井伊直弼 - Wikipedia

井伊直弼

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井伊直弼 凡例
井伊直弼
時代 江戸時代末期(幕末
生誕 文化12年10月29日1815年11月29日
死没 安政7年3月3日1860年3月24日
改名 鉄之介、鉄三郎、直弼
別名 字:応卿
雅号:埋木舎、柳王舎、宗観
仇名:井伊の赤鬼
戒名 宗観院柳暁覚翁
墓所 大渓山豪徳寺
官位 従四位下侍従玄蕃頭
左近衛権少将掃部頭
左近衛権中将、従四位上正四位上
幕府 江戸幕府大老
近江国彦根藩
主君 徳川家慶家定家茂
氏族 井伊氏
父母 父:井伊直中
母:お富の方
養父:井伊直亮
兄弟 井伊直清直亮中顕中川久教
内藤政成松平勝権井伊直元
内藤政優井伊直弼内藤政義
正室:松平信豪の娘、昌子
直憲直咸直安直達
弥千代(松平頼聰室)、青山幸宜

井伊 直弼(いい なおすけ)は、近江彦根藩の第13代藩主江戸幕府大老である。

目次

[編集] 略歴

幼名は鉄之介・鉄三郎。字は応卿。号は埋木舎・柳王舎・宗観。

第11代藩主・井伊直中の十四男。本来ならば他家に養子に行く身であったが、兄で12代藩主・井伊直亮の養子となる。その後、第13代藩主となり、安政の大獄を行なって反対派を処罰するなどして、事実上の幕府最高権力者となるが、大獄に対する反発から桜田門外で水戸脱藩藩士らによって暗殺された(桜田門外の変)。

[編集] 生涯

[編集] 家督相続まで

文化12年(1815年)10月29日、第13代藩主・井伊直中の十四男として近江国犬上郡彦根城(現在の滋賀県彦根市)で生まれる。幼名は鉄之介、後に鉄三郎

庶子であったため、養子の口も無く[1]、17歳から32歳までの15年間を300俵の捨扶持の部屋住みとして過ごした。この間、長野主膳と師弟関係を結んで国学を学び、自らを花の咲くことのない埋もれ木にたとえ、埋木舎(うもれぎのや)と名付けた住宅で、世捨て人のように暮らした。この頃熱心に茶道(石州流)を学んでおり、茶人として大成する。そのほかにも和歌槍術居合術を学ぶなど、聡明さを早くから示していた。その頃「チャカポン(茶・歌・鼓)」とあだ名された。

ところが弘化3年(1846年)、第14代藩主で兄の直亮の世子であった井伊直元(直中十一男、これも兄にあたる)が死去したため、兄の養子という形で彦根藩の後継者に決定し、従四位下侍従玄蕃頭に叙位・任官する。嘉永2年(1849年)には左近衛権少将に遷任し、玄蕃頭を兼任した。

嘉永3年(1850年)、直亮の死去により家督を継いで第15代藩主となり、掃部頭(かもんのかみ)に遷任する。

[編集] 幕末の動乱の中で

井伊直弼

彦根藩時代は藩政改革を行い、名君と呼ばれたといわれる。

嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国ペリー艦隊来航に伴う江戸湾(東京湾)防備に活躍したが、老中首座の阿部正弘がアメリカの要求に対する対策を諮問してきたときには、「臨機応変に対応すべきで、積極的に交易すべきである」と開国論を主張している(ただし、直弼の開国論を「政治的方便」とする説もある(後述))。

安政2年(1855年)、左近衛権中将に遷任し、掃部頭は兼任となる。安政4年(1857年)、従四位上に昇叙される。

このころ幕政は、嘉永から安政年間にわたって老中首座の阿部正弘によってリードされていた。阿部は、幕政を従来の譜代大名中心から雄藩(徳川斉昭松平慶永ら)との連携方式に移行させ、斉昭を海防掛顧問(外交顧問)として幕政に参与させた。斉昭はたびたび攘夷を強く唱えた。しかしこれは、溜間(江戸城で名門譜代大名が詰める席)の筆頭であり、また自ら開国派であった直弼としては許しがたいものであった。直弼ら溜間詰諸侯と、阿部正弘・徳川斉昭の対立は、日米和親条約の締結をめぐる江戸城西湖の間での討議で頂点に達した。このため斉昭は阿部に迫り、老中の松平乗全松平忠固の2名の更迭を要求する。

