仙台市
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仙台市(せんだいし)は、宮城県の中部に位置する、同県の県庁所在地である。
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[編集] 概要
畿内に端を発する海道(後に東海道に再編→浜通り)と山道(後に東山道に再編)が合一し、北を奥羽山脈からの舌状台地・松島丘陵で遮られる仙台平野(狭義)は、交通や軍事面での要地とされ、歴史的に当地の長町-利府活断層沿いに重要な行政組織が置かれてきた。伊達政宗が、伝統的な当地の中心地である長町-利府活断層沿いから内陸に入った河岸段丘上に仙台城下町を建設し、現在の仙台市都心部の基盤となった。
明治期以降は、東京都と青森市のほぼ中間(双方からともに約350km)に位置する当市に、東北地方を統括する中央省庁や企業の出先機関が集まるようになり、「支店経済都市」となっている。
当市は、全国で11番目の政令指定都市であり、産業は第三次産業の占める割合が高く、常住人口は約103万人、昼間人口は約115万人で、東北地方最大の人口を有する。
広瀬川や青葉山などの自然が都心にあり、また街路樹などの緑が多いことから、「杜の都」との異名をもつ。市は「学都仙台」「楽都仙台」などのキャッチコピーも用いている。中国では、魯迅が留学した都市として著名。
都市計画はニューアーバニズムやコンパクトシティの好例とされるが、仙台都市圏では人口・物販・職場の郊外化も進んでいる。他方、隣県に及ぶ仙台経済圏を形成している。
地名の由来は「仙台#地名の由来」を参照。
[編集] 地理
[編集] 地形
詳細は仙台の地形を参照
市域は、東を太平洋(仙台湾)、北を松島丘陵、西を奥羽山脈、南を名取川と境界し、宮城県を帯状に横断する。海岸から長町-利府線断層帯までが地質的には新しい沖積平野、その西が沖積平野より少し古い堆積岩類の台地であり、奥羽山脈の稜線近くは新生代に噴出した火山岩で出来ている。船形山、大東岳、神室岳などはいずれも50万年から150万年前に噴火した火山である。
仙台市は奥羽山脈を挟んで山形県山形市と接している。都道府県庁所在地同士が隣接する例には、他に京都市と大津市、福岡市と佐賀市がある。
- 山:青葉山、船形山、白髪山、面白山、泉ヶ岳、大東岳、太白山、日和山など
- 仙台市役所は、市内の野生ニホンザルの頭数を約550匹とみている。
- 川:広瀬川、名取川、七北田川、梅田川など
- 沼:五色沼、長沼、大沼など
[編集] 気候
詳細は仙台の気候を参照
市街地は太平洋に開けた平野部に位置し、気候区分は太平洋側気候三陸型気候区に分類される。冬は海から近い事と晴天が多いため、東北地方としては温暖で、真冬日は稀である。東北地方の県庁所在地の中で最も降雪量が少なく、積雪が一週間以上残存することは少ない。夏は太平洋からの海風の影響で気温はあまり上昇せず、夏日にはなるが真夏日・熱帯夜が少ない。梅雨から初夏、秋分前後には、北東からの冷たい海風により、曇りがちとなって冷え込むことがある。
年間平均気温:12.1°C、降水量:1241.8mm、日照時間:1842.6時間。真夏日と真冬日の合計は約20日で、都道府県庁所在地の中で最も少ない。基本的に冷涼な海洋性の気候であり、寒暖の差が少ないことと、市西部に比較的高い山脈が存在せず、フェーン現象が起こりにくいためである。それゆえ日本海側に強い寒気が入った際は、雪雲が奥羽山脈を越え仙台でも大雪となる事がある。2番目は水戸市の約30日、東京都(千代田区)は約45日、大阪市は約66日である。仙台市は、極端に暑くも寒くもない都市といえる。
- 主な都市の降雪量・積雪量(平年値)
| 都市 | 降雪量累計 | 最深積雪 | 1月気温 | 都市 | 降雪量累計 | 最深積雪 | 1月気温 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 札幌 | 630 cm | 101 cm | -4.1°C | 軽井沢 | 136 cm | 32 cm | -3.6°C |
