三島由紀夫
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| 三島 由紀夫 (みしま ゆきお) |
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1956年、三島由紀夫
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| 誕生 | 平岡 公威(ひらおか きみたけ) 1925年1月14日 |
| 死没 | 1970年11月25日(満45歳没) |
| 職業 | 作家 |
| 国籍 | |
| 活動期間 | 1938年 - 1970年 |
| ジャンル | 小説、戯曲 |
| 代表作 | 『仮面の告白』(1949年) 『禁色』(1951年) 『潮騒』(1953年) 『金閣寺』(1956年) 『近代能楽集』(1956年) 『豊饒の海』(1965年) 『サド侯爵夫人』(1965年) 『わが友ヒットラー』(1968年) |
| 主な受賞歴 | 新潮社文学賞(1954年) 読売文学賞小説部門(1957年) 週刊読売新劇賞(1958年) 読売文学賞戯曲部門(1961年) フォルメントール国際文学賞第2位(1963年) 毎日芸術賞文学部門(1964年) 文部省芸術祭賞演劇部門(1965年) |
| 処女作 | 短編小説:『酸模』、『座禅物語』(1938年) 長編小説:『花ざかりの森』(1941年) |
| 親族 | 松平乗尹(五世祖父) 永井尚志(高祖父) 平岡定太郎(祖父) 平岡萬次郎(大伯父) 平岡梓(父) 平岡萬寿彦(父の従兄) 平岡千之(弟) |
三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日)は、小説家・劇作家。また、右翼思想家。
代表作は小説に『仮面の告白』、『禁色』、『潮騒』、『金閣寺』、『豊饒の海』四部作など。戯曲に『サド侯爵夫人』、『わが友ヒットラー』、『近代能楽集』などがある。唯美的な作風が特徴。1970年、楯の会会長として自衛隊にクーデターを促し失敗、割腹自殺を遂げ世間を騒然とさせた(三島事件)。
筆名の「三島」は日本伝統の三つの島の象徴、静岡県三島の地名に由来するなどの説がある。三島の著作権は酒井著作権事務所が一括管理している。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 出自
家族 親族も参照のこと。
三島由紀夫、本名・平岡公威は、1925年(大正14年)1月14日、東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区四谷)に父・平岡梓と母・倭文重(しずえ)の間に長男として生まれた。「公威」の名は祖父定太郎による命名で、定太郎の同郷の土木工学者古市公威から取られた。兄弟は、妹・美津子(1928年 - 1945年)、弟・千之(1930年 - 1996年)。
父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て高等文官試験に優秀な成績で合格したが、面接官に嫌われて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない農林省に異動)に勤務していた。後に内閣総理大臣となる岸信介、日本民法学の泰斗と称された我妻栄とは一高以来の同窓であった。
母・倭文重は金沢藩主、前田家の儒者橋家出身。東京開成中学校の5代目校長、漢学者の橋健三の次女。
祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村(現・兵庫県加古川市志方町)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業し内務官僚となり、福島県知事、樺太庁長官等を務めたが、疑獄事件で失脚した人物。
祖母・夏子は、父・永井岩之丞(大審院判事)と母・高(常陸宍戸藩藩主松平頼徳が側室との間にもうけた娘)の間に生まれた長女で、12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えている。
公威と永井荷風は祖母・夏子の実家を通じて遠い親戚に当たる。正確には、夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる[1]。父・梓の風貌は荷風と酷似していて、公威は彼のことを陰で「荷風先生」と呼んでいた。
[編集] 幼少年期
公威と祖母・夏子とは、中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。生来病弱な公威に対し、夏子は両親から引き離し、公威に貴族趣味をふくむ過保護な教育をおこなった。 男の子らしい遊びはさせず、女言葉を使わせたという。家族の中で夏子はヒステリックな振舞いに及ぶこともたびたびだった。
夏子は、歌舞伎や能、泉鏡花などの小説を好み、後年の公威の小説家および劇作家としての作家的素養を培った。
1931年(昭和6年)に公威は、学習院初等科に入学した。当時の学習院は華族中心の学校で、平岡家は定太郎が樺太庁長官だった時期に男爵の位を受ける話があったにせよ、平民階級だった。にもかかわらず公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある祖母の意向が強く働いていたと言われる。
