マンハイム
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| 紋章 | 地図 |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 連邦州: | バーデン=ヴュルテンベルク州 |
| 行政管区: | カールスルーエ行政管区 |
| 郡: | (郡独立市) |
| 緯度経度: | 北緯49度29分 東経08度27分 |
| 標高: | 海抜 97 m |
| 面積: | 144.96 km² |
| 人口: | 309,795 人 (2007年12月31日現在) [1] |
| 人口密度: | 2,137 人/km² |
| 郵便番号: | 68159 - 68309(旧: 6800) |
| 市外局番: | 0621 |
| ナンバープレート: | MA |
| 自治体コード: | 08 2 22 000 |
| 市の構成: | 17 市区 |
| 市庁舎の住所: | E 5 68159 Mannheim |
| ウェブサイト: | www.mannheim.de |
| 上級市長: | ペーター・クルツ (Peter Kurz) |
マンハイム(Mannheim)は、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州に属す郡独立市。人口約31万人を擁する大学都市で、シュトゥットガルトに次ぐ同州第2の都市である。かつてプファルツ選帝侯の宮廷所在地であったこの街は、現在ヨーロッパ有数の大都市圏であるライン=ネッカー・ドライエックの経済的・文化的中心都市となっている。ラインラント=プファルツ州に属す隣町のルートヴィヒスハーフェン(人口16万人)とはライン川を隔てて直接向かい合っている。
目次 |
[編集] 地理
マンハイムはオーバーライン地方北部のライン川とネッカー川が合流する地点に位置している。市域はライン川の右岸、ネッカー川の両岸に広がる。
この都市は、ヘッセン州南部、ラインラント=プファルツ州のフォーダープファルツ地方、バーデン=ヴュルテンベルク州の郡独立市マンハイムおよびハイデルベルクならびにライン=ネッカー郡の西部・南部の市町村を包含し、総人口235万人を数える人口集積地であるヨーロッパ有数の大都市圏ライン=ネッカー・ドライエックに含まれる。
ライン=ネッカー地域内に関しては、マンハイムは隣接するハイデルベルクとともに、2002年の地方開発計画に基づきバーデン=ヴュルテンベルク州全土に制定された14の上級中心都市の一つである。上級中心都市マンハイムは、エーディンゲン=ネッカーハウゼン、ヘッデスハイム、イルフェスハイム、ラーデンブルクの中心地としての機能を担っている。また、ヘッセン州やラインラント=プファルツ州の市町村とも関わりを持っており、それらの中心地ともなっている。
近くの大都市としては、フランクフルト・アム・マインが北70km、シュトゥットガルトが南東約95kmに位置している。
[編集] 市の構成
マンハイムは、6つの市街区と11の郊外区からなる。
- インネンシュタット/ユンクブッシュ、
- リンデンホーフ、
- ネッカーシュタット=オスト/ヴォールゲレーゲン、
- ネッカーシュタット=ヴェスト、
- ノイオストハイム/ノイヘルムスハイム、
- シュヴェツィンガーシュタット/オストシュタット
と
- フォイデンハイム
- フリードリヒスフェルト
- ケーファータール
- ネッカラウ
- ライナウ
- ザントホーフェン
- ゼッケンハイム
- シェーナウ
- フォーゲルスタンク
- ヴァルトホーフ
- ヴァルシュタット
である。
17の市区には、それぞれ区民12人からなる地区顧問が存在する。地区顧問は区内での問題について事情を聴取する。問題に対する最終的な処置の決定はマンハイム市議会でなされる。
17市区は、さらに地区や統計上の区分で細分されることがある。
[編集] インネンシュタット: 「クアドラーテ」
ライン川とネッカー川に挟まれた馬蹄形のマンハイムのインネンシュタット(市中心部)は格子状に直交する道路で区切られた街区で構成されており、「Mannheimer Quadrate(マンハイマー・クアドラーテ = マンハイムの四角形)」と呼ばれている。宮殿前をほぼ東西にビスマルク通りが通っており、その両端に半円状のリング通りが接続する。この中に直交する形で道路が造られている。こうした道路網の設計は、1600年頃のプファルツ選帝侯フリードリヒ4世の時代に遡り、それが現在まで保存されている。