| 青森 | 774 cm | 114 cm | -1.4°C | 富山 | 433 cm | 69 cm | 2.5°C |
| 秋田 | 409 cm | 41 cm | -0.1°C | 金沢 | 14 cm | 6 cm | 3.6°C |
| 山形 | 491 cm | 50 cm | -0.5°C | 東京 | 13 cm | 7 cm | 5.8°C |
| 盛岡 | 351 cm | 36 cm | -2.1°C | 名古屋 | 13 cm | 7 cm | 4.3°C |
| 仙台 | 90 cm | 17 cm | 1.5°C | 彦根 | 131 cm | 29 cm | 3.6°C |
| 石巻 | 56 cm | 17 cm | 0.5°C | 岐阜 | 52 cm | 16 cm | 4.3°C |
| 福島 | 235 cm | 26 cm | 1.4°C | 鳥取 | 263 cm | 49 cm | 3.9°C |
| いわき | 14 cm | 6 cm | 3.6°C | 松江 | 111 cm | 24 cm | 4.2°C |
| 新潟 | 255 cm | 39 cm | 2.6°C | 福岡 | 5 cm | - cm | 5.8°C |
| NYC | 57 cm | - cm | -0.6°C | シカゴ | 97 cm | - cm | -5.6°C |
- ※降雪量累計:気象庁の統計データでいう「降雪の深さ合計」のこと。日ごとの降雪量を積算(平年値)
- ※最深積雪:一度に降る最も多い積雪量(平年値)
- ※1月気温:1月の平均気温(平年値)
- (参考):アメリカ合衆国のニューヨーク市(NYC)とシカゴ市を併記(数値はNational Weather Serviceによる)。
[編集] 人口
- 登録人口:約102万人(住民基本台帳人口:約101万人。外国人登録:約1万人)
- 世帯数:444,514世帯(2005年(平成17年)8月1日)
- 生活保護受給者数:約1万人(この10年で倍加。高齢者比率:40%以上)
- ホームレス:約150人
大学や各種専門学校が多く(→「学都仙台」)、若年者人口の割合が大きかったが近時加速的に割合が減少しており、65歳以上の人口が加速的に割合を増やしている。公務員や従業員の転勤とも併せて、年度末には約2万人が流出し、年度始めにほぼ同数が流入する。近年は、3月・4月に差し引き約6000人総人口が減少し、5月と6月に回復する。同様に、第2四半期末から第3四半期始めの9月・10月にも人口が減少し、11月に回復する。
宮城県は東北地方では最も面積が小さく、自然障壁の少ない仙台平野に県民の大半が居住するため、その中心である仙台市への一極集中がみられる[4]。しかしながら近年では以前のような人口の社会増(転入超過)はなくなり、人口の増加は自然増に依存している。近年の人口増加は、数千人/年程度である。隣接する富谷町・利府町・名取市などでの宅地開発も、転出増の背景となっている。平成16年度は社会動態が減少(転出超過)に転じ(転出先のトップは東京都)、少子化傾向とあいまって、数年後から加速的に人口減少が起こるとみられている。
[編集] 年齢別人口分布
| 仙台市と全国の年齢別人口分布図(比較) | 仙台市の年齢・男女別人口分布図 | ||||||||||||||||||
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■紫色は仙台市
■緑色は日本全国 |
■青色は男性
■赤色は女性 |
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| 総務省統計局 / 国勢調査(2005年) | |||||||||||||||||||
[編集] 産業立地と都市構造
- 業務・商業地
- 流通・工業地区
- 住宅地
[編集] インフラ整備の状況
- 下水道普及率:97.2%(平成17年度末)
[編集] 都市軸
[編集] 戦後の仙台の都市軸の変化