高学年時から、同学友誌『輔仁会雑誌』に詩や俳句を発表する。当時の綽名はアオジロ。虚弱体質で青白い顔をしていたことに由来する。しかし初等科6年の時、校内の悪童から「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれたとき、公威は即座にズボンの前ボタンを開けて一物を取り出し、「おい、見ろ見ろ」と迫ったところ、それは貧弱な体格に比べて意外な偉容を示していたため、からかった側が思わずたじろいだという[2]。
1937年(昭和12年)中等科に進むと文芸部に所属し、8歳年上の坊城俊民と出会い、文学交遊を結ぶ。以降、中等科・高等科の6年間で多くの詩歌や散文作品を発表する。1938年(昭和13年)には『輔仁会雑誌』に、最初の短篇小説『酸模(すかんぽ)- 秋彦の幼き思ひ出』と『座禅物語』が掲載された。1939年(昭和14年)、祖母・夏子が他界。同年第二次世界大戦が始まった。この頃には、生涯の師となり、平安朝文学への目を開かせた清水文雄と出会っている。学習院に国語教師として赴任したのがきっかけだった。1940年(昭和15年)、アオジロをもじって自ら平岡青城の俳号を名乗り、『山梔(くちなし)』に俳句、詩歌を投稿。詩人川路柳虹に師事する。退廃的心情が後年の作風をほうふつとさせる、詩『凶ごと』を書いた。この頃の心情は、のちに短篇『詩を書く少年』に描かれ、詩歌は『十五歳詩集』として刊行された。この頃オスカー・ワイルド、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マンのほか、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、伊東静雄、森鴎外、そして『万葉集』や『古事記』などを愛読した。
[編集] 戦時下の思春期
1941年(昭和16年)、公威は『輔仁会雑誌』の編集長に選ばれる。小説『花ざかりの森』を手がけ、清水文雄に提出。感銘を受けた清水は、自らも同人の『文芸文化』に掲載を決定する。同人は蓮田善明、池田勉、栗山理一など、斉藤清衛門下生で構成されていた。この時、筆名・三島由紀夫を初めて用いる。清水に連れられて日本浪曼派の小説家・保田與重郎(やすだ よじゅうろう)に出会い、以降、日本浪曼派や蓮田善明のロマン主義的傾向の影響の下で詩や小説を発表する。
1942年(昭和17年)、席次2番で中等科卒業。第一高等学校を受験するが不合格。学習院高等科文科乙類(独語)に進学。独語をロベルト・シンチンゲルに師事。体操と物理を除けば極めて優秀な学生であった(教練の成績は甲で、三島はそのことを生涯誇りとしていた)。同人誌『赤絵』を東文彦、徳川義恭と創刊する[3] [4]。
1943年(昭和18年)、詩人・林富士馬を知り、以降親しく交際する。同年に東文彦が死去し、『赤絵』は2号で廃刊となった。弔辞は三島が読み上げた。
1944年(昭和19年)、学習院高等科を首席で卒業。卒業式に臨席した昭和天皇に初めて接し、恩賜の銀時計を拝領する。大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・平岡梓の勧めにより東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。そこで学んだ法学の厳格な論理性、とりわけ團藤重光助教授から叩き込まれた刑事訴訟法理論の精緻な美しさに魅了され、後にこの修得した論理性が小説や戯曲の創作において極めて有用であった旨自ら回顧している。息子が文学に熱中するのを苦々しく思い、事あるごとに執筆活動を妨害していた父ではあったが、文学部ではなく法学部に進学させたことにより、三島文学に日本文学史上稀有な論理性を齎したことは平岡梓唯一の文学的貢献であるとして、後年このことを三島は父に感謝するようになった。
出版統制の中、「この世の形見」として小説・『花ざかりの森』刊行に奔走。1944年10月に出版された。
本籍地の兵庫県加古川市(旧印南郡加古川町)の加古川公会堂(現、加古川市立加古川図書館)で徴兵検査を受け、第2乙種合格となる。公会堂の現在も残る松の下で40kgの米俵を持ち上げるなどの検査もあった。自著の「仮面の告白」によれば、加古川で徴兵検査を受けたのは、「田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立って採られないですむかもしれない」という父の入れ知恵であったが、結局、合格し召集令状を受け取ろものの、風邪をこじらせて入隊検査ではねられ帰郷したとある。同級生の大半が特別幹部候補生として志願していたが、三島は一兵卒として応召するつもりであった。この頃大阪の伊東静雄宅を訪れるも、伊東から悪感情を持たれる。
1945年(昭和20年)、群馬県の中島飛行機小泉製作所に勤労動員。総務部配属で事務作業しつつ『中世』を書き続ける。2月、入営通知を受け取り、遺書を書く(小泉製作所は1945年2月25日以降壊滅するまで米軍のB29による主要目標となって徹底的な爆撃を受け、多数の動員学生が死亡した。結果的に応召は三島に罹災を免れさせる結果となった)。本籍地で入隊検査を受けるが、折からひいていた気管支炎を軍医が胸膜炎と誤診し、即日帰郷となる。偶然が重なったとはいえ、徴兵逃れとも受け取られかねないこの自らの戦争に対する消極的な態度が、以降の三島に複雑な思い(特異な死生観)を抱かせることになる。この頃『和泉式部日記』や上田秋成などの古典、イェーツなどを濫読し、保田與重郎を批判的に見るようになった。『エスガイの狩』などを発表。戦禍が激しくなる中、遺作となることを意識した「岬にての物語」を起稿する。
1945年8月15日、日本は第二次世界大戦に敗戦。「感情教育の師」として私淑していた蓮田善明はマレー半島で陸軍中尉として終戦を迎えながら、8月19日に軍用拳銃で自決。10月23日には妹・美津子が17歳の若さでチフスにかかり急逝する。
