遽イスラエルや湾岸諸国にパトリオット地対空ミサイルシステムを配備して迎撃し、当時はほとんど打ち落としたと主張していた。しかし、本来これは対航空機用の兵器である。後の研究報告により、それほど役に立っていなかったことが判明した(これを受けて、米国とイスラエルはミサイル迎撃システムの開発を進めることになり、ミサイル対応のパトリオットミサイル PAC-3を開発した)。

1月29日、イラク軍はペルシャ湾上のカフジ油田を奇襲攻撃する。しかし、戦略も何もなく、また多国籍軍の抵抗にあって失敗し、翌30日に撤退した。

[編集] 砂漠の剣

塹壕で訓練中のスタッフォードシャー連隊第1大隊C中隊(イギリス陸軍第1機甲師団)の兵士たち(1991年1月6日

一ヶ月以上に亘って行われた恒常的空爆により、イラク南部の軍事施設はほとんど破壊されてしまった。2月24日に空爆が停止される。同日、多国籍軍は地上戦(「砂漠の剣」作戦operetion desert saber)に突入。クウェートを包囲する形で、イラク領に侵攻した。大統領親衛隊や共和国防衛隊を除く一般のイラク軍は度重なる空爆によって消耗、装備も貧弱でまるで士気が無く、また一部では油田に火を放って視界を妨害しようとしたが、多国籍軍は熱線映像式暗視装置を持っていたため、煙の向こうのイラク軍部隊は攻撃もできずに一方的に撃破され、また食料も尽きたためか続々と投降した。

イラクは翌2月25日にスカッドミサイルでサウジアラビアを攻撃、ダーラン近郊の米軍兵舎に命中して28人を殺害、100人以上を負傷させた。しかし、抵抗はここまでであった。地上戦開始から100時間後にイラク軍は大量の捕虜を出しながら撤退を開始、2月27日にクウェート市を解放、多国籍軍は敗走するイラク軍を追撃した。同日中にアメリカ大統領ブッシュが停戦を発表し、サッダーム・フセインは敗戦を認めた。3月3日には暫定停戦協定が結ばれ戦争が終結した。

[編集] 停戦協定

3月3日、イラク代表が暫定休戦協定を受け入れたが、イラクが敗戦を認めたと同時に停戦したため、イラク軍の多くが温存され、この温存兵器が後の懸案事項となった(終戦直後に南部シーア派住民と北部クルド人が反フセイン暴動を起こしたが、米英が介入してこないと見たフセインは、温存した軍事力でこれらを制圧し、首謀者ら多数が殺害されたといわれる)。国連では一ヵ月後の4月3日に「クウェートへの賠償」、「大量破壊兵器(生物化学兵器)の廃棄」、「国境の尊重」、「抑留者の帰還」などを内容とする安保理決議687号が採択された。4月6日にイラクが受諾して正式に停戦合意、4月11日に687号は発効した。1995年4月に安保理が石油交易を部分的に許可する決議をしたが、イラクは全面解除以外に受け入れられないと拒否した。また、核開発防止のための国際原子力機関(IAEA)査察を拒否し、長期間にわたる経済制裁を受けることとなった。

その後の詳細はイラク武装解除問題およびイラク戦争を参照。

[編集] 損失

爆撃で破壊されたイラク軍の装甲車
炎上し黒煙を上げる重油

ベトナム戦争以降、米軍は敵味方関係なく人的被害の公開を極めて恐れ、多国籍軍の死者はともかく、イラク軍の戦死者の総数ははっきりしていない。人によってまちまちだが、最も少ない見積もりでは一万人以下(戦後のイラク軍の反政府勢力鎮圧の状況を見ると、兵器の損失はともかく、人的損害はごく少ないのではないかと言う意見)、またイラン・イラク戦争においてイラク軍はイスラム諸国からの出稼ぎ労働者を徴用したこともある(ファトホル=モビーン作戦を参照)。一般的には死者が10万は超えているとされ、多いもので15万の死者が出たという。一方、多国籍軍はこの戦争で149名の死者を出し、513名が負傷した。また37名が行方不明、46名が捕虜として連行された。航空機は64機、車両は84両を失った。

この戦争以降(あるいは2年前のパナマ侵攻から)、米軍と本格的に戦闘をする国の死者をカウントするのはタブー視される雰囲気が米国にはある。敵国の死者を計算し、それについて記者会見で質問をした記者をその会見以降から締め出し、会見場の入場禁止にしたりするなど、情報統制は徹底している。このため、民間機関・市民団体が統制を破るべく独自にカウントを行い、インターネット上で発表するなどしている。また、戦闘において、多国籍軍は劣化ウラン弾を使用した。この兵器による悪影響(湾岸戦争症候群)が戦後糾弾されるようになったが、その影響について多国籍軍は否定した。