高度経済成長期までの都市軸は、それぞれ鉄道も並走している、旧奥州街道を踏襲した国道4号沿い(都心から南の地域)と北東の多賀城・塩竈・松島に向かう国道45号沿いを中心に形成された。1970年代初頭には仙台市を中心に松島町から岩沼市にかけて合併・政令指定都市移行を目指したが失敗に終わった。要因は当時の仙台市の革新市政を周辺市町の保守系首長が嫌ったため、といわれている。この時、合併調印前日に多賀城市長が突如合併を批判し合併から離脱したため、仙塩合併は一夜にして瓦解したのである。これにより仙台市の政令指定都市への移行も先延ばしとなり、都市の発展が著しく遅れる結果となった。
その後、人口増を背景に市の北部から南西部にかけての丘陵地に都心を囲むように新興住宅地が造られた。これらの住宅地と中心部とを繋ぐ旧国道4号沿い(都心から北の地域)や国道286号沿いが新たに都市軸に加わった。新都市軸の北の中心である旧泉市と、西側の旧宮城町・旧秋保町を編入し、1989年に政令指定都市となる。新都市軸では1987年に仙台市地下鉄南北線が開業したことで、計画都市である北の泉中央(泉区)・南の長町南(太白区)では副都心化が進み、大型商業施設やマンションが林立している(旧奥州街道の七北田宿の人口密集地区西隣に泉中央(泉中央駅)、長町宿→JR長町駅駅前の人口密集地区西隣に長町南(長町南駅)が建設された。JR南仙台駅前の旧・中田宿は現在再開発中)。
また、仙台北環状線(北環)や仙台西道路の完成により、中心部から西向きの都市軸も出来つつある。但し、仙台西道路は自動車専用道路で旧宮城町地区まで出入口がないため、都市としての連続性が断たれ、他の都市軸と比べ背景人口が少なくなっている。都市軸中心駅の愛子駅・陸前落合駅駅前は後発の開発のため、他の副都心ほど発展していない。一方で、この軸上には東北自動車道の仙台宮城ICがあることから広域産業が進出し、アウトレットモールや、宮城県立こども病院、その他高等教育機関などが立地し、人口も増加している。
[編集] 東西に分けられる仙台の街
仙台の街は、仙台駅、および東北新幹線・東北本線によって大きく東西に分けられている。仙台駅の西口側は、江戸時代からの城下町・仙台の中心部があったところで、現在に至るまで中心部であり続けているが、南は広瀬川、西は青葉山、北は北山-台原の丘陵地、東は東北新幹線と、四方が囲まれており、都心部の拡大が容易ではない。そのため、バブル期に、仙台の地元企業の経済力を超えて地価暴騰が起きる懸念があったが、バブル期以前から開発されていた地下鉄・南北線と、南北線上の泉中央(泉区)および長町(太白区)の存在により、地価上昇圧力が泉中央や長町への都市機能の分散を推進し、暴騰は回避された。反面、デフレ期に入ると、都市規模に対して疎になった都心の地価下落が止まらず、担保価値が減少した土地上の低層オフィスビルや低層住宅が、高層マンション等に取って代わられ、住民の都心回帰を助長している。
一方、仙台駅の東口側は、古くからの町並みが残る地区となっていた。特に南東側の平野部(若林区)は下町の趣があり、江戸時代から続く地名が残る。この下町地域の東側に隣接していた水田地帯には、1960年代に仙台バイパスが造られ、同時に卸売り業者・流通業者・車関係などの事業所、および印刷業の工業団地などの広大な流通・工業団地が造られた。この地域(卸町・六丁の目・扇町など)は、業務地・工業用地の指定のみで住宅地の指定がないため、ほとんど人が住んでいない。また、周囲の水田も国の農政、および、仙台のグリーンベルトの構想のために農地指定が解除されなかったため、仙台駅・東口側の住宅地は、東北本線と卸町に挟まれた極端に狭い地域に限定されてしまい、背景人口が増加せず、東口の商業集積を阻害してきた。東北本線をまたいで西口に到る幹線道路も、東口に広大に存在する卸町を迂回した経路(卸町の北側の国道45号と南側の新寺小路)のみで、卸町によって南北の街も分断された状態になっていた。
90年代に入り、卸しを通さない「中抜き流通」が主流になると、卸町の存在意義が薄れ、規制を解除して住宅地へ転用する動きが始まった。また、仙石線の地下化に伴って区画整理・再開発が活発になって、東口は街の形を大きく変貌させている。東口の駅前から延びる宮城野通り完成後は、通り沿いに仙台のIT企業が集中し始め、楽天イーグルスが宮城球場を本拠地にするに到って更に開発に弾みがついている。その一方で、区画整理事業が終わる数年後には、旧仙石線線路沿いの土地にマンションが大量に供給され、マンション価格の下落、それに伴う郊外住宅地の地価下落が懸念されている。