1945年12月暮、後に『仮面の告白』に描かれる初恋の女性(三谷邦子。三谷隆信の娘、三谷信の妹。のち鮎川純太の伯母となる女性)が銀行員と婚約。1946年5月5日には両者が結婚。恋人を横取りされる形になった三島は「戦争中交際してゐた女性と、許婚の間柄になるべきところを、私の逡巡から、彼女は間もなく他家の妻になつた。妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力になつたやうに思はれる」と書いている[5]。
[編集] 文壇デビューと『仮面の告白』
1946年(昭和21年)、鎌倉に在住していた小説家・川端康成の下を尋ね、『中世』『煙草』を渡す。当時、鎌倉文庫の幹部であった川端は、雑誌『人間』に『煙草』の掲載を推薦した。これが文壇への足がかりとなり、以来、川端とは生涯にわたる師弟関係となる(ただし三島自身は川端を「先生」とは絶対に呼ばず、「川端さん」と呼ぶことに固執していた。自分の方が優れていたという自負があったのだろう。)。同年、敗戦前後に渡って書き綴られた『岬にての物語』が雑誌『群像』に掲載される。
1947年(昭和22年)1月、太宰治、亀井勝一郎を囲む集いに参加。この時、三島は太宰に対して面と向かって「僕は太宰さんの文学は嫌いなんです」と言い切った。このときの顛末について、後の三島自身の解説によれば、この三島の発言に対して太宰は虚を衝かれたような表情をして誰へ言うともなく「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えた、と解説されている。しかし、その場に居合わせた編集者の野原一夫によれば、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように言って顔をそむけた、という。
1947年11月、東京大学法学部(旧制)卒業。日本勧業銀行の入行試験を受験したが、健康上の理由により不採用となった。しかし高等文官試験には合格し(成績は167人中138位)、一時宮内省入省の口利きがあったものの、結局は父の慫慂により大蔵省事務官に任官。同じく学習院から東大を経て大蔵省入りした先輩に橋口收、入省同期に長岡實がいる。銀行局国民貯蓄課に配属されるが(上司に福田赳夫、愛知揆一がいた)、以降も小説家としても旺盛な創作活動をおこなう。初の長編「盗賊」を発表する。この頃、小説家・林房雄と出会う。
1948年(昭和23年)、『近代文学』の第二次同人拡大に際し、参加する(この件りは『私の遍歴時代』に詳しく叙述)。河出書房の編集者坂本一亀より書下ろし長編の依頼を受け、役所勤めと執筆活動の二重生活による無理が祟って渋谷駅ホームから転落、危うく電車に轢かれそうになったため、9月には創作に専念するため大蔵省を退職した(この転落事故が原因で、官僚を辞めて作家業に専念することを父の梓からようやく許可される)。
1949年(昭和24年)7月、書き下ろし長編小説『仮面の告白』を出版。同性愛を扱った本作はセンセーションを呼び、高い評価を得て作家の地位を確立した。以降、書き下ろし長編『愛の渇き』、光クラブの山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を1950年(昭和25年)に、『禁色』を1951年(昭和26年)にそれぞれ発表。戦後文学の旗手として脚光を浴び、旺盛な活動を見せた。1951年12月には朝日新聞特別通信員として世界一周旅行へ出発した(この世界一周旅行の実現には、父梓の一高時代の同期である嘉冶隆一が尽力したとされている。翌年8月帰国)。
[編集] 自己改造と『金閣寺』
世界一周旅行中に三島が発見した「太陽」「肉体」「官能」は、以後の作家生活に大きな影響を及ぼした。帰国後の1955年(昭和30年)頃から、三島はボディビルを始めるなど「肉体改造」に取り組んだ。古典的文学、特に森鴎外に注目するなどして、「文体改造」もおこなった。その双方を文学的に昇華したのが、1950年の青年僧による金閣寺放火事件を題材にした長編小説『金閣寺』(1956年)である。この作品は三島文学の代表作となった。
この時期の三島は、三重県神島を舞台とし、ギリシャの古典『ダフニスとクロエ』から着想した『潮騒』(1954年)をはじめ、『永すぎた春』(1956年)、『美徳のよろめき』(1957年)などのベストセラー小説を多数発表。作品のタイトルのいくつかは流行語(「よろめき」など)にもなり、映画化作品も多数にのぼるなど、文字通り文壇の寵児となる。同時期には『鹿鳴館』、『近代能楽集』(ともに1956年)などの戯曲の発表も旺盛におこない、文学座をはじめとする劇団でみずから演出、出演もおこなった。
[編集] 世界的評価と『鏡子の家』
1959年(昭和34年)、三島は書き下ろし長篇小説『鏡子の家』を発表する。起稿から約2年をかけ、『金閣寺』では「個人」を描いたが、本作では「時代」を描こうとした野心作だった。奥野健男はこれを「最高傑作」と評価したが、平野謙や江藤淳は「失敗作」と断じ、世間一般の評価も必ずしも芳しいものではなかった。これは、作家として三島が味わった最初の大きな挫折(転機)だったとされている。同年1月には『文章読本』を『婦人公論』に発表している。
その後、文壇の寵児として、『宴のあと』(1960年)、『獣の戯れ』(1961年)、『美しい星』(1962年)、『午後の曳航』(1963年)、『絹と明察』(1964年)などの長篇や『百万円煎餅』(1960年)、『憂国』(1961年)、『剣』(1963年)などの短篇小説、『薔薇と海賊』(1958年)、『熱帯樹』(1960年)、『十日の菊』(1961年)、『喜びの琴』(1963年)などの戯曲を旺盛に発表した。