[編集] ペルシャ湾への重油流出

この戦争でペルシャ湾に大量の重油流出し、環境が大きく損なわれたと言われている。これについてアメリカ側は「負けたイラク側が退却するために煙幕として重油を流出させた。」と主張し、海鳥が重油まみれになっている映像をたびたびテレビで配信し、世論の同情を買おうとした。一方、イラク側は「多国籍軍による空爆により重油が流出した」と主張した。しかし、この「海鳥が重油まみれになっている映像」は湾岸戦争で録られたものではなく、オイルタンカー事故のものであることが判明した。

戦後の調査で、油まみれの鳥の映像を、巨額の報酬で宣伝していたCM会社が明るみに出て問題となっている。

[編集] 米軍の戦費

アメリカ軍は、湾岸戦争に610億ドルを費やした。しかし、アメリカの自己負担は70億ドルだけで、サウジアラビアとクウェートが160億ドル、アラブ首長国連邦が40億ドル、日本が90億ドル、ドイツが70億ドルなど、大部分が他国の援助によりまかなわれたという(内訳は文献により異同がある)。

[編集] 戦後補償

国連は、イラク政府に対してイラク占領下及び戦争中におけるクウェートの被害について賠償させるために、「国連補償委員会」を設置。総額で525億ドルの賠償を求め、「石油と食料交換プログラム」に基づき、石油収益の25パーセントをクウェートへの補償に当てるとした。 フセイン政権時代は、補償金を拠出するのを渋り続けため少額しか支払われなかったが、フセイン政権崩壊後も支払いは続けられ、2007年現在、4億6960万ドルが支払われた。 しかし、32件の個別被害のうち、28件が未だに払われていない。

[編集] 最新兵器

F-117(参考)
パトリオット地対空ミサイル発射機(参考)

この戦争において特にアメリカは数々の新兵器を投入したため「新兵器の見本市」「兵器の実験場」などと呼ばれることもある。最新鋭の兵器でなくても湾岸戦争で使用された兵器は販売と輸出に影響を与えた。中にはA-10攻撃機の様に、冷戦終結により一度は存在価値を失ったものの、湾岸戦争での活躍により再評価された物も存在する。

[編集] 陰謀説

この戦争についていくつかの事例から「アメリカによって仕組まれた戦争でイラクはのせられた」とする考え方がある。そのような説の根拠はおおよそ以下のようなことだが、イラクがクウェートに侵攻したのは事実であり、非難されるのはイラクの方であるという考えが一般的である。

  • イラクは、イラン・イラク戦争でイスラム革命からアラブ君主国家を守ったと自負していたが、クウェートが100億ドルとも言われる戦時債務の即時返済を要求。それをイラクが断るとイラク・クウェートの国境地帯にあるルメイラ油田から大量採掘を開始。債務帳消しを要求するイラクにも問題はある。
  • 米国政府は戦前・戦中にかけて、ことさらイラク軍の脅威を誇張し、世論を武力制裁やむなしと言う流れに変えた。しかし地上戦になると、実際のイラク軍は装備も貧弱で士気もまるで無く、多国籍軍の猛攻から逃げ回るばかりだった。ただし、この種の話はよくあることで、イラクだけが特別ではなく、また、将兵の士気の低さを指摘する意見もあった。
  • 1990年7月25日にイラクがクウェートの併合を示唆した際、アメリカの駐イラク大使エイプリル・グラスピーは「国境問題に介入するつもりはない」と発言。しかしこれはアメリカが他国間の領土問題に対する姿勢としては普通のものである。例えば竹島問題ではアメリカはノーコメントである[1]
  • 1990年7月31日のイラク・クウェートによるジッダ会談において、クウェート側がフセイン大統領が私生児であることを揶揄するなど侮辱的な態度を取った。ただし、クウェート侵攻の準備はこの日より以前に開始されているし、この会談の席でイラクは、領土割譲を要求してクウェート側を怒らせている。
  • 1990年10月、クウェートの少女が米国議会において、イラク兵が病院で赤ん坊を床にたたきつけたなどと涙ながらに惨状を証言、戦争に疑問を抱いていた米国世論は一挙に反イラク色に染まったが、後に少女は駐米クウェート大使の娘で、現場にさえおらず、証言は虚偽であった事が発覚した。クウェートが占領された後の話で、戦争勃発原因とは関係ないが、アメリカの世論を反イラクに傾けることになった。

また、湾岸危機から戦争にかけて石油価格は値上がりし、欧米の石油メジャーは利益を得た。また、ソ連は和平工作をすることによって存在感を表したが、それは戦争直前のことであり、ソ連自身も産油国であることから、実際には石油価格値上がりを期待していたと思われる。