安政2年(1855年)8月4日、阿部はやむなく両名を老中から退けた。乗全、忠固はともに開国・通商派であり、また乗全と直弼は個人的に書簡をやり取りするほど親しかったからである。直弼は猛烈に抗議し、溜間の意向を酌んだ者を速やかに老中に補充するよう阿部に迫った。阿部はこれまたやむなく溜間の堀田正睦(開国派、下総佐倉藩主)を老中首座に起用し、対立はひとまず収束したが、これは乗全、忠固の罷免に対して、直弼を筆頭とする溜間諸侯が一矢報いた形といえる。

安政4年(1857年)、阿部正弘が死去すると堀田正睦は直ちに松平忠固を老中に再任し、幕政は溜間の意向を反映した堀田・松平の連立幕閣を形成した。さらに第13代将軍・徳川家定継嗣問題で紀伊藩主の徳川慶福を推挙し、一橋慶喜を推す一橋派の徳川斉昭との対立を深めた。

「井伊直弼大老職就任誓詞控」

安政5年(1858年)、松平忠固や水野忠央(紀州藩付家老)ら南紀派の政治工作により、直弼は江戸幕府の大老に就任した。就任直後の6月、直弼は孝明天皇の勅許無しでアメリカと日米修好通商条約を調印し、無断調印の責任を、自派のはずの堀田正睦、松平忠固に着せ、両名を閣外に逐い、かわりに太田資始間部詮勝、松平乗全の3名を老中に起用し、尊皇攘夷派が活動する騒擾の世中にあって、強権をもって治安を回復しようとした。病弱な将軍・家定の後継問題では紀州藩主の徳川慶福を擁立して第14代将軍徳川家茂となし、一橋慶喜を推薦する水戸徳川家の徳川斉昭や松平慶永らを蟄居させ、川路聖謨水野忠徳岩瀬忠震永井尚志らの有能な吏僚らを左遷した。

また閣内でも直弼の方針に反対した老中・久世広周寺社奉行板倉勝静らを免職にした。故に尊王志士達から憎まれた。安政6年(1859年)、正四位上に叙せられる。

[編集] 最期

彦根城金亀児童公園にある井伊直弼銅像

直弼の対応に憤った孝明天皇は、戊午の密勅を水戸藩に発し、武家の秩序を無視して大名に井伊の排斥を呼びかける。前代未聞の朝廷の政治関与に対して幕府は態度を硬化させ、直弼は水戸藩に密勅の返納を命じる一方、間部詮勝を京に派遣し、密勅に関与した人物の摘発を命じる。こうして開始された安政の大獄により多数の志士(活動家)や公卿(中川宮朝彦親王)らを粛清したが、尊攘派の怨嗟をうけ、安政7年(1860年)3月3日に水戸藩浪士により、江戸城桜田門付近で暗殺された(桜田門外の変)。享年46(満44歳没)。後を次男の井伊直憲が継いだ。

著作に『井伊大老茶道談』『茶湯一会集』などがある。

現在、彦根城内の他に横浜市の掃部山公園内に開国断行を顕彰して、元藩士らにより銅像が建てられた。しかし、条約調印による開国の功績については評価が分かれている。

死後の文久2年(1862年)、安政の大獄を行なったことを罪にされて、幕命により彦根藩は10万石減封されている。なお、彦根市と水戸市は、明治百年を契機に歴史的わだかまりを超え、昭和43年(1968年)に「親善都市」提携を行った。

