ヨシフ・スターリン - Wikipedia

ヨシフ・スターリン

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ヨシフ・スターリン
Иосиф Сталин
Joseph Stalin
ヨシフ・スターリン

ソビエト連邦第2代最高指導者
任期: 1922年4月3日1953年3月5日

出生: 1879年12月9日
グルジアゴリ
死去: 1953年3月5日
モスクワ
政党: ソビエト連邦共産党
配偶: エカテリーナ・スワニーゼ(最初の妻)
ナジェージダ・アリルーエワ(2番目の妻)

ヨシフ・スターリンロシア語Иосиф Сталин,英語Joseph Stalin, 1879年12月9日グレゴリオ暦12月21日) - 1953年3月5日)は、ソビエト連邦政治家。本名は、ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(ロシア語;Иосиф Виссарионович Джугашвили, グルジア語:იოსებ ბესარიონის ძე ჯუღაშვილი)。「ジュガシヴィリ」は「ユダヤ人の息子」の意。1922年から死去する1953年までソビエト連邦共産党書記局長を務めた[1][2][3]ロシアでは総書記に当たる語で呼ばれる。

党内での昇進を経て、ソ連の国家元首となってからは、レーニニズムLeninism)の原理を基礎とした政治を樹立し、一国社会主義Socialism in one country)を興し始めた[4]。批評家は、スターリンの統治が独裁者特有のものであり、その政治形態をスターリニズムと呼ぶ[5]。一方で、これらの非難は曲解や誇張であると否定する者もおり[6][7]、現在でも未だに論争が続いている人物の1人である。

ウラジーミル・レーニンの死後、レフ・トロツキーとの権力闘争に勝利したことでトロツキーを共産党から除名し、さらに国外追放した。党員名簿と経理を掌握することで実権を握り、のちの強大な権力の地盤を築いた。1921年に施行された新経済政策(ネップ)を、1928年第一次五ヶ年計画に替えたことで、ソ連は急速な工業化と経済成長を見せた。しかしながら、スターリンはおよそ同時期の集団農場促進の取り組みや、一部が完全な失敗に終わったと論ぜられる新しい農業政策に乗り出し、ソ連内で続いた干ばつと飢饉によって数百万人の死者を出した。この飢饉と数多くの犠牲者が出たことについて、反共主義者が書いた共産主義黒書The Black Book of Communism)では、犠牲者は1000万人を超えると見ているが、スターリンを支持するベルギーの歴史学者Ludo MartensとStefan Merlは、犠牲者は30万人と推定しているなど、依然として歴史的・政治的論争の議題となっている[7][8]。主流の歴史学者からは、この重大な飢饉(Soviet famine of 1932-1933)でソビエト人民約600万人が死んだと信じられている[9][10][11][12][13][14][15][16][17]

1930年代の終わり頃には、党内の反対派や「反革命的」とみなした者を排除するために大粛清を実行。数多くの批評家が、スターリンは政敵の排除のために不当な逮捕や処刑を行い、政治的理由によって人民を強制収容所グラグに収容したと述べている[18][19]。ほかに「人民の敵」とみなした者を「粛清」と称して弾圧し、さらに無実の人間も含めて多数の人間を虐殺するなど過酷な抑圧政策を取ったことでも知られており、『赤いツァーリ』の称号で呼ばれることも多い。反対する者や政敵の粛清を経て実質的な最高指導者となり、独裁的な権力を振るった。

スターリン政権下のソ連は、第二次世界大戦ナチス・ドイツによる侵攻の矢面に立たされた。スターリンはナチス撃破のために大きく果断な処置を取った[20]

旧ソ連ではスターリンを、ナチス・ドイツの侵略から祖国を守った英雄として、ソビエトを戦勝後にアメリカに次ぐ世界第二番目の経済大国へと躍進させた戦略的指導者と認識している人々も少なくない。スターリンの統率は、強力な個人崇拝プロパガンダによって強固なものとなり、結果として(犯罪者と「なった」者も含めて)ソ連の大多数の人々によって英雄とみなされた[21]。彼が存命の頃のソ連は、プロパガンダによって共産主義の希望の星として憧憬の目が注がれていた。しかし、その死後はニキータ・フルシチョフスターリン批判などによって、スターリンによる独裁の時代の政治体制・主張・理論は、右翼陣営だけでなく左翼陣営からも否定されるようになり、多くの共産主義者から批判・敵視されることとなった。

目次

[編集] 生い立ち

グルジアのゴリにあるスターリン生誕の家
スターリンの母親エカテリーナ・ゲラーゼ
スターリン(1894年、16歳)

ヨシフは、ロシア帝国時代のグルジアゴリにて、靴屋ヴィサリオン(ベソ)・ジュガシヴィリと、農奴の母エカテリーナ・ゲラ-ゼの息子として生まれた[22]。両親はいずれもグルジア生まれであった。ヨシフは3番目の子供であったが、2人の兄弟は幼児の段階で亡くなり[22]、「ソソ」と呼ばれていた。父のジュガシヴィリの暮らしは繁盛していたが、次第にアルコール依存症に陥り、仕事でうまくいかないことがあると、妻や息子を虐待した[23]。ヨシフは父親からしばしばで打たれた。当時のロシアでは、鞭打ちは子供をしつけるための容認された方法であった。