私生活では、1958年(昭和33年)に日本画家・杉山寧の長女瑤子と結婚。大田区南馬込にビクトリア風コロニアル様式の新居を建築し(設計・施工は清水建設)、その充実ぶりを謳歌する一方、『宴のあと』をめぐるプライバシー裁判(1961年~)での敗訴(後、原告有田八郎の死去に伴い和解)や、深沢七郎『風流夢譚』をめぐるいわゆる嶋中事件に関連して右翼から脅迫状を送付され、数ヶ月間警察の護衛を受けて生活することを余儀なくされる(1961年)など、様々なトラブルにも見舞われた。この時の右翼に対する恐怖感が後の三島の思想を過激な方向に向かわせたのではないか、とする実弟の平岡千之の推測がある。
『喜びの琴』をめぐる文学座公演中止事件(喜びの琴事件、1963年)など、安保闘争を経た時代思潮に沿う形でいわゆる『文学と政治』にまつわる事件にも度々関与したが、このときはまだ晩年におけるファナティックな政治思想を披瀝するほどの関わりを持つことはなかった。1962年(昭和37年)には既に後の『豊饒の海』の構想が固まってもいる。
この頃よりボディビルに加えて剣道を始める。永田雅一の肝煎りで大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)に主演したり(1960年)、写真家細江英公の写真集『薔薇刑』のモデルになる(1963年)など、その鍛え上げられた肉体を積極的に世間に披露した。このような小説家以外での三島の数々の行動に対しては、一部で「露悪的」として嫌悪する見方がある一方、戦後マスメディア勃興期においていち早くマスメディアの効用を積極的に駆使し、いわゆる「マスコミ文化人の先駆」と位置づけて好意的に見る向きもある。
この時期には、三島文学が翻訳を介してヨーロッパやアメリカなどで紹介されるようになり、舞台上演も数多くおこなわれた(世界各国への三島文学紹介者として、ドナルド・キーンやエドワード・サイデンステッカーなどが著名)。以降、三島作品は世界的に高く評価されるようになる。
[編集] 楯の会と『豊饒の海』
自らライフワークと称した四部作の小説・『豊饒の海』の第一部『春の雪』が1965年(昭和40年)から連載開始された(~1967年)。同年、戯曲『サド侯爵夫人』も発表。ノーベル文学賞候補として報じられ、以降引き続き候補としてその名が挙げられた。
同時期に自ら主演・監督した映画作品『憂国』の撮影を進め(1965年、翌年公開)、『英霊の声』(1966年)、『豊饒の海』第二部『奔馬』(1967年~1968年)と、美意識と政治的行動が深く交錯し、英雄的な死を描いた作品を多く発表するようになる。
1966年(昭和41年)12月には民族派雑誌『論争ジャーナル』の編集長万代潔と出会う。以降、同グループとの親交を深めた三島は、民兵組織による国土防衛を思想。1967年(昭和42年)にはその最初の実践として自衛隊に体験入隊をし、航空自衛隊のロッキードF-104戦闘機への搭乗や、『論争ジャーナル』グループと「自衛隊防衛構想」を作成。自衛隊幹部の山本舜勝とも親交した。政治への傾斜と共に『太陽と鉄』『葉隠入門』『文化防衛論』などのエッセイ・評論も著述した。同年9月、インド・タイなどへ旅行。その時の体験は後『暁の寺』に結実[6]。
1968年(昭和43年)、『豊饒の海』第三部『暁の寺』(~1970年刊行)、戯曲『わが友ヒットラー』を発表。同年11月3日、『論争ジャーナル』グループを中心に民兵組織「楯の会」を結成する。1969年(昭和44年)、馬琴原作の歌舞伎台本『椿説弓張月』(主演は8代目松本幸四郎、戯曲『癲王のテラス』を発表(主演は北大路欣也)。
1969年2月に東大全共闘主催の討論会に出席し、当時東大の学生であった芥正彦、小阪修平らと国家・天皇などについて激論を交わす(討論記録は新潮社)。映画『人斬り』(五社英雄監督)に出演し、勝新太郎、石原裕次郎、仲代達矢らと共演(薩摩藩士田中新兵衛役)。同年楯の会の運営資金の問題をめぐり『論争ジャーナル』グループと決別し、楯の会に残った日本学生同盟の森田必勝らは後の三島事件の中心メンバーとなる。
1970年(昭和45年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、隙を突いて益田兼利総監を人質に取り籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした後割腹自殺した(三島事件)、45歳没。決起当日の朝、担当編集者(小島千加子)の手に渡った『豊饒の海』第四部『天人五衰』最終話(1970年夏には既に結末部は脱稿していたが、日付は11月25日と記載)が最後の作品となった。戒名は、彰武院文鑑公威居士。現在、忌日は、三島由紀夫研究会による憂国忌(主に九段会館)をはじめ、全国各地で民族派諸団体が追悼の慰霊祭を行っている。
[編集] 略年譜
- 1925年(大正14年) 東京市四谷区永住町(現・東京都新宿区四谷)に生まれる。本籍地は兵庫県印南郡志方村(現・兵庫県加古川市)。
- 1931年(昭和6年) 学習院初等科に入学。成績は中の下。
- 1937年(昭和12年) 学習院中等科に進む。成績、急に上昇する。同学友誌『輔仁会雑誌』に詩『秋二編』が掲載される。坊城俊民と出会う。
- 1938年(昭和13年) 『輔仁会雑誌』に、最初の短篇小説『酸模(すかんぽ)』『座禅物語』が掲載される。国語教師として赴任した清水文雄と出会う。オスカー・ワイルドやジャン・コクトーを愛読する。
- 1940年(昭和15年) 詩人川路柳虹に師事する。詩『凶ごと』を書く。東文彦と出会う。伊東静雄を愛読する。