肖像画は狩野永岳の作と、直弼の四男・井伊直安の作が知られている。墓所は井伊家の菩提寺である豪徳寺東京都 世田谷区)。

[編集] 人物・逸話

  • 部屋住みの時代に儒学国学、曹洞宗の、書、絵、歌、剣術居合槍術弓術砲術柔術などの武術茶の湯能楽などの多数の趣味に没頭していた。特に居合では新心流から新心新流を開いた。茶の湯では「宗観」の名を持ち、石州流を経て一派を確立した。著書『茶湯一會集』巻頭には有名な「一期一会」がある[2]能楽方面では能面作りに没頭し、能面作りに必要な道具を一式揃えていた。また、新作狂言「鬼ヶ宿」の制作や、廃曲となっていた「狸の腹鼓」の復曲(いわゆる「彦根狸」)を試みるなど、狂言作者としての才能も持っていた。
  • 井伊家の館からは維新後、直弼の遺品と思われる大量の洋書や世界の地図等が発見されており、「開国と富国強兵こそ日本が生き残る道」と考えていたという彼の志と博識が伺える。
  • 安政の大獄における過酷な処分は多くの人々から恨まれ、彦根藩祖である直政同様に「井伊の赤鬼」といわれた。ただし直政の場合は畏敬の念が含まれていたが、こちらは憎しみのあまりである。また、直弼を指す隠語として「赤鬼」という語を用いる場合がある。
  • 桜田門外の変による暗殺が、直弼の強権的な手腕で回復しかけていた幕府権威を衰退させるきっかけとなったという見方がある一方、その強権的な手腕で断行した安政の大獄では攘夷派のみならず開国を推し進めた開明派官僚まで大量に追放したため、幕臣からモラルや人材が失われ、幕府滅亡の遠因になったという見方もある。
  • 直弼は「開国を断行して日本を救った政治家」という評価もある。彼のような人物が現れて開国を行なわなければ、日本の歴史は大きく変わっていたといえる。その意味で直弼は幕末政治を語る際には欠かすことのできない一人である。ただし開国に関しては阿部正弘のころからの既定路線であり、それまで綿密に進められた水戸や薩摩といった雄藩や朝廷への根回しや海外事情の調査、開明派の人材登用による開国体制の構築が直弼の強引な手法により瓦解し、大混乱を招いたともいえる。
  • 直弼が開国を唱えたり条約に調印したのは水戸や薩摩などの有力諸侯による幕政への介入に対抗するための一時の方策であり、直弼自身は江戸幕府が国政の実権を回復した後に幕府とこれを支える親藩・譜代大名が主体となって攘夷を行うべきであるとする一貫した攘夷論者であったとする見方もある[3]。この見解によれば、安政の大獄による有力諸侯や攘夷派の処罰も、直弼が条約締結の裏で進めていた攘夷(鎖国への復帰)も、「幕府の権威回復による旧体制への回帰」という路線上にある方針であるとされている。司馬遼太郎のように「攘夷派を弾圧したが開明論者でもなく西洋嫌いであった(『花神』の記述を要約)」と彼に対して厳しい評価をする者もいる。

[編集] 井伊直弼を演じた人物

[編集] 脚注

  1. ^ もっとも、全くなかったわけではない。延岡藩の後継候補として弟(後の内藤政義)とともに候補として名前が挙がったことはある。
  2. ^ この言葉の初出は利休七哲山上宗二が著した「山上宗二記」とも言われている
  3. ^ 長野主膳が直弼にあてた意見書の中で「現在となっては開国も仕方がないが、外国人を一定の場所(居留地)に閉じ込めて厳しく監視して商売を規制して、出て行くならそれで良し、報復するなら打ち払うべきである」と趣旨を述べ、直弼自身も安政5年1月に堀田正睦に書簡を出して「外国人の説に感服して一歩ずつ譲歩するのは嘆かわしく」「皇国風と異国風の区別を弁えるべきである」と忠告を寄せている。また、徳川将軍家に代々仕える茶坊主で強硬な保守・攘夷の論説を唱えていた野村休成を直弼が終始庇護したのに対して、通商条約締結間際になって阿部や堀田が登用した多くの開明派官僚を一橋派・南紀派を問わずに追放している。更に、安政5年11月29日に間部詮勝を通じて関白九条尚忠に自分の本意は「従来の国法(鎖国)に復することである」と述べている。

[編集] 参考文献

  • 母利美和 『井伊直弼』 吉川弘文館 ISBN 4642062866
  • 石井孝 「井伊直弼と幕府の開国組織」(新人物往来社 編『日本の組織図事典』(新人物往来社、1988年 )) ISBN 4404015070

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

先代:
井伊直亮
井伊宗家彦根藩15代)
1846年 - 1860年
次代:
井伊直憲
先代:
井伊直亮
江戸幕府大老
第12代:1858 - 1860
次代:
酒井忠績

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