一家の財政状況は悪化し、頻繁に移住した。ヨシフが10歳になるまでに9回移住している[22]

激しい無法地帯の街でヨシフは育った。小規模の警官隊と、戦争で疲弊したグルジアの過去の歴史から受け継いでいる騒々しい喧嘩や取っ組み合いの勝ち抜き試合を組織しているギャングとの争いを含めた暴力の文化があった[22]

ヨシフの家の近所に、ダヴィド・パピスメドフ(Давид Паписмедов / David Papismedov)というユダヤ人が住んでいた。パピスメドフはヨシフに金銭と本を与えて激励した。その数十年後、パピスメドフは、ヨシフ少年がどうなったか知るためにクレムリンを訪れた。ヨシフは初老のユダヤ人を歓待し幸福に歓談することで、同僚を驚かせた。

7歳のとき、ヨシフは天然痘に罹患し、病気の症状のために顔がひどく傷付いた。ヨシフはのちに、痘痕があまりはっきりと写らないように修正した写真を撮った。ヨシフの母語はグルジア語であったが、8〜9歳になるまでロシア語を学び始めることはなかった。また、強いグルジア訛りの発音は無くなることはなかった。

10歳になったヨシフは、ゴリの教会学校に入学し、教育を受け始めた。彼のクラスメイトは、そのほとんどが裕福な聖職者、役人、商人の息子であった。ヨシフを含めたほとんどのクラスメイトはグルジア語で話していたが、ロシア皇帝アレクサンドル3世の方針のために学校ではロシア語で話すことを強制させられた。ヨシフは学級内では最上の生徒の1人であり、全面的に最高点を獲得した。聖歌隊の歌い手にもなり、ときおり、結婚式で歌を歌う仕事もした。また、詩も書き始めている[22]。母エカテリーナは、息子が聖職者になることをソ連の指導者になった後も望んでいた。

学校教育よりも靴職の技術を息子に教えたがっていた父のヴィサリオンは、息子が学校に認められると憤激した。酔っ払って激怒したヴィサリオンは、地元の酒場の窓を割り、地元の警察長官を非難した。ヨシフの母エカテリーナに同情した警察長官はヴィサリオンを逮捕することはなかったが、街から出ていくように言った。ヴィサリオンはゴリに住む家族を残してトビリシに移住し、靴工場での仕事に就いた[22]

学校生活を送っていたヨシフは、馬車に攻撃されたことがあった。ヨシフの左腕には治ることのない傷ができた。ヨシフはこの傷害で、のちの第一次世界大戦での兵役を免除された。12歳のとき、ヨシフは再び馬車に攻撃され、さらにひどい怪我を負った。ヨシフは治療のためにトビリシの病院に1か月入院した。回復後、父ヴィサリオンが、自分が働いている靴工場で息子を靴職人見習い工として登録した。母エカテリーナの聖職者や学校の職員への接触による支援で息子は回復した。ヴィリオンは妻と息子への金銭援助を打ち切り、自活させた。ヨシフはゴリの教会学校へ戻った[22]

1894年に首席で卒業し、16歳のときにグルジア正教会神学校に入学し、奨学金を獲得する。ここの教師もまた、グルジア人の生徒にはロシア語とロシア文化を強いていた[22]。ほかの多くの生徒たちのように、若いヨシフはグルジア人の愛国心を湧き起こすのには反発していた。神学校での生活のあいだに、地元のいくつかの新聞社からヨシフの書いた詩が出版され、詩人としての評判を得る。しかしながら、ヨシフの詩への興味は次第に薄れていき、反逆と革命への気持ちが湧き起こり始めた。

神学校でのヨシフは、ほかの多くの生徒たちとともに、ヴィクトル・ユゴーの小説、革命、マルクス主義者の本を含めて禁ぜられた書物を読んでいた。ヴィクトル・ユゴーを読んで、かねてから革命家になりたがっていたヨシフは、1896年マルクス主義のサークルを組織している。神学校でのヨシフは成績優秀な生徒であったが、規則違反や教師への反抗を繰り返すようになる。このためにヨシフは捕まり、罰を受けた。とくにある教師は、密告した生徒を通じて反抗した生徒を捕まえて困らせ、夜ごとの巡回や寄宿舎への突然の踏み込みを行った。これらの監視、間諜、精神生活や感情の侵害といった個人的経験は、将来の恐ろしい様相の構想に影響を及ぼす.[22]。ヨシフは無神論者となり[22]、仲間に自分のことを「コーバ」と呼ぶように要求した。これはグルジアで広く読まれたアレクサンドル・カズベギの英雄物語の小説の主人公の名前であり、その題名は「父殺し」といった。革命家としてのヨシフは、この偽名を使い続けることになる。1898年、ヨシフはボリシェビキの前身であるロシア社会民主労働党に入党する。

最終試験の前に、学校は入学金を突然値上げしている。ヨシフは試験に出席しなかったことを理由に1899年に放校処分となった[22]。学校を去ってからまもなく、ヨシフはウラジーミル・レーニンの著作集に触れ、革命家になることを決意する。