- 1941年(昭和16年) 『花ざかりの森』を『文芸文化』に掲載。文学をやることについては父・平岡梓から猛反対を受けていたため、小説掲載が父に露見せぬよう「三島由紀雄」という筆名を名乗ろうと考えたが、「由紀雄という字面は重過ぎる」との清水の判断で「三島由紀夫」を初めて名乗る。『輔仁会雑誌』編集長となる。保田與重郎と出会う。
- 1942年(昭和17年) 席次2番で中等科卒業。第一高等学校を受験するが不合格。学習院高等科乙類(ドイツ語)に進学。同人誌『赤絵』を東文彦、徳川義恭と創刊。
- 1943年(昭和18年) 林富士馬を知る。東文彦死去。
- 1944年(昭和19年) 高等科を首席で卒業。東京帝国大学法学部法律科独法入学。『花ざかりの森』刊行。徴兵検査第2乙種合格。
- 1945年(昭和20年) 『中世』『エスガイの狩』発表。
- 1946年(昭和21年) 川端康成の推薦で、川端創刊の文芸誌『人間』に短篇『煙草』を発表。『群像』に短篇『岬にての物語』を発表。
- 1947年(昭和22年) 東京大学法学部(旧制)卒業。法学部での三島の成績は次席であり[要出典]、首席は共産主義者の飯田桃である。高等文官試験に合格。席次は167人中138位。大蔵省事務官に任官。『盗賊』発表。
- 1948年(昭和23年) 椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、安部公房らとともに『近代文学』の同人となる。創作に専念するため、大蔵省を依願退職。
- 1949年(昭和24年) 書き下ろし長編『仮面の告白』を発表。高い評価を得て作家の位置を確立する。
- 1950年(昭和25年) 書き下ろし長編『愛の渇き』、光クラブの山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を発表。
- 1951年(昭和26年) 『禁色』を発表。朝日新聞特別通信員として世界一周の旅へ出発(翌年8月帰国)。
- 1954年(昭和29年) 『潮騒』を発表。ベストセラーに。新潮社文学賞受賞。
- 1955年(昭和30年) ボディビルを始める。以降、生涯続ける。
- 1956年(昭和31年) 『金閣寺』(翌年、読売文学賞受賞)『近代能楽集』『永すぎた春』、戯曲『鹿鳴館 (戯曲)』を発表。文学座に入団。ボクシングを始める(~1958年ごろまで)。
- 1957年(昭和32年) 『美徳のよろめき』発表。ベストセラー。“よろめき”は流行語に。
- 1958年(昭和33年) 画家杉山寧の娘、瑤子と結婚。結婚に際しては、平岡家の祖先が被差別身分だったとの噂を聞きつけた杉山家から身元調査を受けた。本籍を兵庫県印南郡志方町上富木から東京都目黒区緑ヶ丘に移す。剣道を始める。
- 1959年(昭和34年) 書き下ろし長編『鏡子の家』、随筆集『文章読本』を発表。
- 1960年(昭和35年) 『宴のあと』発表。大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)に主演。
- 1961年(昭和36年) 『憂国』『獣の戯れ』発表。嶋中事件が起き深沢七郎の推薦者として右翼から脅迫を受け警察の護衛がつく。『宴のあと』モデル問題で、提訴される(1966年和解)。
- 1962年(昭和37年) 『美しい星』発表。
- 1963年(昭和38年) 『午後の曳航』『剣』発表。『喜びの琴』が上演中止になり、文学座を退団(喜びの琴事件)。朝日新聞紙上にて『文学座の諸君への公開状~「喜びの琴」の上演拒否について』を発表。
- 1964年(昭和39年) 『絹と明察』発表。前年の事件に関連して文学座を退団した役者らが、「グループNLT」(劇団NLT)を結成。三島は顧問に就任する。
- 1965年(昭和40年) 『サド侯爵夫人』発表。『豊饒の海』第一部『春の雪』連載開始。主演・監督作品『憂国』撮影、翌年上映。ノーベル文学賞有力候補に。
- 1966年(昭和41年) 『英霊の聲』発表。林房雄と対談し、『対話・日本人論』として出版される。
- 1967年(昭和42年) 第二部『奔馬』連載開始。自衛隊に体験入隊する。F104戦闘機に試乗する。「論争ジャーナル」グループと「自衛隊防衛構想」を作成。空手を始める。
- 1968年(昭和43年) 第三部『暁の寺』連載開始。「楯の会」結成。中村伸郎、南美江、村松英子らと「NLT」を退団し、劇団「浪曼劇場」を旗揚げ、『サド侯爵夫人』『わが友ヒットラー』などを上演。
- 1969年(昭和44年) 『文化防衛論』発表。東大全共闘主催の討論会に出席。映画『人斬り』(五社英雄監督)に出演。
- 1970年(昭和45年) 第四部『天人五衰』連載開始。陸上自衛隊東部方面総監部に乱入(三島事件)。森田必勝と共に割腹自決する。
[編集] 三島事件
1970年11月25日午前11時過ぎ、陸上自衛隊東部方面総監部(市ヶ谷駐屯地)の総監室を「楯の会」メンバー4人と共に訪問。名目は「優秀な隊員の表彰」であった。総監・益田兼利陸将と談話中、自慢の名刀「関の孫六」を益田総監に見せた後、総監が刀を鞘に納めた瞬間を合図に総監に飛び掛って縛り、人質に取って籠城。様子を見に行った幕僚8名に対し、日本刀などで応戦、追い出した。その中には、手首に一生障害が残るほどの重傷を負わされた者もいた。
