ヨーゼフ・ゲッベルス
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| パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス Paul Joseph Goebbels |
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ナチス・ドイツ初代国民啓蒙・宣伝大臣
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| 任期: | 1933年3月13日 – 1945年4月30日 |
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| 任期: | 1945年4月30日 – 5月1日 |
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| 出生: | 1897年10月29日 |
| 死去: | 1945年5月1日(自殺) |
| 政党: | |
パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(Paul Joseph Goebbels, 1897年10月29日 - 1945年5月1日)は、ドイツの政治家。ナチ党政権の国民啓蒙・宣伝大臣(宣伝大臣)を務めた。「プロパガンダの天才」「小さなドクトル」と称され、ヒトラーの政権掌握と第三帝国の体制維持に辣腕を発揮した。敗戦の直前、ヒトラーの遺書によってヒトラーの後任のドイツ国首相に任命されるが、直後に自殺した。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 生い立ち
1897年10月29日、ノルトライン=ヴェストファーレン州メンヒェングラートバッハの事務員の家庭に生まれる。
両親は貧しいが敬虔なカトリック教徒であり、ゲッベルスは司祭になるよう望まれた。ギムナジウム在学中の1914年、第一次世界大戦に出征を志願するが、幼少の頃に患った小児麻痺の後遺症によって、やや足が不自由(左右で長さが違う)であったため兵役不適格と認定される。
[編集] 知識人としての自意識
学業成績は優秀で、耐乏生活を送りながら奨学金を受けていくつかの大学で文学、古典文献学、歴史などを学ぶ。このころのゲッベルスにはまだ反ユダヤ主義的傾向は少なく、ハイデルベルク大学で教えを受けたフリードリヒ・グンドルフ教授も、博士論文の指導教授マックス・フォン・ヴァルトベルク男爵もユダヤ人だった。また、ナチ党で地位を得るまでは半ユダヤ人の女性と恋愛関係にあり、友人宛の手紙では「もしユダヤ人を殺したり、追放することが政治的に正しくても、それは人間の道理にかなっていない」と反ユダヤ主義を批判していた。
1921年、ハイデルベルク大学で文学博士号を取得した。大学卒業後はジャーナリストか放送局の文芸部員になろうとしたが失敗し、失業状態が続く。この時、ユダヤ系の出版社にも入社しようとしていたが失敗している。ケルンの新聞社に短期間勤めたこともあったが不況のため解雇され、家族には失業後も通勤を装うなどゲッベルスは失意の底にあった。しかし、そのために自らの学歴に対する自負は却って大きくなり(署名の際には、必ず“博士(Dr.)”の称号をつけたという)、知識人としての自意識を強固なものにしていった。
[編集] ナチ党
その後ヴァイマルで行われた集会で国家社会主義に触れ、1924年8月21日、メンヒェングラットバッハに「国家社会主義大ドイツ解放運動」支部を設立する。これは国家社会主義ドイツ労働者党が、アドルフ・ヒトラーのミュンヘン一揆が鎮圧されて非合法になった後その隠れ蓑として設立されたダミー団体だった。また、1924年10月1日から「民族的自由」紙主筆を務め、ユダヤ人出版業者の攻撃を始めている。
1925年3月、ナチ党ノルトライン・ヴェストファーレン支部の幹部党員となり、数々の演説で頭角を現す。ナチス左派であるゲッベルスの考えは、公開書簡で率直に「my friends of the left」と言っていることに表れており、いわゆる「ゲッベルスの日記」でも国家社会主義者と共産主義者の同盟を主張していた(1932年11月にはベルリン交通局のストライキでナチスと共産党の共闘をゲッベルスが独断で決めたため、財界からの献金が一時途絶え、34議席も減らす一因になり、ヒトラーに叱責される[要出典])。