[編集] 社会主義運動

スターリン(1902年

トビリシの中央気象台で勤務する傍ら、ロシア社会民主労働党の地方組織に参加する。1901年に中央気象台を辞めた後は、カフカース地方で政治的地下活動、活動資金調達のための現金強奪などを行い、1902年から1917年までの間、逮捕シベリアへの追放が繰り返された。なお、1907年にトビリシで、国立銀行からの金塊強奪を成功させたことが、レーニンの信頼を得る契機となっている[24]1912年に初めて中央委員に選出された。1913年より、ヨシフは終生の筆名となる「スターリン」を名乗り始めた。

[編集] 権力の掌握

二月革命の後、流刑地から戻ったスターリンはレフ・カーメネフらとともに党を指導し、臨時政府に対する条件付き支持の方針を打ち出した。しかし1917年4月に帰国したレーニンは臨時政府打倒を呼びかける四月テーゼを発表し、スターリンらの方針を否定した。同年11月7日のボリシェヴィキ革命における彼の役割は小さなものだった。

スターリンはロシア内戦およびポーランド・ソビエト戦争中は赤軍の政治委員であった。ロシア内戦時は故郷のグルジアに派遣され、メンシェヴィキ勢力など「反革命分子」の掃討に力を揮った。

ポーランド・ソビエト戦争においては、南西正面軍の政治委員としてポーランドリヴィウの占領に拘泥し、赤軍敗北の一因を作っている。但し、これに関しては補給を無視したトゥハチェフスキーにも問題があり、一概にスターリンにのみ責任があるとは言えないという論調も存在する。

ポーランド・ソビエト戦争#ヴィスワ川の奇跡も参照

スターリン、レーニン、カリーニン1919年

スターリンの最初の政府役職は、民族人民委員としてであった。続いてソ連共産党政治局員となり、1922年4月には共産党中央委員会書記長に就任した。各地の党支部書記の任免権を利用し、その書記の推薦で立候補する中央委員を次第に自らの派閥で占めていった。レーニンが倒れ、後継問題が浮上するとトロツキーが有力視されたが、スターリンは政治局の中でカーメネフ、グリゴリー・ジノヴィエフと組み、いわゆる「トロイカ」体制をつくり、トロツキーの追い落としを図る。病床のレーニンを見舞うことによって信頼を取り付けていったスターリンであったが、レーニンの妻ナデジダ・クルプスカヤを、レーニンの政治活動への参加を巡って激しく叱責したことからレーニンの不信を買う。そしてスターリン個人への権力集中にレーニンは警鐘を発し[25]、遺言で「無作法な」スターリンへの罷免を要求した。レーニンはスターリンの性質を見抜いており、遺書には「粗暴で背信的なスターリンを指導者にしてはならない。」という内容であった。しかしその要求は、スターリンが自制する事を条件に中央委員会メンバーによって伏せられてしまった。

1924年1月21日にレーニンが死ぬと、スターリンは、カーメネフおよびジノヴィエフとともに、左派のトロツキーおよび右派のブハーリンの間で党を管理した。この期間にスターリンは従来のボリシェヴィキの理論である「世界革命」路線を放棄して、一国で共産主義を構築する「一国社会主義」政策を提唱した。彼はブハーリンと行動をともにし、まずトロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフと対立することになる。五カ年計画の最初の年である1928年に、スターリンの権力は最高潮に達し、世界革命論を唱え続けたトロツキーは翌年に追放された。次いでスターリンは、ブハーリンをはじめとする党内右派の抵抗を抑え、集団農業化、工業化を推し進め党および国に対する管理を強めた。しかしながら、セルゲイ・キーロフのような他の指導者の人気が示したように、彼は1936年から1938年の間に行った「大粛清」まで、絶対的な権力を掌握することはできなかった。

[編集] 大粛清

スターリンは政治的、イデオロギー的反対者、ボリシェヴィキ中央委員会の古参党員を策略によって逮捕、追放した。1934年1月の第17回党議会においては過半数の代議員が彼の言いなりであった[26]。見せしめの裁判あるいはトロツキーやレニングラードの政治局員セルゲイ・キーロフの暗殺の後に法律を改定し[26]強制収容所への収監と処刑が行われた。

キーロフは政治局員であり党エリートであり、その弁舌と貧困層への真摯な態度で大きな人気があった。彼はスターリンの忠実な部下であったが、いくつかの意見の相違もあり、多くの歴史家がスターリンは彼を潜在的な脅威として考えていたとする[26]。実際、一部の党員は、スターリンの後継者としてキーロフに対し秘密裏にアプローチを行っていた。

1934年12月1日にキーロフは、レオニード・ニコラエフという青年によって暗殺された。ニコラエフは、スターリンの命令によって暗殺を実行した刺客と考えられている[27]。キーロフの暗殺は、1936年から1938年まで続くことになる「大粛清」の前兆であった。