インネンシュタットには2つの中心軸がある。「ブライテ・シュトラーセ」(大通り)の名で知られているクアプファルツ通りは宮殿からネッカー門までほぼ南北に延びている。この通りは、パラーデ広場(観閲広場)で目抜き通り「プランケン」と直交する。この2本の通りとそれぞれ平行に走る街路には名前がなく、それらで囲まれた街区は、アルファベットと数字を組み合わせた呼称でよばれる。たとえば、宮殿正面に面した街区はA1とL1、市庁舎の住所はE5といった具合である。こうした人為的に付けられた呼称が日常会話でも使われるのはドイツでは希なことである。
建築史の観点から、こうした街路配置を用いることは、都市設計上、宮殿の超越性を明らかにするものであり、絶対王政を表現したものであると解釈される。マンハイマー・クアドラーテ、特にいわゆる「ブライテ・シュトラーセ」は、新しい宮殿を強調するものである。
理想都市の原則は、完全にバロック様式で構成された他の都市、エアランゲン、グリュックシュタット、あるいはカールスルーエなどに体現されている。一方、マンハイムは新時代の理想と建築の融合(計画都市、あるいは計画首都)を企図して設計された都市なのである。
[編集] 隣接する市町村
マンハイムに隣接する市町村は以下の通り。(北から時計回り)
ラムペルトハイム、フィールンハイム(以上、ヘッセン州ベルクシュトラーセ郡)、ヘッデスハイム、イルフェスハイム、エーディンゲン=ネッカーハウゼン、ハイデルベルク、プランクシュタット、シュヴェツィンゲン、ブリュール(以上、バーデン=ヴュルテンベルク州の市町村で、郡独立市のハイデルベルクを除き、すべてライン=ネッカー郡に属す)、アルトリプ、ルートヴィヒスハーフェン、フランケンタール、ボーベンハイム=ロクスハイム(以上、ラインラント=プファルツ州の市町村で、郡独立市のルートヴィヒスハーフェンとフランケンタール以外は、 ライン=プファルツ郡に属す)。
[編集] 気候
プフェルツァーヴァルトとオーデンヴァルトに護られたオーバーライン地溝帯に位置するマンハイムは、大変穏やかな気候である。最も暖かい7月の平均気温は19.9℃、最も寒い1月の平均気温は1.8℃である。真夏には30℃を越える日も珍しくはない。最高気温は2003年8月8日に記録された39.3℃である。(DWDの記録による。マンハイム=ゼッケンハイム私立観測所のこの日の記録は40.1℃である[2]。)マンハイムで顕著なのは少ない降水量である。平均年間降水量は668mmである。最も降水量が多い月は、やはり7月である。ライン川とネッカー川が、特に秋には、霧の発生を促す。両河川は湿度の上昇をももたらし、特に真夏には蒸し暑さの要因となる。マンハイムの年間平均気温は10.2℃で、ドイツで最も暖かい都市の一つである。
[編集] 歴史
[編集] 始まり
マンハイム村(=Heim des Manno)は、766年のロルシュ文書中に初めて文献上の記録が遺されている。長い間、小さな変哲のない漁村であったマンハイムは、1284年にヴィッテルスバッハ家出身のライン宮中伯の所領となった。1349年、現在のリンデンホーフにライン川を航行する船から少額の関税を徴収するための城、アイヒェルスハイム城が築かれ、この村は次第に重要性を増していった。1415年、ここに廃位された対立教皇ヨハネス23世が監禁された。1462年にゼッケンハイムの戦いでの、ヴュルテンベルク伯、バーデン辺境伯、メッツ司教からなる敵同盟軍を撃破した勝利により、プファルツ選帝侯は、「勝利侯」としてオーバーラインの覇権を握った。1566年にはマンハイムの人口は700人となり、オーバーアムト・ハイデルベルク(ハイデルベルク管区)で最も大きな村になっていた。
[編集] 市の成立