しかし、翌1926年2月14日にバンベルクで開かれた幹部会議でヒトラーが既存勢力との融和を重視したことに幻滅したゲッベルスは、ヒトラーを「日和見主義者」などと非難し、除名まで提案した。ゲッベルスの才能を買っていたヒトラーは、ゲッベルスに進んで働き掛け、同年4月についにゲッベルスはヒトラー支持、シュトラッサー非難に転じ、見返りにベルリン・ブランデンブルク大管区指導者に任命される。「赤いベルリン」と呼ばれ共産主義の牙城だったこの地区を任されたゲッベルスは扇動者としての能力を発揮し、南部に偏りがちだったナチ党は北ドイツへの進出に成功した。この頃にはゲッベルスは共産主義者に対して「血をわけた赤いごろつきども」という愛憎相半ばした感情を抱くようになった。1927年には「デア・アングリフ」紙を発刊し、他の新聞・雑誌や他政党に対する言論戦を本格化する。他紙を論破するのではなく、大活字で他紙を罵って読者の感情を揺さぶり、他紙の反論を招けば招くほどナチ党とその主張の宣伝になるという方法だった。
1928年5月の全国選挙に初当選、国会議員となる(ナチ党は12議席獲得)。同年、ナチ党宣伝全国指導者(ナチ党宣伝部長)となり、党の最高指導部に列した。1930年9月14日の国会選挙ではナチ党の宣伝戦全般を指揮し、その結果、107議席(得票数640万票〔投票総数の18パーセント〕)を獲得して第2党に躍り出るという大勝利をおさめた。1932年7月31日の国会選挙ではナチ党は230議席を獲得、第1党となる(同年11月6日の国会選挙では第1党の地位は保ったものの、196議席に減退)。
[編集] 国民啓蒙・宣伝大臣
1933年1月30日のヒトラー内閣成立、3月5日の国会選挙の勝利(ナチ党は投票総数の44パーセントを獲得)を経て、ゲッベルスは新設された「国民啓蒙・宣伝省」の大臣に任命される。そしてゲッベルスは強制同一化やユダヤ商店ボイコット運動などを推し進めていく。その後も、国立文化院の設立(院長は宣伝大臣の兼務)、退廃芸術展開催、芸術文化領域からのユダヤ人追放、映画会社最大手ウーファ買収などによって国家がメディア・芸術全体を支配するようになる。
第二次世界大戦開戦後も絶え間なく国民に対する情報戦(プロパガンダ)を展開し、大戦末期にドイツが劣勢に転じた後も、爆撃にあった都市のために救援隊を組織したり、徴兵されなかった中年・少年男性を集めて国民防衛隊「人狼」を設立したりして国民の人気を集めた。敗勢が決定的になってヒトラーがほとんど演説をしなくなるとその代役を務め、連合軍に対して最後まで抵抗するようラジオで国民に呼びかけた。スターリングラード攻防戦の敗北後、ベルリンのスポルトパラスト(Sportpalast)で行った総力戦布告演説は有名である。自らの宣伝省が爆撃によって破壊された時はかなりのショックを受けたと日記に記している。また、空襲を受けたベルリン市民を直接激励するようにヒトラーに何度も進言したが、受け入れられることはなかった。
1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件の時には、たまたま首都ベルリンにいた唯一人のナチ最高幹部として反乱の鎮圧に大きな役割を果たした。その結果、同年7月25日にヒトラーから総力戦全国指導者(戦時国家総動員総監、国家総力戦総監という訳もある)に任命され、内政全般に大きな発言力を得る。1945年1月30日にはベルリン防衛総監を兼任して首都防衛の最高責任者となる。しかしゲッベルスは軍を信用せず、首都の防衛の主力には多大なる犠牲を顧みず、装備も訓練も劣る国民突撃隊を投入した。
[編集] 首相就任と自殺
ソ連軍によるベルリン包囲網が狭まるにつれて政府指導者やナチ党幹部の多くはベルリンから脱出したが、ゲッベルスはヒトラーの側に残る道を選んだ。ベルリンの戦いのさなか、妻と6人の子と共にヒトラーの総統防空壕に移り住む。1945年4月29日、ゲッベルスは党官房長マルティン・ボルマンとともに、ヒトラーとエヴァ・ブラウンの結婚の立会人となり、その後の二人の死を見届ける。4月30日、ヒトラーの遺言により首相に就任、その資格においてソ連軍と条件付降伏交渉を行うが、ソ連軍からは無条件降伏を求められ、決裂。
5月1日、5人の娘と1人の息子に青酸カリを与えて殺したあと、マグダ夫人と共に自殺し、夫婦でナチ党に殉じた。遺体はヒトラーの場合と同様ガソリンで焼却されていたが、ヒトラーと違い半焼け状態であったので輪郭と党記章、足の矯正具から特定は容易に行なわれた。記録として遺体の写真こそ残されてはいるものの、遺体のその後の扱いは今日でも未だ不明のままで明らかになってはいない。