ただし37年と翌年に集中的に発生した大粛清(銃殺刑はロシア連邦国立公文書館(GARF)による資料によれば37年と翌年の合計が約78万人、対して前年の36年は1,118人。)の原因、政治的な計画性、ならびにその過程におけるスターリンの関与の程度にかんしては、上述の説明とはことなる異論もある。ソ連崩壊後に公開された公的資料にもとづく研究(『ソ連秘密資料集 大粛清への道』大月書店、東京、2001年)によれば、ノーメンクラトゥーラならびにモスクワが当時強引に進めていた農業集団化などの国家統制政策とそのもたらした混乱が一方にあり、他方でボリシェヴィキの伝統的な主意主義(「鉄の規律を誇る党」)的体質という「二つのモデルの混在」とそれに起因する矛盾が、社会全体を巻き込んだ政治的なヒステリー現象たる大粛清の社会構造的な原因であるとされている(同書618頁)。

主な犠牲者としては、かつてスターリンとともにトロイカ体制を築いたジノヴィエフ、カーメネフの両名に始まり、グリゴリー・ソコリニコフ、チュバール、ゲオルギ・ピャタコフニコライ・ブハーリン、ボロージン、アレクセイ・ルイコフカール・ラデックミハイル・トゥハチェフスキースタニスラフ・コシオールレフ・カラハンイオナ・ヤキール、などである。アドリフ・ヨッフェミハイル・トムスキー自殺した。第17回大会の中央委員140人のうち、無傷で残ったのは僅か15人であった。トゥハチェフスキーを始めとする赤軍の高級将校の大部分が含まれており、将官と佐官の8割が反逆罪の名の下に殺害されたとされる。

俳優演出家フセヴォロド・メイエルホリド、作家のマクシム・ゴーリキー、生物学者のニコライ・ヴァヴィロフのような、文化人や学者も犠牲となった。外国からコミンテルンに来ていた、ドイツ共産党員のヘルツ、ノイマン、ハンガリー共産党クン・ベーラ、ポーランド共産党中央委員のほぼ全員も処刑か強制収容所送りとなった。日本人では、日本共産党員の山本懸蔵、演出家の杉本良吉、留学中の医師・国崎定洞が行方不明となった(いずれも逮捕・処刑されていたことが判明している)。

また、後述のようにこのページに掲載されているスターリン、レーニン、カリーニンの3人が写っている写真は集合写真からの切り抜きであるが、実際の写真は1919年に行われた党中央委員選出の際に撮られたものであり、素性が分からない人物1人(後列に立っているため顔が見えない)を含めて21人が写っている写真であった。この中で氏名が判明している20名(スターリンら3人を数えなければ17名)の内11名がスターリンに粛清され、他にも3名(上記のヨッフェとトムスキーの他にミハイル・ラシェビッチ)がスターリンに抗議して自殺している[28]

粛清の実行者である秘密警察職員ですら例外ではなく、ゲンリフ・ヤゴーダからニコライ・エジョフラヴレンチー・ベリヤへと長官が変わるなかでNKVD職員たちも何万人と粛清された。例えばエジョフの場合、NKVDを掌握した時点で前任者であるヤゴーダやメンジンスキーの息がかかった職員を大勢粛清して組織内での自分の立場を強化している。また程なくヤゴーダ自身も粛清される事となるが、エジョフも最終的にはヤゴーダと同じようにべリヤに取って代わられ、粛清されている。ベリヤも権力を握った時点でエジョフと同じようにNKVD内のエジョフ派幹部らを粛清している。

「大粛清」の犠牲者数については諸説あるが、30年代の弾圧による死亡者は200万人前後とされる(同書624頁)。この数字は、フルシチョフが1962年から63年におこなった秘密調査における数字、ならびにゴルバチョフが1988年に行った再調査における数字とほぼ一致する(同書626頁)。

1997年の文書の公開により、少なくとも約1260万人が殺されたことを現ロシア政府が公式に認めた、とされるが根拠は不明[要出典]

[編集] スターリン憲法

1936年、スターリンは「ソビエト社会主義共和国連邦憲法」いわゆる「スターリン憲法」を制定した。これは、プロレタリアート独裁に基づき、「労働者の代表であるソビエトに全ての権力を帰属させ、生産手段の私有を撤廃し、各人からはその能力に応じて、各人にはその労働に応じて」という社会主義の原則に立つもので、「労働者の利益に従って」という条件のもと、満18歳以上の国民すべてに選挙権が与えられ、普通・平等・直接・秘密選挙制を採用し、民族の平等権など、人民民主主義の理念が提唱されたもので、社会主義国家としては世界初であった。

だが、この憲法は国内よりも対外的な宣伝を意図して作られた物であり、候補者推薦制とソ連共産党による一党独裁制は変わらず、民族の平等や宗教の自由などは、実際にはまるで守られることはなかった。スターリンの死後に一部が改正され、1977年レオニード・ブレジネフによって新しい憲法が採択されたが、内容はこのスターリン憲法が基礎となっている。後にミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカによって、1988年12月および1990年3月に改正された。後者の改正は、大統領制・複数政党制が導入されている。最終的に、1991年ソ連崩壊により、憲法は失効するに至った。

[編集] 第二次世界大戦

[編集] 独ソ不可侵条約

独ソ不可侵条約に調印する外務大臣のヴャチェスラフ・モロトフ(後列中央はドイツの外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップとスターリン(右)