1606年3月17日にプファルツ選帝侯フリードリヒ4世はフリードリヒスブルク城塞建設の基礎工事を開始した。1607年1月24日にマンハイムに都市権が授けられた。城塞に隣接する城下町マンハイムについてなされた格子状の道路網敷設計画が現在まで遺され、活かされている。三十年戦争をマンハイムはプロテスタント同盟側で戦い、1622年に兵力による破壊を受けた。1618年には約1200人を数えたマンハイムは、戦争と疫病によって甚大な人的被害を受けた。1649年にカール1世ルートヴィヒがプファルツ選帝侯に就いた時、戦争による破壊で著しく人口が減少し、経済的に破綻した領土を目の当たりにした。新しい君主はマンハイムの再建を決定した。ネッカー川がライン川に合流するマンハイムは、産業、商業の中心地とするに好都合な位置にあったことから選ばれたのであった。プファルツ継承戦争では、1689年にフランス軍による激しい砲撃とその後の占領により甚だしい損害を被った。都市の破壊を承けて、プファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムは、新たに大規模な再建を指示した。和平条約締結前の1697年に選帝侯は、避難民や流出した住民達に帰還を促す布告を起草している。都市の再建が始まると住民の数はたちまち増加していった。
[編集] 文化的・政治的隆盛
1720年に選帝侯カール3世フィリップは宮廷をハイデルベルクからマンハイムに移し、マンハイム宮殿の造営が始まった。(イエズス教会を含む全体が完成したのは1760年である。)マンハイムは選帝侯の宮廷都市となり、短期間とはいえ、光輝に満ちた隆盛期を迎え、人口は2万5千人を数えるに至った。プファルツ選帝侯の宮廷では芸術と音楽、学問と商業が奨励された。ゲーテ、シラー、レッシング、さらにはモーツァルトもこの地を訪れている。
バイエルンの継承者となったことから、選帝侯カール・テオドールは1778年に宮廷をミュンヘンに移さねばならなかった。これは、マンハイムにとって経済的、文化的打撃となった。1795年にはフランスに占領され、これをオーストリアが奪い返すといった戦いがあり、1803年にマンハイムはその政治上の地位を最終的に喪失した。プファルツ選帝侯は帝国代表者会議主要決議に基づいて廃止され、マンハイムはバーデン領となった。地理的にバーデン領の北西端に位置したことからマンハイムは国境の街となった。
[編集] 新たな経済発展
市民階級の経済力向上に伴い、マンハイムに再び華やいだ時代が戻った。1816年から17年に天候による大災害が起き、飢饉と家畜の死が蔓延した。カール・ドライスは二輪車を発明し、70年後のモータライズされた個人交通の時代の先駆けとなった。1828年にライン川の港が、1840年にはバーデンで最初の鉄道がマンハイムからハイデルベルクまで開通した。マンハイムは政治の中心都市であり、1848年の3月革命では革命運動の中心地となった。1865年にフリードリヒ・エンゲルホルンは、Badische Anilin- und Soda-Fabrik(BASF)を設立した。後にこの会社はルートヴィヒスハーフェンに移転した。この会社は、塗装会社から現在では世界最大の化学企業へと成長した。1886年、カール・ベンツは『ガス発動機駆動式自動車』の特許を取得した。1909年にはカール・レンツとヨハン・シュッテがシュッテ=レンツ社を創設した。この会社は合計22機の飛行船を建造し、ツェッペリン社のドイツにおける最大のライバル企業であった。第一次世界大戦後にハインリヒ・ランツAGは、大ヒットとなった重油式トラクタ『ランツ・ブルドッグ』を発売した。1922年、大規模なマンハイム発電所が稼働を開始した。この都市は、1930年にはライン対岸に位置する重工業都市ルートヴィヒスハーフェンと合わせて人口385,000人を数えるまでになった。
[編集] 第三帝国時代から現代まで
第三帝国時代には、2,000人近いユダヤ住民が追放された。第二次世界大戦の空爆によってこの都市はほぼ完全に破壊し尽くされ、1945年にアメリカ軍に占領された。この都市の再建は困難なものであった。宮殿と水道塔が再建され、国民劇場は新しい場所に建設された。元の劇場跡地にはシラーと『幕間劇』の地の記念碑が建てられた。住宅難から多くの新しい住宅地が造成された。
1964年に市立病院が、ハイデルベルク大学の臨床医学部マンハイムのネッカーキャンパスとなった。1967年にマンハイムは大学都市となった。
1975年、ルイーゼン公園とヘルツォーゲンリート公園での連邦庭園祭は最高潮に達した。これに伴い、大規模な建築物が次々に建設された。電信塔やライン川の2本の橋が建設され、プランケンは歩行者専用道路となった。新しいローゼンガルテン(コングレス・センター)が完成し、ケーブルカーがマンハイム上空を走った。1980年代から90年代も大型建設プロジェクトが続いた。プラネタリウム、文化ホールの拡張、ライス博物館、市庁舎、新しい5月マーケットの施設、シナゴーグ、モスク、技術と労働の博物館、カール・ベンツ・シュタディオン(スタジアム)などがオープンした。