[編集] 家庭生活
1931年12月19日、ゲッベルスはマグダ・クヴァントと結婚する。マグダの前夫は実業家のギュンター・クヴァントで、一男ハラルトがあった。そのハラルトも養子としてゲッベルス家に迎えられた[1] 。ハラルトは第二次世界大戦に従軍、捕虜となり、ゲッベルスの家庭で唯一の生き残りとなった。ゲッベルスとマグダ夫人は生涯で六人の子供をもうけ、一見模範的なドイツ家庭を作り上げてそれを宣伝した。
ゲッベルスの家庭はナチ党の高官たちが集う憩いの場でもあったが、宣伝では模範的だった家庭も、実際にはゲッベルスの奔放な女性関係によりしばしば危機に瀕した。ゲッベルスは、ナルシスト特有の自信と映画界での権力を背景に多くの女優に関係を迫っていた。1938年のチェコ出身の女優リダ・バーロヴァとの関係は、双方ともに本気の恋愛関係となり、マクダ夫人との離婚、バーロヴァとの結婚を決意するまでに至った。総統ヒトラーはこれに激怒したが、ゲッベルスは宣伝大臣を辞任して日本大使となり、バーロヴァと共にドイツを去りたいとまで申し出た。しかしヒトラーはこれを許さず、ゲッベルスにはバーロヴァとの手切れを、妻には結婚生活の継続を命じるというスキャンダルに発展した。マクダ夫人はこれに感謝し、ヒトラーに大変な信頼を寄せることとなる。
戦後、ベルリン郊外にあったゲッベルスの邸宅はソ連軍に押収され、後に東ドイツ政府によって集会施設として使用されていた。しかし、1990年にベルリンの壁が崩壊し東ドイツ政府が消滅すると、ベルリン市の管轄に移った。ベルリン市はネオナチの聖地化するのを恐れ、建物を閉鎖して管理していたが、財政難により競売にかけられる事が決定した。
[編集] 宣伝手法・考えを巡る強敵との相克
ナチスといえば、ニュルンベルグ党大会での演出やパレードなど華麗・華美な宣伝という印象が多く流布しているが、政治宣伝部門を担当していたゲッベルスが本当に望んでいた手法は全く別個のもの(但し、ニュルンベルグ党大会については ①党内で半ば盟友関係だったシュペーアがデザイン担当に深く関わっていた ②最高指導者であるヒトラーの好みを考慮 ③当のゲッベルスがハリウッド映画の華美・壮観な演出に憧れ魅了されていた 等の事情があった)であった。
「宣伝を宣伝と気付かせない」「宣伝したい内容を直接キャッチフレーズ化して強調・連呼せず、心の中で思っているであろう不満・疑問・欲望を遠まわしに刺激し暴発させる」「もっとも速度の遅い船に船団全体の速度を合わせる護送船団の如く、知識レベルの低い階層に合わせた宣伝を心掛ける」これらの手法・考えは、当時のナチスドイツやソ連、そして後年幾つか登場する全体主義国家(他、カルト団体など)よりも、むしろ民主主義国家(政治だけでなく商業でも)で本領を発揮し易いもので、アメリカ大統領選挙(特に1964年以降)でのネガティブキャンペーンが顕著な例である。
壮大な規模の大パレードやマスゲームで優越感をくすぐり、攻撃対象を痛烈に罵倒し罵る宣伝は支持者への即効性が望める反面、ある程度以上の知性を持つ大衆、或は外国から畏怖や違和感を抱かせる逆宣伝効果が多大にある(敵対勢力に簡単に逆用されてしまう)事をゲッベルスは理解し始めていた。
大手映画会社が作成した娯楽映画「ヒトラーユーゲント クベックス」(普段から生真面目過ぎて仲間から馬鹿にされているクベックスという少年が、生死をかけて潜伏スパイを摘発し、最後に少年団仲間に看取られながら通りの真ん中で最期を遂げる内容)を試写して「あからさまに政治宣伝色が強すぎる」と激怒し、お蔵入りさせるといった出来事まで起きている。
ヒトラーのお気に入りとして登場する映画監督のレニ・リーフェンシュタールは、当初ゲッベルスを「話の判る知性溢れる人」と好感を抱いていたが、彼女が芸術性を第一に考えて製作したプロパガンダ映画作品の殆どはまさに前述のゲッベルスのポリシーに反し琴線に触れるものばかりで、やがては国内映画制作の指導指揮権一部競合を巡る両者の根深い対立へと繋がっていく。
これらについては、1992年にBBCが製作したドキュメンタリー映像作品「メディアと権力」第一部『大衆操作の天才・ゲッベルス』紹介HPで詳しい。
ベルリンオリンピックを撮った記録映画『オリンピア』で、ゲッベルスは度々あからさまに撮影の妨害を行っていた。彼の妨害に我慢できず口論し泣き出してしまった彼女をヘルマン・ゲーリングが慰めるというエピソードをレニが述懐している。
[編集] その他