第二次世界大戦開戦直前の1939年8月19日、スターリンは演説でナチス・ドイツとの間に結ばれた独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)に基づく政策転換を表明した。これ以降、ソ連はイデオロギーの相違を超えてドイツとの協力関係を結んでゆく。その手始めが同年9月17日のポーランド侵攻であった。ソ連とドイツは協定の秘密議定書に基づき、ポーランドを東西分割し、これを併合したのである。こうしてポーランドの東半分を得たスターリンはポーランド軍捕虜2万5千人を処分するよう命令した。これがカティンの森事件である。後にドイツ軍により捕虜の遺体が発見されるもスターリンは一貫してこの事件をドイツ軍の捏造であると主張、戦後にはゲッベルスの日記などをでっち上げてこの虐殺をドイツ軍の仕業に見せかけている。

カティンの森事件も参照

その後、次第に独ソ間の対立が深まったことから1941年5月、スターリンは人民委員会議議長(首相)を兼任し、党と政府の統一的な指導のもと一刻も早い防衛体制の確立をめざした。一方で時間を稼ぐため、従来通りドイツ側に軍事物資を供給し続けることでドイツの攻撃の開始を遅らせることを図った。

[編集] 独ソ戦

しかし1941年6月22日アドルフ・ヒトラーは協定を破棄してソ連に侵入した(バルバロッサ作戦)。スターリンはこの情報を事前に掴んでいたが、ソ連は戦争に耐えうる状況ではなく、誤情報であると頑なに信じようとしていた。そのため、ソ連はドイツの侵入に対する準備が全くできていなかった。幾人かの歴史家によれば、スターリンは攻撃開始後も事実を認めることに気が進まないように思われ、数日間は茫然自失の状態だったという。

ドイツ軍は開戦初期にソ連領内に大きく進出し、何百万ものソ連兵を殺害もしくは捕虜にした。スターリン自身が行った赤軍将校の大量粛清はソ連の防衛力を著しく衰弱させていた。その結果スターリンは彼の30年間の統治下で二度国内への演説を行った。最初は1941年7月2日、二度目は11月6日である。2度目の演説で彼は35万の兵士がドイツの攻撃によって戦死したが、ドイツ軍は450万人の兵士を失い(この数字に根拠はなく、不合理な過剰評価であった)ソ連の勝利は目前だと話した。東方に配備していたシベリア軍の対独戦線への投入、ヒトラーの度重なる目標変更、米英による援助物資の到着、そして氷点下50度に達した冬将軍の到来もあってモスクワ前面でドイツ軍の侵攻を停止させ、1942年12月にはスターリングラードにおいてドイツ第6軍を包囲し、降伏させた。

スターリンの戦略家としての欠点が、ソ連の敗北と多くの市民の死に繋がったとされる。彼はヴォルガ川の東へソ連の工業生産を移動させることによって赤軍の戦争遂行能力を保持したとされる。1942年7月27日のスターリンによる有名な死守命令「ソ連国防人民委員令第227号」は、彼が軍隊の規律を保持するために発揮した無情さを例証している。同指令によると、命令なしで自らの位置を離れたものは銃撃され、敵に降伏した兵士の家族はNKVDによって逮捕され、前線では兵士を後退させないため後ろに督戦隊の機関銃が設置された[29]スターリングラード防衛戦ではこの命令により1万4千人余りの兵士が自軍によって銃殺されたとされている。真実であるとすれば、実に一個師団分の兵士が丸々味方によって殺されたことを意味する。また、当時市内には約60万人の市民が住んでいたがスターリンは「兵士の士気を上げる」という名目で市民の疎開を禁じたため、ドイツ軍の空襲により最初の一週間だけで4万人の市民が死亡したと言われる。スターリンは戦闘終結後の1943年に廃墟と化したスターリングラードを視察するが、その中で最初に復興させたのは内務人民委員部の建物であった。

戦争初期には、退却する赤軍がドイツ軍に利用されないためにと、インフラと食糧供給施設を破壊する焦土作戦を行った。後にドイツ軍も撤退時に同様の戦術を行い、かつ赤軍の兵力増強を避けるために住民をともに撤退させた。このために荒廃した土地のみが残る結果となった。

スターリンは、ドイツ軍と直面した他のヨーロッパの軍隊が完全に能力を失ったことに気づいていた。大戦の末期、1945年になるとスターリンはヤルタ会談に出席、同年ポツダム会談にも出席し、アメリカイギリスと戦後の処理について話し合った。

[編集] 対日参戦

8月、アメリカが日本に対して相次いで原爆を投下した直後に、戦前より日ソ中立条約を結んでいたが、スターリンは、ヤルタ会談での他の連合国との密約(ヤルタ協約)を元に日ソ中立条約を破棄し、対日宣戦布告をし、日本および満州国に対して参戦した(8月の嵐作戦)。その後日本政府はポツダム宣言の受諾の意思を提示し、8月15日正午の昭和天皇による玉音放送(終戦の詔勅)をもってポツダム宣言の受諾を表明し、全ての戦闘行為は停止された。しかし、日本の領土を少しでも多く略奪することを画策していたスターリンはその後も停戦を無視し、南樺太千島・満州国への攻撃を継続させたことにより、その後の北方領土問題を引き起こす原因を作ることになった。