マンハイムの経済的繁栄は近過去の工業系企業の受け入れにあった。この都市は工業から脱却しサービス業への転換を図った。この都市で最も高いヴィクトリア高層ビル2001の建設がその典型的な例である。
2007年の建都400年を念頭に、2000年からさらに建設工事が進められた。Sバーン(マンハイム操車場駅)に接続するSAPアリーナ、歩行者専用道となったブレイテ・シュトラーセの補修工事、旧見本市会場の改造、市電の新路線シャフヴァイデ線などが建設された。
[編集] 市町村合併
1895年から1944年の間に多くの周辺市町村がマンハイムに合併した。その中にはバーデン領の大きな村であったネッカーラウが含まれる。1970年代の市町村再編時には、プレーネ・ブリュール、イルフェスハイム、エーディンゲン=ネッカーハウゼン、ラーデンブルクを合併する予定であった。しかし、距離が遠いことなどから保守派の強い抵抗に遭い、実現しなかった。このためマンハイムはこの再編時に面積が増大しなかった数少ない都市の一つであった。最初の市町村合併前の面積は2,384haであった。
| 年 | 地区 | 面積 (ha) |
|---|---|---|
| 1895 | フリーゼンハイマー・インゼル | 717 |
| 1897 | ケーファータール | 1,776 |
| 1899 | ネッカーラウ | 1,575 |
| 1910 | フォイデンハイム | 781 |
| 1913 | ザントホーフェン | 2,437 |
| 1913 | ライナウ | 959 |
| 1929 | ヴァルシュタット | 674 |
| 1930 | ゼッケンハイム | 1,687 |
| 1930 | フリードリヒスフェルト | 225 |
| 1930 | キルシュガルツハウゼン | 483 |
| 1930 | ザントロフ | 264 |
| 1930 | シュトラーセンハイム | 406 |
| 1944 | ロールホーフ(の一部) | 233 |
[編集] 人口推移
マンハイム市の人口は1896年に10万人を超え、大都市となった。1905年に16万人であった人口は、1961年までに倍増した。1970年には約33万3千人で史上最高に達した。バーデン=ヴュルテンベルク州統計局の発表に基づく公式なマンハイム市の推定人口は2005年12月31日現在で307,900人であった。人口に占める外国人の比率は、22.5%である。人数が多いのは、市当局の報告基づく2005年12月31日現在の推計で、トルコ人(19,831人)、イタリア人(8,324人)、セルビア人(3,550人)、ポーランド人(3,389人)、クロアチア人(2,780人)、ギリシア人(2,777人)である。
市区によっても、その比率は大きく異なっており、最も比率が低いのはヴァルシュタット地区で5.5%、最も高いのはネッカーシュタット=ヴェストで42.0であった。
[編集] 宗教
最初の教会は、8世紀にシャルホーフ、ヴァルシュタットおよびフォイデンハイムに建設された。マンハイム独自の教区は14世紀に初めて記録されている。この教区はヴォルムス司教区に属し、聖ゼバスティアンに捧げられた。
[編集] プロテスタント
プファルツ選帝侯オットハインリヒは1556年4月4日の命令書で、プファルツ選帝侯家のルター派信仰への宗教改革を宣した。これは先代のフリードリヒ2世がその実現に向かって試みた甚大な労苦(1546年4月18日にフリードリヒ2世はハイデルベルクの聖霊教会で初めてルター派の聖餐式を執り行っている)の結果であった。オットハインリヒの後継者であるフリードリヒ3世の下、プファルツ選帝侯家は1561年からカルヴァン派に転向した(1563年 ハイデルベルク教理問答)。マンハイム市の創設は、こうした宗教改革がなされた時期と重なっており、この都市は長い間プロテスタント信仰が根強かった。
バーデン大公は、1821年にルター派と改革派との統合を行った。
[編集] カトリック
マンハイム市創設後、カトリック信者もこの街には住んでいた。最も古いカトリック教会は、マルクと広場に面した教区教会である聖ゼバスティアン教会であり、1723年に完成した。1729年に選帝侯カール3世フィリップはイエズス教会建設資金として10万グルデンを拠出した。この教会は宮廷教会として用いられた。
[編集] その他のキリスト教会