仙台バイパスとその付帯施設である流通・工業団地の周辺および東側は、広大な水田地帯となっている。農地指定の解除は、仙石線沿いと建設中の地下鉄・東西線沿い、および幹線道路沿いのみとなっている。近年、グリーンベルトをまたぐ部分(仙石線では苦竹駅~福田町駅の間、東北本線では東仙台駅~岩切駅の間)の一部農地指定解除が行われ、仙石線に小鶴新田駅が設置されて住宅地化が始まっている。しかし、なおも岩切から利府町にかけてと、福田町から塩竈市にかけての市街地が、都心部からみて「飛び地」のようになっており、グリーンベルト維持か、市街地形成をするか、市の方針は必ずしも明確ではない。なお、福田町から塩竈市にかけての沿岸部は、仙台港を中心に工業地区となっている。農地指定と工業地指定、および松島丘陵に囲まれたこの「飛び地」地区では、近年、工業・流通地指定を解除して、商業施設の誘致と開発が計画されている。ただし、工業地(空き地)の所有者である宮城県の方針が出るまで時間がかかっている間に、隣の利府町側で先に農地指定を解除したため、この「飛び地」地区の商業中心は、利府のロードサイドショップの方に移っている。
[編集] 都市計画
都市としての仙台市は、伊達家62万石の城下町から発展したため、その名残りで都心部の道路は碁盤の目状になっているが、広瀬川の河岸段丘上に立地している点や、戦災復興事業において広幅員の道路を縦横に通したことにより、完全な碁盤の目とはいかずやや変則的である。伊達政宗の都市計画は、後に仙台をして 「杜の都」 と呼ばしめたが、戦前までの「杜」は、都市の近代化のために失われた部分も多い。しかし、市当局や市民の努力により、都心部に限らず、多くの道路に街路樹が植えられ緑化が進んだ。また、都心を取り囲む丘陵地や水田などの開発規制を行い、同心円状に、都心・グリーンベルト・住宅地という大ロンドン計画を模した都市計画を作成した。
[編集] 北四番丁大衡線
現在、東北大学病院の東端に沿って南北に走る木町通りの拡幅作業がなされているが、この道は、北向きに輪王寺を地下トンネル(北山トンネル・仮称)で通過し、桜ヶ丘・泉パークタウンを貫いて大和町へと至る宮城県道264号大衡仙台線(都市計画道路北四番丁大衡線)である。この道路は、北西部の住宅地と中心部とを結ぶ幹線道路という側面の他に、この道沿いに存在する東北大学病院・東北大学医学部・フィンランド健康福祉センター・宮城学院大学・宮城大学・宮城県図書館・泉パークタウン内の数々の研究施設、そして、仙台北部中核工業団地を結んで「智の回廊」として機能することも期待されており、「学都仙台」の戦略的道路となっている。また、東北大学病院の新東病棟1階に新たに設置される高度救命救急センターへの搬送路となり、北西部の命綱としても機能する予定である。なお、この道路と東北自動車道が交差する付近に泉PAがあるが、そこにETC専用出入口であるスマートICが設置された。
- 宮城県の高度救命救急センター:
- 東北大学病院高度救命救急センター
- 宮城県の救命救急センター:
- 仙台市立病院(仙台市)
- 国立病院機構・仙台医療センター(仙台市)
- 大崎市民病院(大崎市)
- 宮城県立こども病院(仙台市。子供のみ。外傷を除く)
[編集] 歴史
[編集] 概略
[編集] 古代
古代においては、仙台という地名はまだ存在しなかった。仙台、または千代という地名が現れるのは、中世以降のことである。しかしこの地域は、すでに「古代東北地方の政治的中心地」となっていた。