ソ連は、第二次世界大戦における民間および軍事的損害の矢面に立った。2100万から2800万の国民が死に、その多くは若い男性だった。そのため1921年1922年に生まれた若い男性の生き残りは、戦争が終わった時点で5パーセント以下で、全員に勲章が与えられた。現在ロシア、ベラルーシおよび旧ソ連の国々では、5月9日大祖国戦争の戦勝記念日として人々の間で非常に鮮明に記憶され、ロシアにおける最も大きな祝日のうちの一つである。

[編集] 冷戦

毛沢東との友好関係を描いたプロパガンダポスター

第二次世界大戦後、赤軍は枢軸国の領域の多くを占領した。ドイツ、オーストリア国内にはソ連の占領地帯があった。また、チェコスロバキアポーランドは後者が形式的に連合国だったという事実にもかかわらず両国とも実質的にソ連占領下にあった。親ソ連政権がルーマニアブルガリアハンガリーにおいて樹立し、ユーゴスラビアアルバニアでは独自の共産政権が権力を掌握した。フィンランドは独立を保持したが、ソ連に経済的に依存することとなった(フィンランド化)。ギリシャイタリアおよびフランスは、モスクワと緊密に連携した共産党の強い影響下にあった。スターリンは、ヨーロッパのアメリカ軍の撤退がヨーロッパ大陸におけるソ連の覇権に結びつくと考えた。しかしながらギリシャ内戦中の反共勢力へのアメリカの支援は、状況を変えた。東ドイツ1949年に独立した国家と宣言された。さらにスターリンは、中央ヨーロッパ衛星国を直接コントロールする決定を下した。全ての国々は、ソ連の形式を踏襲した各国共産党によって統治されることとなった。

これらの決定は1948年にポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニアおよびブルガリアの共産政権の路線変更に導かれた。これらは後に「共産主義ブロック」と呼ばれた。共産主義のアルバニアは同盟国のままだった。しかし、ヨシップ・ブロズ・チトー指導下のユーゴスラビアはコミンフォルムの追放を以てソ連との国交を断絶した。

一方のアジアにおいては、第二次世界大戦の終結に伴う日本軍の撤退後に中国国内で行われていた国共内戦において、蒋介石率いる中国国民党毛沢東率いる中国共産党を裏から操っており、初期は国民党を支援していたが形成不利と見るや支援を打ち切り、共産党への支援を強化した。1949年の中華人民共和国の成立により、中国を「共産主義ブロック」に置き中ソ対立まで技術交流などを積極的に行った。

更に朝鮮半島北部に朝鮮民主主義人民共和国を樹立し、朝鮮戦争の勃発の後押しを行うことで西側勢力との対立姿勢を強めていった。

「共産主義ブロック」の動きは、東欧諸国が西側に友好的であり共産勢力に対する緩衝地域を形成するだろうという西側諸国の希望と正反対となり、ソ連の共産勢力拡大に対する恐れで西側の結束を強固にした。ソ連と第二次大戦における同盟国だった西側との関係は急速に悪化し、冷戦による東西対立が引き起こされた。

[編集] プロパガンダ

スターリンを「偉大な指導者」として描いたプロパガンダポスター

国内では、スターリンは自らをソ連をナチス・ドイツに対する勝利ヘ導いた偉大な戦時指導者として宣伝し、その結果、1940年代の終了までに、強力なプロパガンダ活動によってソ連のナショナリズムは増加した。多くの科学的な発見は、ソ連の研究者によって「取り戻された」。例として、

とされた。また、第二次世界大戦前から戦後にかけて、スターリンを偉大な戦時指導者として、また、多民族国家であるソ連の指導者として賞賛する多数の映画とポスターが製作された。実際スターリンとレーニンはそう親密ではなかったのだが、親密であったように見せかけるために多くの写真が改竄され(例として、上記のスターリン、レーニン、カリーニンの3人が映っている写真は、集合写真から切り出されたものである)、多くの絵画や彫刻が作成された。それらはどれも、「偉大なる同志レーニンを補佐する偉大なる指導者スターリン」といった調子のものであり、「レーニンと親しげに談笑するスターリン」や「同志レーニンに内戦の状況を報告するスターリン」など、実際にはありえない題材ばかりであった。前述のように、革命直後の彼はグルジアなどに派遣されており、レーニンに「状況報告」できるような立場にはいなかった。それどころか、スターリンはポーランド・ソビエト戦争のとき自分の戦功を優先してトゥハチェフスキーを適切に支援しなかったとレーニンに糾弾され、革命軍事会議議員から罷免されてすらいる。当然、これらの事柄は完全に無視され、隠蔽された。

また、大粛清などで粛清された人物が載っているポスターや写真も改竄された(壇上で演説するレーニンの写真においては、引き続き階段で待機していたトロツキーを削除している)。これらのポスターや写真を持っている個人は、粛清された人物の顔を切り抜くか、黒く塗りつぶすよう求められた。塗りつぶされていない写真を持っていること自体が犯罪であるとされ、もし秘密警察に見つかればそれだけで処刑される可能性すらあった。

ほかにも、スターリンを誹謗中傷するような言動は厳禁とされ、家族や友人の間での些細な冗談であっても、密告によって逮捕・粛清される危険があったため、国民は細心の注意を払わねばならなかった。