三島自身が自衛官と、詰めかけたマスコミ陣に向けて30分間演説することを要求してそれを認めさせた後、バルコニーで自衛隊決起(=反乱)を促す演説をしたが、自衛官達からは「昼食の時間なのに食事ができない」と言う不満や、総監を騙し討ちして人質に取った卑劣さ、さらには三島の演説の内容へついての反撥も強く、「三島ーっ、頭を冷やせー!!!」、「何考えてんだ、バカヤローっ!!!」といった野次や報道ヘリコプターの音にかき消されてわずか7分で切り上げた[7] (三島はマイクを用意していなかった。この悲痛な光景を、テレビで見た作家の野上弥生子は、後に「三島さんに、マイクを差し上げたかった。」と述懐している。堤堯談)。そして森田必勝らと共に「天皇陛下万歳」を三唱したのち、三島は恩賜のたばこを吸い総監室で上半身裸となり、「ヤアッー!」と叫び自身の腹に短刀を突き立て、介錯の刃により絶命した(この時、介錯人の森田は手の震えでうまく首を斬れず、古賀が代わって担当した)。
自衛隊員たちに撒いた檄文には、戦後民主主義と日本国憲法の批判、そして安保体制化での自衛隊の存在意義を問うて、決起および憲法改正による自衛隊の国軍化を促す内容が書かれていた。三島はこれらの檄文と遺書を「楯の会」の会員を通じてNHK記者の伊達宗克とサンデー毎日記者の徳岡孝夫に託していた。
日本国憲法第9条第2項がある限り、自衛隊は「違憲の存在」でしかないと見ていた三島は、檄文のなかで自民党の第9条第2項に対する解釈改憲を
- 『日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなすもっとも悪質の欺瞞』
と断じていた。演説で、三島は自衛官らに、「諸君は武士だろう、武士ならば、自分を否定する憲法をどうして守るんだ」と絶叫した。
自殺の原因には諸説が挙げられるが、その一つとして考えられるのが、自身の「老い」への恐怖である(実際、三島は「自分が荷風みたいな老人になるところを想像できるか?」と友人に語っている)。新潮社の担当編集者だった小島千加子に対しては「年をとることは滑稽だね、許せない」、「自分が年をとることを、絶対に許せない」と語っていた[8]。
もう一つの理由として挙げられるのは、ヒロイズムつまり英雄的自己犠牲に対するマゾヒスティックな憧れである。三島は、1967年元旦に「年頭の迷い」と題して『読売新聞』に発表した文章のなかで、「西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行って神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霽堅が、私と同年で死んだといふ発見であつた。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合ふのだ」と述べている。
更にもう一つの理由として挙げられるのは、「切腹という行為」そのものに対する官能的なフェティシズムである。そのことは1960年に榊山保名義でゲイ雑誌に発表した小説『愛の処刑』からも明瞭に看取される。
また、三島は同年のサンケイ新聞夕刊7月7日号の戦後25周年企画「私の中の25年」に、『果たし得ていない約束』[9]という文章を寄稿している。その中で、戦後民主主義を「偽善というおそるべきバチルス」と断言し、「それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来た」ことに負い目を感じていた、と告白する。そして、これまでの自分の作品は排泄物に過ぎず、「その結果賢明になることは断じてない」とまで言い切る。
そして、文章の最後で
- 日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう
と日本の将来への絶望を吐露している。この文章は、実質的な『遺書』として、以降の三島研究において多く引用されることとなる。
三島が死に急いでいたことは、檄文に元来「昭和四十四年十月二十一日」(国際反戦デーにおける新左翼の暴動が(自衛隊ではなく)機動隊によって鎮圧された日)と書くべきところを「昭和四十五年十月二十一日」と書いていることなどからも伺える。検事冒頭陳述書によると、三島は古賀浩靖に向かって生前「自衛隊員中に行動を共にするものがでることは不可能だろう、いずれにしても、自分は死ななければならない」と語っていたという[10]。
介錯は、森田必勝および古賀浩靖がおこなった。最初は森田が斬りつけたものの二度失敗し刀を曲げてしまい、有段者の古賀に交代してやっと果たせた。警視庁牛込署の検視報告によると、三島は臍下4センチほどの場所に刀を突き立て、左から右に向かって真一文字に約13センチ、深さ約5センチにわたって切り裂いたため、腸が傷口から外に飛び出していた。さらに、舌を噛み切っていたことも報告されている。古賀浩靖は服役後、宗教団体・生長の家総裁谷口清超の娘と結婚し、荒地浩靖の名で宗教活動をおこなっている。
事件後、陸上自衛隊東部方面総監部総監室には、川端康成や当時警察官僚で三島と親しかった佐々淳行が訪れたほか、総監室の外には同じく三島と親しかった石原慎太郎も訪れたものの、現場である総監室には入室しなかった。
[編集] 三島の自衛隊論
三島は、檄文で、
- 自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった
と訴えた。そして、「政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう」と説き、前述のように前年の国際反戦デーの際に治安出動がおこなわれなかったことに憤った。
檄文では、
- 諸官に与えられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。…アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば…自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう
とも警告した。