まず、7世紀に現在の仙台市東南部に、郡山遺跡が造られた。郡山遺跡は、724年に現在の多賀城市に造られた多賀城の前身である。鎮守府兼国府である郡山遺跡の東西には、東多賀神社と西多賀神社が建立された。鎮守府と国府が多賀城に移ると、多賀城には政庁に隣接して、東北地方で最高位にある神社、陸奥総社宮が建立された。同じく多賀城政庁に隣接して、多賀神社とアラハバキ神社も建立された。アラハバキ神社は蝦夷の神である「アラハバキ神」を祭るものである。大和政権が東北地方の蝦夷を大量殺戮したため、アラハバキ神社には「蝦夷の怨霊を封じる」という意味が込められている。多賀城創建と同じ頃、多賀城市の隣に位置する現在の塩竈市に、「国の港」である国府津と、奥州一ノ宮である鹽竈神社(しおがまじんじゃ)が造られた。同じく、塩竈市の隣に位置する現在の七ヶ浜町には、「国の厨房」である国府厨が置かれた。同じく、多賀城市の隣に位置する利府町には、「日本三関」の一つ勿来の関が置かれた。また、仙台市北東部の岩切は、「東北地方最大の商業地帯」として大いににぎわった。多賀城の創建よりやや遅れて、仙台市東部に「日本最北の国分寺」である陸奥国分寺と陸奥国分尼寺が建立された。
これら、現在の仙台市東部、多賀城市、塩竈市、利府町、七ヶ浜町を中心とする地域が、“古代東北地方の政治的中心地”、すなわち府中である。府中は聖なる空間とされた。この地域がそのような“特別な地域”に成り得た理由として考えられるのは、東北地方最大の仙台平野、名取川、広瀬川、奥大道、塩釜港(千賀の浦)、などの存在である。
このように古代の仙台地方は大いに栄えたため、奈良や京都の都人たちは仙台地方を「宮城野」と呼んで、歌枕に詠まれる「憧れの地」となった。
[編集] 中世
東北地方(奥羽)全域を支配していた奥州藤原氏が源頼朝によって征服されると、鎌倉時代の東北地方には「奥州惣奉行」(葛西清重)と「陸奥留守職」(伊沢家景)が置かれ、葛西氏・伊沢氏の双頭体制となった。伊沢家景は多賀城の「留守所長官」となり、留守氏と呼ばれるようになった。伊沢家景は仙台市の隣に位置する利府町に定住し、26年間を利府で過ごして没した。こうして鎌倉時代の仙台は、留守氏の支配下に置かれた。
室町時代になると、室町幕府の管領家、斯波氏の一族である大崎氏が奥州探題を世襲し、仙台の地も大崎氏の支配下におかれた。
中世、現在の仙台の地は国分氏の支配下にあった。国分氏は現在の多賀城市や仙台市岩切などを拠点とする留守氏と激しく対立をしていた。しかし、戦国時代に入ると、両氏とも戦国大名として台頭してきた伊達氏からたびたび養子を迎えて相手方より優位に立とうなどの努力をしたが、次第に伊達氏の隷属化に組み込まれていく。
1522年(大永2年)、伊達政宗の曽祖父、伊達稙宗は、室町幕府将軍足利義晴から「陸奥守護職」に任じられた。すでに稙宗の偉名は、東北地方全土に浸透していた。子だくさんの稙宗は、東北地方の有力大名と政略結婚を繰り返し、奥羽に血縁ネットワークを築き上げた。しかし、その政略結婚が原因となって、1542年(天文11年)、嫡男の伊達晴宗との間に「天文の乱」が勃発した。この乱は東北地方全土に波及し、東北地方の戦国大名を二分する大乱となった。1548年(天文17年)、「天文の乱」は、将軍足利義輝の和睦勧告を受けて、伊達晴宗の勝利で幕を閉じた。晴宗は将軍から、奥州探題に任じられた。晴宗は息子を、現在の宮城県利府町周辺を支配していた戦国大名留守氏の跡取り養子とした(留守政景)。同じく晴宗は息子を、現在の仙台市東部を支配していた戦国大名国分氏の跡取り息子にした(国分盛重)。伊達政宗の父、伊達輝宗も本来は奥州探題に任じられていたのであるが、織田信長によって室町幕府が滅ぼされたため、輝宗は奥州探題には任命されていない。伊達政宗の叔父である国分盛重が政宗の下から逐電すると、国分氏の領地であった現仙台は政宗の直轄領に組み込まれる。なお、国分氏が城主の時代の城下町の系譜を引くのが現代の国分町である。
伊達政宗は常陸の戦国大名、佐竹義重との抗争に勝利し、「東北地方の南半分を征服」して「奥羽の覇者」と呼ばれた。政宗は関東征服を目前としたが、織田信長の跡目を継いだ豊臣秀吉に服属し、「日本統一」を達成した秀吉は、政宗の領地を先祖ゆかりの現・福島県から現・宮城県へと追いやった。このとき、政宗は居城を岩出山城(現・大崎市)とし、その10年後、政宗は居城を仙台城(現・仙台市)へと移した。
七北田村の沼田姓を名乗った検断新三郎は先祖を「備前」と言った。葛西氏の一族で同氏の没落後、慶長年中・北根村八乙女に来往した。伊達政宗は葛西大崎の遺臣で土着した者を多く村の指導者に任用したが、備前もその一人であった。市名坂の「御霊明神社」は備前が1619年(元和5年)、同地に勧請したものと伝えられている。同家は藩主・綱村、吉村の領内巡行の時寓所を務め「品替え百姓」となった。