[編集] 個人崇拝

上記のようなプロパガンダを駆使して「聖者スターリン」のイメージを作り上げた結果、スターリンに対する個人崇拝も大変なものとなった。多くの都市がスターリンの名前を含むように改名し(それらの都市や地名のリスト)、多くの賞がスターリンの名前を冠するようになった。例えばスターリン国家賞ノーベル平和賞のソビエト版と言われるスターリン平和賞などである。政権の推移に伴って名称がしばしば変更されており、現在はどちらも名称が異なる(平和賞に至っては、現存するかどうかすらもはっきりしていない)。

また、スターリン(もしくはスターリンとレーニン)の彫像が大量に作成され、ありとあらゆる場所に設置された。当然これらもプロパガンダの一環であるため、下記の容貌の部分に書かれてあるような欠点は全て「修正」されていた。また、彫像のようなものだけではなく、文学音楽、それに詩集もスターリンを賛美するものに満ち溢れていた。それらの作品の多くでは、スターリンは神の如く崇められており、第二次世界大戦を1人で終結させたというような荒唐無稽な内容のものが多い。また、1944年発表のソビエト連邦国歌にスターリンの名前が現れるほどの凄まじい個人崇拝がまかり通っていた。ただし、これらの作品を書いたり作ったりした人物全員が、例えばヴァーノ・ムラーデリに代表される筋金入りのスターリン崇拝者でない限りは、スターリンに心酔していたということをすぐには意味しない。そのように心酔しているふりをしなければならないという、一種の強迫観念と社会環境に囚われていた可能性が高い。

[編集] 死去

レーニン廟に置かれるスターリンの遺体

1953年3月1日ラヴレンチー・ベリヤゲオルギー・マレンコフニコライ・ブルガーニンニキータ・フルシチョフとの徹夜の夕食の後、スターリンは寝室で脳卒中の発作で倒れた。暗殺を恐れていたスターリンは、同じ形の寝室を複数作り、どの部屋を使うかを就寝直前に決めていた。寝室は鋼鉄の箱のような構造になっており、扉は内側から施錠すると、外から開けるには警備責任者が持つただ1本の鍵を用いるしかなかった。翌朝、予定時間を過ぎてもスターリンの指示がないことに警備責任者は不審を覚えたが、眠りを妨げられたスターリンの怒りを買うことを恐れて、午後になるまで何もしなかった。このために発見が遅れ、容態を重篤にしたと言われている。

発作は右半身を麻痺させ、昏睡状態が続いた。一時は意識を回復するも、重い障害のために意思の疎通ができなかった。4日後の1953年3月5日に危篤に陥り、73歳で死去した。死因は脳内出血として公式発表された。遺体は1961年10月31日までレーニン廟で保存され、その後クレムリンの壁に埋葬された。

スターリンの死去はソ連をはじめとする社会主義陣営各国に大きな衝撃を与えたが、体制を異にする日本の経済にも影響を与えた。スターリンの重篤が日本で報じられた3月5日、日経平均株価は、前日比37円80銭安の344円41銭と10%もの下落を記録し、「スターリン暴落」と呼ばれた。これは、スターリンが亡くなることで朝鮮戦争の終結が早まり、当時日本経済の急速な復興を支えた朝鮮特需が終結することが懸念されたことが原因であった。

[編集] 死因にまつわる噂

スターリンの死に関して、彼が殺害されたという説は根強い。1993年に公表された、元外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフの政治回顧録によると、秘密警察長官でスターリンの右腕だったベリヤが、彼を毒殺したことをモロトフに自慢したとの記述がある。

2003年、ロシアとアメリカの歴史研究家の共同グループが、スターリンはワルファリンを使用されたとの見解を発表した。スターリンの娘であるスヴェトラーナ・アリルーエワは、スターリンが脳卒中で倒れたときにフルシチョフらがいたにも関わらず、医者を呼ばずに放置したことが死につながったと指摘している。なお、フルシチョフの回想録では、スヴェトラーナの証言とは正反対の内容の記述がなされている。

2006年には、ロシアの週刊誌にて、ロシア公文書館で暗殺説を裏付ける有力な証拠が発見されたと報じられた。その文書記録によると、内容は、倒れたスターリンに対する治療が毒物接種時に施されるもので、当初言われていた症状での治療法では絶対にあり得ない治療法を施していたことなどが記されていた。

なお、スターリンがユダヤ医師団事件を利用しモロトフ、ベリヤ、マレンコフ、フルシチョフら首脳陣を粛清する計画を練っていて、それを阻止するために上記の部下たちがベリヤを使ってスターリンを殺害し、その後ベリヤは、口封じのために殺されたという説がある。実際に粛清する計画があったかどうかはともかく、スターリンは部下を使い捨てにすることで有名だったため首脳部の面々が常に戦々恐々としていたのは確かであろう。

[編集] 復権への動き

共産主義
共産主義のシンボル“鎚と鎌”