現在のマンハイムには、これ以外の教会組織がある。たとえば、新使徒派教会や19世紀中頃のバーデン革命の際に設立された自由信仰協会などである。アルトカトリック教会の組織は宮廷の建物内を拠点としている。また、ロシア正教会の聖アレクサンドル・ネフスキー教会やギリシア正教会の組織「十字架挙栄祭」など多くの正教会の組織もある。
[編集] ユダヤ教
マンハイム最初のシナゴーグは1660年に建設された。17世紀に都市が荒廃した後、選帝侯は税負担の軽減や、営業の自由特権を与えるなどして、ユダヤ人の入植を奨励した。1719年には人口の10.6%がユダヤ人であった。1895年までにユダヤ教組織の構成員は4,768人にまで拡大した。ただし、ユダヤ人以外の人口増加が急激であったため、1900年以後のユダヤ人が人口に占める比率は3%程度となった。1933年にはマンハイムに6,402人のユダヤ人が暮らしており、大規模な宗教組織を形成していた。国家社会主義者が権力を掌握して以後の迫害により多くのユダヤ人が困難にさらされた。1933年にはすでにNSDAPの上級市長はユダヤ系企業への業務依頼を禁じ、商業大学のユダヤ人教員は一時解雇され、国民劇場のユダヤ人俳優は解雇され、さらにユダヤ人医師は資格を剥奪された。多くのユダヤ人家族が外国、特にアメリカ合衆国へ移住した。1939年にマンハイムの3つのシナゴーグが廃止された後、1940年の時点でマンハイムに残った約2,000人のユダヤ人のほぼ全員がGursに強制的に送られた。その多くは、後にポーランドに建てられた強制収容所に移送され、殺害された。第二次世界大戦後、戻ってきたユダヤ人は、ほんのわずかな人数だけであった。国家社会主義の迫害が集結した後に再興されたユダヤ教組織に加盟したのは120人だけであった。ユダヤ教の新しいシナゴーグは1987年にオープンした。2005年現在、マンハイムには約600人のユダヤ人が住んでいる。
[編集] イスラム教
1960年代の外国人就労者の波に乗って多くのトルコ人が到来した。これにより史上初めて特筆すべき数のイスラム教徒がマンハイムにやって来た。2004年には、その数は20,827人であり、マンハイムの人口の7%を占めるに至った。これを承けて1995年に、2,500人を収容する当時ドイツ最大のモスク、ヤヴツ=スルタン=セリム・モスクが建造された。2005年には老朽化したミナレットに替わり、スマートでより高いミナレットが新たに建てられた。
[編集] 行政
[編集] 市議会
市議会は48議席で、議員は5年ごとの直接選挙で選出される。バーデン=ヴュルテンベルク州の地方自治体選挙法に基づき、累積式、異党派連記投票で行われる。第二次世界大戦以後、SPDが常に最大政党の座を占めていたが、1999年以降はCDUがこの座を占めている。次回の市議会議員選挙は2009年に行われる。
2004年6月13日の選挙結果は以下の通り。
| 2004年市議会議員選挙 | ||||
| CDU |
|
–7.4 |
|
–4 |
| SPD |
|
–1.8 |
|
–1 |
| Bündnis 90/Die Grünen |
|
+4.2 |
|
+2 |
| Mannheimer Liste |
|
+3.4 |
|
+1 |
| FDP |
|
+1.7 |
|
+1 |
| Bunte Liste Mannheim |
|
+2.3 |
|
+1 |
| Linke Liste Mannheim |
|
+2.3 |
|
+1 |
| Sonstige |
|
–4.6 |
|
–1 |
| 投票率 41.4 % | ||||
[編集] 市長
市行政の代表者兼市議会議長の職名は上級市長である。上級市長は8年ごとの直接選挙によって選出される。現職のペーター・クルツ (SPD) は2007年6月17日の上級市長選挙で50.53%の支持を受けて勝利した。ただし、この時の投票率は大変に低く、36.64%であった。ペーター・クルツは2007年8月4日から、この職に就いている。
第一市長(同時に市長代理でもある)と4人の市長が上級市長を補佐する。これらの職は、8年ごとに市議会議員の投票で選出され、その時々の党派別勢力を示す形となる。彼らは、市行政においてはそれぞれ分科会(たとえば、金融、社会保障、文化など)の統括を行う。
第二次世界大戦後の上級市長を以下に列記する。
- 1945年 – 1948年: ヨーゼフ・ブラウン(CDU)
- 1948年 – 1949年: フリッツ・カーン=ガルニエ(SPD)
- 1949年 – 1955年: ヘルマン・ハイメリヒ(SPD)