沼田家も新道が出来るまでは北根(市名坂高玉)に住んでいた。1623年(元和9年)に七北田町屋敷に移り住んで肝入り(村役人)と検断を兼務した古い家柄である。品替御百姓として検断新三郎の高祖父・重兵衛とあり、後の沼田家である。
[編集] 江戸時代
天正まで、現在の仙台の地は「千代(せんだい)」と呼ばれていた。1600年(慶長6年)、伊達政宗が青葉山に仙臺城(仙台城)を築き、城下町を開いて当地の名前を「仙臺(仙台)」と改称したことで、仙台の都市としての歴史が始まった。「伊達62万石」といわれた仙台藩は、江戸幕府(約700万石 = 天領400万石+旗本領300万石)、加賀藩(102.5万石)、薩摩藩(77万石)に次ぎ、尾張藩(約62万石)と並ぶ大藩であり、城下町としての仙台も発展した。伊達政宗が来るまでは戦国大名、国分氏の居城があった。
仙台開府当時、仙台の人口は約5万人であった。これは、当時の江戸とほぼ同じである。仙台は武士の人口においては、江戸を上回っていた。仙台は農民の人口に対する武士の人口の割合が日本で最も高い都市であった。まさに仙台は「武士の都」であり、京都、大阪、江戸と肩を並べる大都市であった。
開国前の江戸時代の都市には、突出した大都市の三都(江戸・大坂・京)の他、大藩の城下町(金沢・名古屋・鹿児島・仙台・岡山・熊本・広島・徳島)や重要港町(堺・長崎)があり、仙台は、日本で十指に入る都会として賑わった。ただし、その人口は4~7万人程度(時期や資料による)で、東北地方の他の城下町と比べて極端に突出した都会ではなかった。また、藩のたががあったため、東北地方の中心都市としての機能はなかった(城下町の人口は、大体1万石あたり1000人として、石高を乗じたものと似た値になる)。
[編集] 幕末から明治維新まで
1868年の戊辰戦争において、仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主となって旧幕府側についた。列藩同盟の政府機関である「列藩同盟公儀府」は白石市におかれた。仙台藩主伊達慶邦は孝明天皇の弟である輪王寺宮(のちの北白川宮)を列藩同盟の盟主にそえた。このとき列藩同盟(北部政府)には輪王寺宮を「東武天皇」に即位させ「東武朝廷」をつくる計画があった。伊達慶邦は征夷大将軍になる予定であった。しかし、敗戦によりこの計画は幻と消えた。
敗戦により石高を半分以下に減らされ、困窮した多数の家臣団を蝦夷地(北海道)に集団移住させる事態になった。これにより大量の知識階級(武士階級)が流出し、経済の基盤だった版図を失ったため、城下町仙台の経済は混乱した。
1871年の廃藩置県において、仙台藩は仙台県、角田県、登米県、胆沢県の4県に分割され、現在の仙台都市圏と似た範囲で仙台県が置かれた。その後何度か境界変更を繰り返し、現在の規模になった1872年に宮城県と改称して、同時に仙台区が置かれた。当時の仙台区は、現在の中心部ほどの広さであった。明治政府が旧仙台領を「仙台県」とせず「宮城県」という県名に改めたのは、「仙台県」という県名がもつ雄藩のイメージを抹殺するためであったといわれる。
[編集] 明治から戦前まで
仙台は、明治政府による中央集権体制において、東北地方支配の拠点とされ、国の機関が次々とつくられていった。
1887年に日本鉄道(今の東北本線)が塩竈まで開通し、仙台駅が置かれた。鉄道が開業したことにより、仙台から東京(以前の江戸)まで数日かかったものが、わずか半日程度で済むようになった。また、明治期以降、高等教育機関が設置されていき、1907年には東北帝国大学が創立し、国を支える人材を輩出した。
江戸時代の初期、幕府との戦争に備えて、伊達政宗は仙台に城や要害を多数築いていったが、それらは明治政府に全て接収されて近代軍事施設となっていった。仙台城二の丸には陸軍第二師団司令部と歩兵第三旅団司令部、現・仙台国際センターの土地には工兵第二連隊司令部、現・榴岡公園には歩兵第四連隊司令部が置かれたのを始め、輜重兵第二連隊(現・亀岡住宅)、騎兵第二連隊(現東華中学校)の他、練兵場(仙台城三の丸、および宮城野原練兵場(現宮城野原公園総合運動場および宮城野貨物駅ヤード))、飛行場(現国立仙台医療センター)、射撃場(旧警察学校~現台原小学校)、工兵作業場(現東北大学青葉山キャンパス)、偕行社(現西公園)、招聘社(仙台城本丸。現宮城縣護國神社)が置かれた。