[編集] テロリストへの影響

サウジアラビアイラン・イラク戦争の折にアメリカからF-15戦闘機など、強力兵器を導入していた上に、今回米軍の駐留を易々と認めたが、アメリカはイラク監視を名目に在バーレーン軍司令部とともに恒久的な基地としてしまった。イスラム教の聖地、メッカメディナを有するサウジアラビアに異教徒アメリカの基地を置くという動きにイスラム原理主義過激派は反発、特にサウジアラビア出身のオサマ・ビンラディン率いるアルカーイダなどが反米テロを引き起こしたとされる。過激派は数度にわたって米軍を襲撃したが、1996年のアラビア米軍宿舎攻撃はタンクローリーを爆破するもので、十数名の米兵が死亡した。1998年にはケニアなどでアメリカ大使館爆破事件を起こし約200名を殺害。2000年にはイエメン沖で米軍艦『コール』を攻撃。2001年アメリカ同時多発テロ事件と結び付ける考え方もある。

アメリカ同時多発テロとの関係と言えば、この戦争によるイラク攻撃の報復をあげられた事もあったが、イスラム原理主義のアルカーイダは、一応アラブ社会主義であるフセイン政権とは対立関係にあり、これは間違いと判明した。

ただし、同じアラブ社会主義国であるシリアは対イスラエル政策のカードとして、レバノンヒズボラに対して支援を行なっており、逆にシリア国内の原理主義勢力に対しては弾圧政策(1980年代初頭のハマ事件など)を取っている。このため、思想的に距離があったとしても、利害関係に一致する点(ここでは反イスラエル)が見出されれば互いに手を結ぶ可能性は残されている。

[編集] 日本への影響

湾岸危機から戦争にかけて、石油価格が値上がりし、バブル景気に浮かれていた日本経済を直撃した。アメリカ合衆国政府は同盟国として戦費の拠出と共同行動を求めた。日本政府は軍需物資の輸送を民間の海運業者に依頼したが、組合はこれを拒否。急遽作成した「国連平和協力法案」は自民党左派や社会党などの反対によって廃案となった。

政府は8月30日に多国籍軍への10億ドルの資金協力を決定、9月14日にも10億ドルの追加資金協力と紛争周辺3か国への20億ドルの経済援助を、さらに開戦後の1月24日に多国籍軍へ90億ドルの追加資金協力を決定し、多国籍軍に対しては計130億ドル(さらに、為替相場の変動により目減りがあったとして5億ドル追加)もの多額の資金援助を行ったが、米国を中心とした参戦国から金だけ出す姿勢を非難された。

クウェートは戦後、参戦国などに対して感謝決議を出したが、日本はその対象に入らなかった。もっとも、当初の援助額である90億ドル(当時の日本円で約1兆2,000億円)の内、クウェートに入ったのは僅か6億3千万円に過ぎず、大部分(1兆790億円)がアメリカの手に渡ったことも要因となる。また、クルド人難民支援等説明のあった5億ドル(当時の日本円で約700億円)の追加援助(目減り補填分)の内、695億5000万円がアメリカの手に渡った(いずれも1993年〔平成5〕4月19日参議院決算委員会、外務省北米局長・佐藤行雄の答弁より)。

これを受けて日本政府は、国連平和維持活動(PKO)への参加を可能にするPKO協力法を成立させ、ペルシャ湾機雷除去を目的として海上自衛隊掃海艇を派遣、自衛隊海外派遣を実現させた(自衛隊ペルシャ湾派遣)。これは戦後40数年間の自衛隊のあり方から逸脱しており、また自衛隊の海外派遣に反対する運動が高まり、国内を二分した。多額の援助を諸国にもっと評価させるべきとの主張もなされたが、日本政府は主に米国が要求する自衛隊派遣にこだわり、事実上黙殺された。

なお、クウェートが日本に感謝決議を出さなかったのは、クウェート外相の個人的感情によるものとの異説がある。かつて大平正芳が外務大臣であった時、来日したクウェートの外相と会談した。大平は目をつむって話を聞いたが、クウェートの外相は居眠りしていると勘違いして、怒って席を立ってしまった。彼は20年後の湾岸戦争時もまだクウェート外相の座にあり、大平への恨みを持つ人間が日本に対し感謝決議を出させるはずがないというのである[2]

なお、この戦争では任天堂からアメリカ軍へ、「ゲーム会社が出来る唯一の戦時支援」として、当時発売されたばかりのゲームボーイが数万台送られ、現地兵士の暇つぶしとして役立ったといわれている。戦後、空爆を受けて倒壊した家から、表面が焼け爛れたゲームボーイが発見されたが、ゲームの起動にはまったく支障が無かったという話も残っている。

[編集] 多国籍軍に参加した国一覧

[編集] 参考文献

  • 『湾岸戦争-いま戦争はこうして作られる』著:ラムゼイ・クラーク 訳:中平信也

[編集] 脚注

  1. ^ NEW YORK TIMES誌の関連項目
  2. ^ 続・続・続・「戦後政治にゆれた憲法9条」

[編集] 関連項目

ウィキメディア・コモンズ


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