- 1956年 – 1972年: ハンス・レシュケ(無所属)
- 1972年 – 1980年: ルートヴィヒ・ラッツェル(SPD)
- 1980年 – 1983年: ヴィルヘルム・ファルンホルト(SPD)
- 1983年 – 2007年: ゲルハルト・ヴィッダー(SPD)
- 2007年 – : ペーター・クルツ(SPD)
[編集] 紋章
図柄: 左右二分割。向かって左は、金地に直立した赤い二重鈎(ヴォルフスアンゲル=「オオカミ用の罠」とも呼ばれる意匠)。向かって右は黒地に、赤い爪、赤い舌で威嚇し、赤い冠を被った金の獅子。
この紋章は、1896年に市議会で決定し、バーデン大公の認可を得た。ヴァオルフスアンゲルは、17世紀から市の境界を示す標石に見られる意匠である。獅子はプファルツ選帝侯の紋章にちなんだもので、マンハイムが1720年からその宮廷所在地であったことを示している。どちらの意匠も18世紀から市の印章に登場する。たびたびより近代的な紋章に変更しようという提案がなされるのだが、そのたびに否決されている。
市の色は、青 – 白 – 赤で、19世紀からよく用いられているものである。これは1613年以降市の印鑑についている紐を暗示している。市の色が、紋章の色に因んでいない変則的な例である。
[編集] 友好都市
マンハイム市は以下の都市と友好都市の提携を行っている。[3]
スウォンジ(イギリス、南ウェールズ)1957年
トゥーロン(フランス、ヴァール県)1959年
シャルロッテンブルク区(ドイツ、ベルリン)1961年
ウィンザー(カナダ、オンタリオ州)1980年
リーザ(ドイツ、ザクセン州)1988年
キシナウ(モルドバ)1989年
ブィドゴシュチュ(ポーランド、クヤヴィ=ポモージェ県)1991年
クライペダ(リトアニア、クライペダ州)2002年
鎮江(中国、江蘇省)2004年
また、イスラエルの ハイファとも2005年に友好条約を締結している。
[編集] 文化と見所
[編集] 劇場
マンハイム国民劇場は、1779年に建設された劇場で、自治体が運営する劇場としてはドイツで最も古いものである。1782年にフリードリヒ・シラーの『群盗』が初演された劇場でもある。また歴代の音楽監督には、ワインガルトナー、エーリッヒ・クライバー、フルトヴェングラー、そして戦後にもホルスト・シュタイン、準・メルクル、アダム・フィッシャーといった指揮者が名を連ねている。現在は、ドイツでも有数の大きなレパートリーをもつオペラ(オペレッタ、ミュージカルも含む)部門の他、演劇、バレエ、そして青少年のための演劇"Schnawwl"、青少年のためのオペラ"Junge Oper"からなる複合体となっている。2009年9月から、音楽総監督にダン・エッティンガーが就任する予定。
この他にも多くの小劇場がある。オストシュタット・テアター、TIG7 (Theater im Quadrat G7)、テアター・オリーヴ、野外ビューネ、テアター31、テアター・イムプルス、マンハイマー・プッペンシュピール(人形劇)、クラプスミュール、ツァイトラウム・エクシットなどがある。
[編集] 博物館
マンハイム芸術ホールは、マンハイムの建都300周年を記念して1907年に創設された。コレクションの重点は、伝統的に、19世紀および20世紀のドイツ・フランス絵画と20世紀の国際的な彫刻作品である。さらには、大規模な銅版画収蔵室、グラフィック・コレクション、ポスター、現代の写真やビデオ作品のコレクションもある。
バーデン=ヴュルテンベルク州立「技術と労働の博物館」は、1990年に開館した博物館で、ドイツ南西地方の工業化に関する視覚教育用教材を収めている。収蔵品は入れ替えで展示されている。ヨーロッパ初のグンター・フォン・ハーゲンスの人体像は、1997年にマンハイムのこの博物館で展示された。
ライス・エンゲルホルン博物館は1763年に創設された選帝侯立学術アカデミーを起源とする。現在は、以下の多くの博物館や研究施設が形成する一つの複合体の形をとっている。
- 考古学と世界文化の博物館D5
- 芸術史・都市史・演劇史のツォイクハウス博物館
- シラーハウス博物館
- 国際芸術・文化史研究所
- クルト・エンゲルホルン・センター、考古学年代測定機関でテュービンゲン大学の外郭研究所
- ツェーファー、現代写真の展示スペース
この他、博物館D5では特別展示も開催される。過去に開催された展示テーマは、たとえばマヤ文明、ポンペイ、日本の古代史、ゲルマン民族などがある。