このように仙台は、国の機関、鉄道、大学、軍が置かれ、そして県庁所在地となった事で人が集まるようになり、工業がない消費文化の中心地となった。そのため、中心商業地の一番町が勃興し、藩内制限経済から広域資本主義経済へ移行していった。
1889年には市制が施行され、それまでの仙台区はそのまま仙台市に移行した。1889年の統計では、国際貿易都市として勃興して来た神戸市や横浜市などに抜かれながらも、仙台市は人口90,231人を擁する都市となった。この人口規模は、当時の日本の第8位であった。1923年は仙台市として初の合併が行われ、現在の長町、原町、南小泉地区が仙台市になった。これ以降、仙台市は周辺の町や村を吸収していき、面積・人口を増やしていくことになる(→市域の変遷)。1926年には仙台市電が営業を開始し、50年に渡って市民の足として活躍をした。
[編集] 第二次世界大戦と仙台空襲
第二次世界大戦(太平洋戦争)は日本各地に甚大な被害をもたらしたが、仙台には陸軍の軍事施設が多かったため、度々空襲に見舞われた。その中でも最大の被害をもたらしたのは、1945年(昭和20年)7月10日の仙台空襲(戦略爆撃)である。B-29爆撃機からの焼夷弾絨毯爆撃により、市内中心部(主に市電環状線内が該当)が炎上し焼失し、死者は1066人にのぼった。また、沢山の家屋や歴史的建造物の他、「杜の都」の象徴であった樹木が失われ、市内は廃墟と化した。
[編集] 戦後の復興
終戦後、仙台にはGHQが進駐し、仙台にあった陸軍は解体され、軍事施設の跡地は主に公園になった。また、東二番丁通り、広瀬通り、青葉通り、定禅寺通りなどの広幅員の道路を縦横に通し、近代都市としての基盤が造られた。これらの大通りには、「杜の都」の復興を願って多数の樹木が植えられた。これらの樹木は、後に大木に成長して「杜の都」の象徴となる並木道へとなっていく。
[編集] 高度経済成長と人口の増加
トラック流通の興隆に応じて1966年に仙台バイパスが供用開始され、同時に広大な卸し・流通団地が造られた。1975年には東北自動車道が開通した。これでトラック流通・卸売りにおける東北地方の中心地の一つとなった。これ以降、東北地方の経済における中心地としての歩みを始める。高度経済成長(第三次産業型)の影響もあって1967年には人口が50万人を突破し、仙台市は活気付いてくるが、1976年には、交通渋滞の悪化に伴い、50年に渡って市民の足として活躍した仙台市電が廃止された。
[編集] 宮城県沖地震の発生
1978年(昭和53年)6月12日には宮城県沖地震が発生する。17時14分44秒にマグニチュード7.4、最大震度5の非常に大きな地震であり、死者28名を出した。この地震は都市を直撃した地震災害の典型とされ、この地震により、建築基準法が改正され、以降の建物は改正に基づく耐震強化などが行われた。阪神・淡路大震災が起こるまでは現代の日本で最も被害を受けた地震であった。
[編集] 東北自動車道・東北新幹線の開通
1980年に東北自動車道が浦和ICまで、1982年には東北新幹線が大宮駅~盛岡駅間でそれぞれ開通した。移動の高速化は東北地方全体の日帰り圏を拡大し、仙台市内にある企業の支社や支店の東北地方全体を管轄する機能が増強されることになった。そしてこれは、仙台市が東北地方のビジネスにおける中心地になる要因になった。
仙台市の経済拡大と人口増、およびモータリゼーションの進展により、仙台都市圏は拡大していった。そのため、郊外と仙台市都心部を繋ぐ公共高速交通路が求められ、1981年に仙台市地下鉄南北線が仙台市の富沢駅~泉市(現在の泉区)の八乙女駅間で工事が開始された。
[編集] バブル景気と政令指定都市への移行
1984年、保守系の石井亨が新市長となり、「青葉まつり」(市が中心)が1985年に再開された。また、「SENDAI光のページェント」(市民ボランティア中心)も同年新規に始まった。