- チャップリンの映画『独裁者』でトメニアの独裁者ヒンケル(役:チャップリン)を補佐するガービッチ内務大臣(役:ヘンリー・ダニエル)は、ゲッベルスのパロルである。映画でのガービッチ(通常は「内務大臣」とされているが、映画の最後の場面で「内務大臣兼宣伝大臣」と紹介される)は、喜劇的に誇張された他の登場人物とは違い、冷徹で頭脳明晰な上に狂信的な反ユダヤ主義者・反民主主義者という、ヒンケル以上に怖ろしい人物として描かれている。
- 映画愛好家のゲッベルスは『ニーベルンゲンの歌』と『戦艦ポチョムキン』のファンだった。監督のラングとエイゼンシュテインのどちらもユダヤ人であり、ゲッベルスにヒトラーの好きな『ヴィルヘルム・テル』の映画化を頼まれたラングは速やかにフランスに亡命し、エイゼンシュテインは「我々は、我々の戦艦ポチョムキンを作らなければならない」というゲッベルスの発言に憤激したことは有名である。
- ゲッベルスは、後世の映画の中に自分が登場することを夢見ていた。オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督の映画『ヒトラー 〜最期の12日間〜』(2004年、ドイツ・オーストリア・イタリア共同)では、ドイツの性格俳優ウルリッヒ・マテスがゲッベルスを好演。その他、『アドルフ・ヒトラー/最後の10日間』(1973年、イギリス・イタリア共同、エンニオ・デ・コンチーニ監督)、『ベルリン陥落』(ミハイル・チアウレリ監督、1949年、ソ連)、『オペレーション・ワルキューレ』(ヨ・バイアー監督、2004年、ドイツ)などの作品にゲッベルスの姿が登場する。
- 日本語ではしばしば「ゲッペルス」と表記されるが、これは正しくない。なお、現在、少数であるが「ゲベルス」という表記も見受けられる。第二次世界大戦前の日本では「ゴェッベルス」と表記されたこともあった。
- 青年時代のアルベルト・シュペーアは、ヒトラーの演説には引き込まれたのに対して、聴衆を逆上させるゲッベルスの演説手法には違和感を覚えたという。ただ、後年のシュペーアは、大学教育を修了していた知識人という共通点もあってゲッベルスと親しくなり、政権内闘争に際してはしばしば共同戦線を張っている。また、シュペーアはゲッベルス夫人のマクダとも親しかった。
- 足の長さが違い、そのため歩行時は片方をややひきずる状態で歩いた。この事は戦時下で流行った「嘘は足を引きずって歩く」(本来は「嘘の足は短い」で、「嘘はすぐバレる」ということを意味していた)というジョークにもなった。彼の身体的特徴や辣腕ぶりをネタにしたジョークは非常に多い。
[編集] 参考文献
- クルト・リース(西城信訳)『ゲッベルス—ヒトラー帝国の演出者—』(図書出版社、1971年)
- ロジャー・マンヴェル 、ハンリヒ・フレンケル(樽井近義・佐原進訳) 『第三帝国と宣伝—ゲッベルスの生涯—』(東京創元社、1962年)
- 草森伸一『ナチス・プロパガンダ 絶対の宣伝(1)宣伝的人間の研究 ゲッベルス』(番町書房、1978年)
- 平井正『ゲッベルス—メディア時代の政治宣伝—』中公新書(中央公論社、1991年)
- 前川道介『炎と闇の帝国—ゲッベルスとその妻マクダ—』(白水社、1995年)
- ヨーゼフ・ゲッベルス(西城信訳)『ゲッベルスの日記』 (番町書房、1974年)
- ヨーゼフ・ゲッベルス(桃井真訳)『大崩壊—ゲッベルス最後の日記—』 (講談社、1984年)
- ゲッベルス「ミヒャエル―日記が語るあるドイツ的運命」池田浩士訳(『ドイツの運命――ドイツ・ナチズム文学集成(1)』柏書房、2001年)
- ゲッベルス『伯林奪取』下村昌夫訳(永田書店、1940年)
- ゲッベルス『宣伝の偉力』高野瀏訳編(青磁社、1941年)
- ゲッベルス述「理論と実践に於けるボルシェヴィズム」大東文化協会研究部訳(『人民戦線に対するナチスの宣戦』青年教育普及会、1937年)
- ゲッベルス述「戦争は偉大な教育者である」金平太郎訳(『ナチスの戦争論』東方書院、1942年)
- バーデ『ナチス独逸の議会改革 全体議会建設の指導者ゲェベルス博士』安武納訳(天佑書房、1942年)
[編集] 脚注
- ^ これによりナチス幹部との血縁関係を得たギュンター・グヴァントは、強制収容所から徴収した労働者を自身の工場で酷使するなどして巨万の富を築いた[1](クヴァント家は現在、BMWやファルタなどを所有するドイツで最も富裕な一族となっている)。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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