マンハイム芸術協会は、1833年に創設された最も古く最も規模の大きな芸術協会の一つである。
ハイデルベルクおよびルートヴィヒスハーフェンと共同で開催されるLange Nacht der Museen(博物館の長い夜)は、ベルリンに次いでドイツで2番目に大きな芸術的催し物である。
マンハイム=ザントホーフェン地区にはナッツヴァイラー=シュトルトホーフ強制収容所の外郭施設に関する文書館がある。[4]
[編集] 音楽
1750年頃にヨハン・シュターミッツによって創設されたマンハイム楽派は、初めはプファルツ選帝侯の宮廷音楽家によるサークルであった。それまでヨーロッパを席巻していた通奏低音主導のオーケストレーションや後期バロック音楽の持つパトスを、ハーモニーがメロディ・ラインを支えるという新しく上品な音楽へ拡大していった音楽集団であったと後に理解されるようになった。この楽派は、ウィーン古典楽派へ発展して行く根源的な先駆けとなったのである。
クアプファルツ室内管弦楽団は1952年に設立された。このオーケストラは、伝統的なマンハイム楽派のみならず、ウィーン古典派の音楽も得意とする。
マンハイムからは、オペラ歌手アンネリーゼ・ローテンベルガーも登場した。彼女は、戦後のドイツ人女性歌手として最も輝かしい国際的キャリアを歩んだ一人である。
マンハイム・ブレーザーフィルハーモニーは、1987年にシュテファン・フリッツェンが創設したマンハイム・ユーゲントブラスオーケストラにその起源をもつ。
合唱団が後継者難で苦労しているのに対して、ゴスペル・グループの活動は盛んになっている。たとえば、Celebration Gospel Choir、die Preacherman's Friends、die Rainbow-Gospel-&-Soul-Connection、die Joyful Voicesといったグループがある。
近年では、ポピュラー音楽の世界でもマンハイムの名は重みを持っている。バーデン=ヴュルテンベルク・ポップアカデミーは、この種の施設としてドイツ初のものであった。成功したマンハイムのミュージシャンには、ジョイ・フレミング、シャヴィア・ナイドゥー、ゼーネ・マンハイムス、ライト・アル=ディーン、ワリス・バード、クラウト・ロック・バンドのキング・ピング・メー、ヨハンナ・ツォイル、ダニー・フレッシュ、ジョニー D、ゲット・ウェル・スーン、ルートヴィヒスハーフェンのユリア・ナイゲルらがいる。
マンハイムは、また、新しい音楽スタイル「ドラムンベース」のドイツにおける発祥地でもある。マンハイムのクラブ「ミルク!」は、このジャンルの音楽を発信したドイツ初のクラブである。ミルク!は1992年にグルーヴ・マガジンの年間最優秀クラブに選出された。
この他にマンハイムには、キャバレー兼小劇場クラプスミューレやシャッツキストルなどの活力あるキャバレー・シーンが存在し、キャバレー・エンターテイナーのビューレント・セイランらを輩出している。
ポピュラー音楽イベントは、旧メッセ広場に近い旧消防署(アルテ・フォイアーヴァッヘ)やキャピトル・マンハイム、ローゼンガルテン・コングレスセンター、SAPアレーナ、マイマルクトクラブなどで開催されている。
[編集] 建築
[編集] 広場
フリードリヒス広場はインネンシュタットの東に位置する。この広場の中心にはマンハイムの象徴的建造物である高さ60mの給水塔がある。この建物は1889年にネオバロック様式で建設され、頂上には高さ3.5mのアンピトリーテー像を戴いている。この給水塔を取り囲む広場は1903年までにブルーノ・シュミットによって造られた。この広場には泉、噴水、並木の周回路、緑地などがユーゲントシュティールの様式で設けられている。噴水は、夏の夕方の1時間、イルミネーションで彩られる。冬には、給水塔とトリートーンの泉の間でクリスマス市が開催される。フリードリヒス広場の東の半円は赤色砂岩のアーケードとなっている。給水塔の南北軸は芸術・祝祭ホールに至る。1907年にヘルマン・ビリンクによって建設され、1983年に拡張された芸術ホールはその赤色砂岩が、既に建設されていたフリードリヒス広場に調和する。ローゼンガルテン(この名前は、かつてここにあった耕地の名前に由来する)は、1903年に祝祭ホールとしてオープンしたホールで、当時はニーベルンゲンザールとともにドイツ最大のホールであった。現在は、コングレス・会議センター、コンサート・ホールとして利用されている。