三島は、死の年の1月19日、21日、22日に『読売新聞』に「『変革の思想』とは―道理の実現」という文章を寄せている。そこには、檄文や演説では言い尽くされていなかった三島の自衛隊に対する考えが余すところなく書かれている。
この中で三島は、「改憲の可能性は右からのクーデターか、左からの暴力革命によるほかはないが、いずれもその可能性は薄い」と指摘。そして、今の日本は「統治的国家」(行政権の主体)と「祭祀的国家」(国民精神の主体)の二極分化を起こしていると指摘し、国民に対しそのどちらかに忠誠を誓うかを問うた。それに合わせて、"現憲法下で"という条件付であるが、
- 航空自衛隊の9割、海上自衛隊の7割、陸上自衛隊の1割で国連警察予備軍を編成し、対直接侵略を主任務とすること、
- 陸上自衛隊の9割、海上自衛隊の3割、航空自衛隊の1割で国土防衛軍を編成し、絶対自立の軍隊としていかなる外国とも軍事条約を結ばない。その根本理念は祭祀国家の長としての天皇への忠誠である。対間接侵略を主任務とし、治安出動も行う、
という提案をおこなっている。国土防衛軍には多数の民兵が含まれるとし、楯の会はそのパイオニアであると主張している。
『文化防衛論』では、天皇が自衛隊に対し儀杖を受けることと連隊旗を下賜することを提言し、自衛隊の名誉回復を主張していた。
このように、三島が自衛隊に望んでいたことは、
- 自衛隊の名誉回復
- 日米安保体制からの脱却と自主防衛
の2点に集約される。
[編集] 三島の天皇論
一方、三島の天皇への態度は複雑である。
三島は、最後の日の演説や檄文などでは「歴史と文化の伝統の中心」、「祭祀国家の長」として天皇を絶対視していたが、『文化防衛論』においては「文化概念としての天皇」という概念を主張し、天皇は、宗教的で、神聖な、インパーソナルな存在であるべきだと主張した。
インパーソナルな天皇像を希求するがゆえ、晩年は「天皇というものを『現状肯定の象徴』にするのは絶対にいやだ」[11]などと発言して、天皇イコール「現状否定の象徴」「革命原理」との位置づけを頻繁に試みるようになる。その流れから、戦後の象徴天皇制を「週刊誌天皇制」として唾棄し、「国民に親しまれる天皇制」のイメージ作りに多大な影響力を及ぼした小泉信三を「大逆臣」と呼んで痛罵するなどした。
特に昭和天皇に対しては、「私はむしろ(昭和)天皇個人に対してある意味反感を持っている」と発言している[12]。
その「反感」とは、三島によれば、昭和天皇が、
によるものである。
この昭和天皇に対する否定的な感情は、2・26事件三部作の最後を飾る「英霊の聲」で端的に表されている。三島は、2・26事件の反乱将校と特攻隊隊員の霊に「などて天皇(すめろぎ)は人間(ひと)となりたまひし」と、ほとんど呪詛に近い言葉を語らせている。
高橋睦郎によると、三島は昭和天皇について「彼にはエロティシズムを感じない、あんな老人のために死ぬわけにはいかない」、当時の人気歌手を引き合いに出して「三田明が天皇だったらいつでも死ぬ」と発言したことがあったという[13]。
もっとも、その一方で、旧制学習院高等科を首席で卒業した際に昭和天皇から恩賜の銀時計を拝受したことを感慨深く回想しており、1969年5月におこなわれた東大全共闘との討論集会においても、学習院高等科の卒業式に臨席した昭和天皇が「3時間(の式の間)木像のように微動だにしなかった」御姿が大変ご立派であったと、敬意を表することも一再ならずあった。同じ討論集会で三島は「君らが一言『天皇陛下万歳』と叫んでくれれば俺は喜んで君らと手をつなぐ(共闘する)のに、いつまで経っても言ってくれないからお互い『殺す、殺す』と言っているだけさ」と言い放ち、全共闘学生を挑発した。
三島の天皇主義的な側面を捉えて、俗に三島を右翼と位置づける傾向がいまだに根強いが、生前には『風流夢譚』事件で右翼の攻撃対象となるなど、必ずしも既存右翼と軌を一にしていたわけではない(もっとも、1965年頃に毛呂清輝らとの交流があったことが、書簡等で明らかとなっている)。しかしその右翼陣営も、三島自決後は三島をみずからの模範として崇敬(もしくは政治利用)するようになる。
[編集] 『宴のあと』裁判
1961年3月15日、元外務大臣・東京都知事候補の有田八郎は、三島の『宴のあと』という小説が自分のプライバシーを侵すものであるとして、三島と出版社である新潮社を相手取り、慰謝料と謝罪広告を求める訴えを東京地方裁判所で起した。裁判は、「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」という論点で進められたが、1964年9月28日に東京地方裁判所で判決[14]が出て、三島側は80万円の損害賠償の支払いを命じられた。この後、1965年に有田が死去したため、有田の遺族と三島との間に和解が成立した。
当初この件で三島は友人である吉田健一(父親の吉田茂が外務省時代に有田の同僚であった)に仲介を依頼したものの上手くいかず、この事が後に三島と吉田が絶交に至る機縁になったといわれている。
[編集] 『三島由紀夫-剣と寒紅』裁判
1998年、福島次郎が文藝春秋社から小説「三島由紀夫-剣と寒紅」を発売した。内容は三島と福島の同性愛の関係を描いたセンセーショナルなものであり、三島から福島に送られた15通の手紙の全文も掲載されているなど話題を呼んだ。ところが、この手紙を原文のまま著書に掲載したのは著作権侵害」であるとして、三島由紀夫の相続人2人は「著者の福島と出版元である文藝春秋社に出版差し止め、著作権侵害による損害賠償を求めて民事裁判を起こした。一審、二審ともに「事務的な内容(文藝春秋社側の手紙は実用的な通信文であり著作物にあたらないとの主張)のほか、三島の自己の作品に対する感慨、抱負や折々の人生観などが、文芸作品とは異なる飾らない言葉で述べられている」と三島の自筆の手紙であることが認められ、原告が勝訴した。2000年、最高裁判所は「著者側の主張は、事実誤認や単なる法令違反で上告理由にあたらない」と、福島と文藝春秋側の上告を棄却し、これにより、手紙も著作物にあたる場合があるとの高裁判決が確定した。なお、裁判は著作権上の判断であり、争点は内容に関しての真偽についてではなかった。当初より異例の初版10万部の発行をおこなっており、判決にもかかわらず大半は流通した。