共産主義思想
マルクス主義 · レーニン主義
スターリン主義 · トロツキー主義
毛沢東思想 · ユーロコミュニズム


国際組織
コミンテルン · コミンフォルム
第四インターナショナル


主な社会主義国
ソ連 · 中国
ユーゴスラビア


人物
マルクス · エンゲルス
レーニン · トロツキー
スターリン · 毛沢東


出来事
ロシア革命 · 大粛清
スターリン批判 · ハンガリー動乱
中ソ対立 · 文化大革命
プラハの春 · 天安門事件
東欧革命 · ソ連崩壊


  
スターリンの銅像

1964年のフルシチョフ失脚後、スターリンに対する名誉回復の動きが始まった。

[編集] ソ連時代

レオニード・ブレジネフは、1969年に「スターリン生誕90周年」を記念した大規模な式典を企画した。モスクワに「スターリン博物館」を建設することが検討され、マルクス・レーニン主義研究所には記念集会を開催するよう通達があった。さらに、スターリンについての論説が『プラウダ』をはじめ諸外国の共産党機関紙に掲載されることになっていた。しかし、これらの計画を知ったポーランドとハンガリーの共産党が激しく抗議した結果、党政治局は式典の2日前の12月19日、大部分の式典を中止することを決定した。この時、スターリンの胸像製作は中止され、印刷されていた肖像画はことごとく廃棄された。また党中央委員会は、あらゆる新聞に対してスターリンに関する一切の論説を掲載しないよう指示を出した[30]

[編集] ソ連崩壊後

ソ連崩壊後のロシアでは、スターリンの再評価が進んでいる。これはロシア連邦共産党のみならず、大統領派や民族主義派などの各派にもその傾向がみられる。デモに於いてスターリンの肖像画がある事は決して珍しいものではなくなった。ソ連が崩壊した結果、富を得たのはごく少数の者だけであり、多くの市民はソ連時代以下の経済水準と、ソ連時代に比べて悪化した治安事情の中で生きている。そのような現在の状況に対する絶望感が、良くも悪くも強い指導力で国を率いた「鋼鉄の人」スターリンの再評価に繋がっているという。最近行われた世論調査の1つによれば、今日スターリンが生きていたら彼に投票すると答えた人は、35%を越えたそうである[31]。また、クラスノヤルスクでは観光客などを誘致すると言う理由があるにせよ、一度は破壊されたスターリンの記念碑を再建することを決定した[32]。この記念碑は、フルシチョフのスターリン批判を受けて1961年に一度閉鎖されている。中央に据え付けられたスターリンの銅像も、1980年代の後半、グラスノスチのためか町の近くを流れる川の中に放り込まれている。

これは地方に限ったことではなく、2005年にはモスクワでもスターリンの銅像が新たに建設されている[33]

なお、スターリンの故郷であるグルジアゴリ市のスターリン博物館は今なお健在[34]である。

[編集] 人物像

[編集] 性格

スターリンは、帝政時代において少数民族であり一般のロシア人より格下と認識されていた、グルジア人である。身長が低く、加えて自身がグルジア人であるというコンプレックスは相当に強かったようである。人一倍コンプレックスを強く感じるゆえ、スターリンは異常なまでの権力欲、顕示欲の塊であり、その目的を達するためには全く手段を選ばなかった。裏切り者を絶対に許さない不寛容さと、人間を殺すことをなんとも思わない冷酷な性格の持ち主であり、粛清した政敵の写真を見て悦に入りながら故郷のグルジアワインを愛飲していたという[26]

[編集] 人間不信

スターリンはもともと人間不信だったのだが、権力を得る過程において独裁者にありがちな人間不信が追加されることにより、猜疑心が極限までに加速する。特にスターリンは第一次五カ年計画とそれに次ぐ大粛清を行ったことによる死者とそれにともなう犠牲者の恨みを忘れることができず、この結果、パラノイアに冒され、自分は常に命を狙われていると思い込むようになった。日常生活では毒殺を極度に恐れたため、彼が口にする飲食物は全てNKVDの管理下にある専用の農場や養魚場で採取され、専門家により入念に検査された。フルシチョフは、スターリンが「どこでも、誰に対しても、あらゆる事柄に関しても、敵・スパイ・裏切者の姿を見出した」と述べている。

[編集] 家族

スターリンの最初の妻であるエカテリーナ・スワニーゼ
スターリンの2番目の妻であるナジェージダ・アリルーエワ
左から、次男ワシーリー、娘スヴェトラーナ、スターリン
1935年のスターリンと、娘スヴェトラーナ

スターリンは、妻子などの近親者にも心を開くことはなく、多くの近親者も不幸な最期を迎えた。1905年、スターリンは最初の妻であるエカテリーナ・スワニーゼと結婚、1908年に長男のヤーコフが生まれたが、エカテリーナは25歳で病没した。スターリンは葬儀の場で、「彼女は、私の石のような心を和らげてくれた」「人間に対する温かい感情は、彼女の死とともに消え失せた」と語った。

スターリンは、息子のヤーコフに対して冷たく接した。また、独ソ戦で長男のヤーコフがドイツ軍の捕虜になったとき、ヤーコフの解放を条件にした交渉を提示してきたドイツに対して、スターリンは「ナチスに寝返った息子などいない」と返答し、人質交換には一切応じなかった。ヤーコフは、1943年に収容所内で射殺された。2人目の妻であるナジェージダ・アリルーエワとの間