フリードリヒス広場から西に歩行者専用道路のプランケンを行くとパラーデ広場(観閲広場)に至る。この広場は元々プファルツ選帝侯の観閲パレードのために造られた。この広場の真ん中にはグリュッペロのピラミッドがある。これは1711年にガブリエル・デ・グリュッペロが選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムのために創ったもので、デュッセルドルフの城の庭園に置かれたものであった。カール・フィリップは1743年にライン川を使ってこの像をマンハイムに運ばせた。このピラミッドは『領主の美徳のアレゴリー』と名付けられており、侯爵の美徳の勝利を描き出している。ピラミッドの周りには19世紀末にパラーデ広場に星形の緑地が造られた。広場の南側に1746年に旧商館が建てられた。この建物は、初めオフィスとして用いられたが、1909年からは市庁舎として利用された。第二次世界大戦で破壊された後は再建されず、1991年にシュタットハウスが建設された。この建物にはオフィス、市立図書館、広場の管理事務所が入居している。プランケン沿いに国家社会主義によるユダヤ人犠牲者のための記念碑(ホロコースト記念碑)が2003年に建立された。ガラスキューブにマンハイムのユダヤ人犠牲者の名前が鏡文字で刻まれている。
マルクト広場は、パラーデ広場の北、歩行者専用道のブライテ・シュトラーセ沿いのウンターシュタットの中心に位置する。この広場の中心には1719年に造られた泉の記念碑がある。この泉はペーター・ファン・デン・ブランデンによって創られ、ハイデルベルク城の庭園に置かれていたものである。選帝侯カール・テオドールによって1767年にマンハイム市に寄贈された。この時、元々、土・水・空気・火の四元素を象徴する4つの像は、マンハイム、商業、ライン川、ネッカー川を象徴する像に作り替えられた。マルクト広場の南側にはバロック様式の2つの建物がある。旧市庁舎と聖セバスティアン教区教会で、1713年までに建てられたマンハイムに現存するおそらく最も古い建物である。両者は、中央の鐘楼に繋がっている。鐘楼は、何層もの擬宝珠型屋根を持つ塔である。ファサードには、何人もの彫刻家の手が加わっていることが指摘されている。旧市庁舎にはユスティティア(正義の女神)とアトランテス(人物像型の柱)が、教会にはピエタと天使の像が見られる。鐘楼の鐘は1日3回鳴らされる。
[編集] 宗教建築
イエズス教会は、1760年までに、選帝侯の宮廷教会としてダ・ビビエーナの設計に基づき建設された。芸術史家のゲオルク・デヒオはこの教会を南西ドイツで最も重要なバロック教会と評した。荘重な中央ドームは75mの高さがある。内部は、ミュンヘンの画家エギト・クィリン・アザムによる壁画に取り囲まれている。本祭壇と6つの脇祭壇はパウル・エーゲルとペーター・アントン・フォン・フェアシャッフェルトによるもので、後期バロック様式あるいは初期古典主義様式で創られている。
キリスト教会は1911年までに、オストシュタットのプロテスタント教会として建設された印象的な教会建築である。ユーゲントシュティール様式を加味したネオバロック様式で建設され、ヴェーダー広場に面して建っており3方向から見ることができる。ドームは65mの高さがある。塔の基部は等身大の十二使徒像で囲まれている。内部には、8,600本のパイプを持つドイツ最大のオルガンが備えられている。
ネオバロック様式のコンコルド教会の歴史は1685年に遡る。元々ドイツ人とワロン人それぞれの改革派教会のための二重教会として建設され、その後何度も破壊されたり、他の目的に転用されたりした。現在の形になったのは1918年からで、プロテスタント教会と一部は学校として利用されている。教会の塔は高さ92mで、マンハイムで一番高い塔を持つ教会である。
シナゴーグは1987年に完成した。花崗岩のファサードと鉛ガラスの入った半円アーチ型の窓をもつ四角い建物である。その上に平たいなる天井が設けられている。2つの入り口は、1938年に破壊されたシナゴーグにあった錬鉄製の天窓格子を模したものである。
1995年に建設されたヤウス・スルタン・セリム・モスクは、建造当時には、ドイツで最も大きなモスクであった。明るい化粧塗りのファサードは、ミフラーブの張り出しによって、その中心が強調され、三角形の窓がしつらえられている。ミナレットのコンクリートには、直後からすでに裂け目が生じたため、2005年に35mの高さの新しい物が造られた。