[編集] その他
- 三島自身は「私は今までの半生で、二回しか試験を受けたことがない。幸いにしてそのどちらも通つた」と言っているが[15]、実は中学受験のとき開成中学の入試に、高校受験のとき一高の入試に、就職のとき(健康上の理由で)日本勧業銀行の採用試験に失敗している。三島と開成学園については、母方の祖父(橋健三)が開成中学の校長を務めた他に、三島の父(平岡梓)と、祖母夏子の実弟(大屋敦)が旧制開成中学出身だった縁がある。また、三島の長男はお茶の水女子大学附属小学校卒業後、中学から開成に学んでいる[16]。
- ボディビルを始めるきっかけとして、細身な上に身長が低いこと、さらに胃弱や虚弱体質に悩んでいた三島は、ある週刊誌のグラビアに取り上げられていた玉利齊(当時、早大バーベルクラブ主将。現在は社団法人日本ボディビル協会会長)の写真と「誰でもこんな身体になれます」というキャプションに惹かれ、早速編集部に連絡を取り、玉利を紹介してもらったことが挙げられる。最初は自宅の庭に玉利を招いて指導を受け、後年は後楽園のトレーニングセンターや、国立競技場のトレーニングセンターにまめに通った。昔の三島は腺病質で、あるパーティでダンスを共にした美輪明宏から「あら、三島さんのスーツってパットだらけなのね」とからかわれたりしていた(このとき三島は顔色を変え部屋から出て行ったとされる)。後年、飛行機で乗り合わせた仲代達矢がボディビルについて尋ねた時「本当に切腹するとき脂身が出ないよう、腹筋だけにしようと思っているんだ」と答えた。料亭で呑んだ時は、仲居に向かって「腹筋をつまんでごらんなさい」と要求して贅肉のない腹部を誇り、仲間内では「俺はミスター腹筋というのだ」と自慢していたと伝えられる。1948年からの友人中井英夫が小学館で『原色百科事典』の編集に携わっていた頃、ボディビルの項目に載せる写真のモデルにならないかと三島に冗談を言い、そのまま忘れていると、次に会ったとき三島から妙に声をひそめるようにして「この間のボディビルの話ねえ、もし本当なら急いでもらえない? オレ、もしかするとまた外国に行かなくちゃならないかも知れないから」と催促された。それは遠慮深く真剣な口調だったので、中井は三島が本気であると感じ、編集部に話を通して実現の運びとなった[17]。最初は10kgしか挙げられなかったベンチプレスも、鍛錬の結果、晩年は90kgを挙上したという。
- 三島の同世代の作家には、星新一や遠藤周作など比較的長身の者もいたが、三島は身長163センチと、当時としては平均的であった[18]。あるとき、新聞記者が三島に身長を尋ねると、「173センチです」との返答だったため、その新聞記者は奇異の念を抱いた。その新聞記者の身長が173センチだったのに、どう見ても三島のほうが小さかったからである[要出典]。
- 三島はもともと胃が弱く、お茶漬けを何よりの好物としていた。しかし30歳以降はボディビル・剣道・ボクシングなどで自己鍛錬を重ねて胃弱を克服し、それ以降は好んで脂っこい料理を食べるようになった。好物を問われると、胸を張って「ビフテキ」と答えた。
- 三島は晩年「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と告白したほど小市民的幸福を嫌っていたが、その一方で、1965年、月刊雑誌の幼稚園特集号を見て編集部に電話を入れ、幼稚園事情に詳しい記者の紹介を依頼し、都内の料理店でその記者と会い、「長男を東大に入れるにはどんなコースがあるか、幼稚園の選び方から教えて欲しい」と40分余りにわたって記者に質問し、真剣にアドバイスを聴き、メモをとった一面もあった[19]。
- 三島由紀夫は日本の作家のなかでも特に海外での評価が高く、監督:ポール・シュレイダー 制作総指揮:ジョージ・ルーカス フランシス・フォード・コッポラにより映画『Mishima: A Life In Four Chapters』も製作されているが、日本での公開は行われていない。コッポラは、映画『地獄の黙示録』の撮影時には、三島の『豊饒の海』も手に取り、構想を膨らませていたようである。
- 三島が監督・脚本・主演全てをおこない、後の自決を予感させるような内容の映画『憂国』は、三島の死後夫人の希望によりフィルムが全て焼却され、画質劣悪な海外版以外現存しないとされてきたが、2005年(平成17年)にオリジナルのネガフィルムの発見が報じられた。三島と共同で制作した藤井浩明がネガフィルムだけは焼かないように夫人に頼みこみ、夫人が茶箱に入れて保存していた。夫人が死去した翌年の1996年(平成8年)に発見されたという。
- 三島が大蔵省に勤めていた時、その文才を買われて大蔵大臣の国会答弁の原稿を頼まれたことが何度かあったが、いずれも簡潔明瞭すぎて、解釈が1通りしかできず、没にされた(官僚界の常識として、話の内容を幾通りにも解釈できるようにしてできるだけ言質を取られないようにする、というのがある)。挙句の果てには「笠置シヅ子さんの華麗なアトラクションの前に、私のようなハゲ頭がしゃしゃり出るのはまことに艶消しでありますが、……」ではじま
