バルト・ドイツ人 - Wikipedia

バルト・ドイツ人

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バルト・ドイツ人(バルト・ドイツじん、Deutsch-Balten)とはバルト海南岸と東岸に居住していた、さまざまな民族を先祖とする混血ドイツ人のことである。

目次

[編集] 歴史

[編集] 都市建設

中世にまではドイツ人の居住地は、エルベ川西岸まで広がっていた。13世紀頃からドイツ騎士団リヴォニア帯剣騎士団によるキリスト教化の進展に従い、ドイツ人は東方植民を始め、ベルリンのあるシュプレー川流域からプルセン人諸部族、スラヴ人諸部族、フィン・ウゴル語族諸部族、の居住するヴィスワ川ネマン川流域へ移住した。結果、ドイツ人はバルト地方にリガタリン、プロイセン地方にダンツィヒケーニヒスベルクなどの港湾都市を建設した。これらの町はハンザ同盟に加盟したが、ドイツ騎士団の介入によって自治を確立することができなかった。

[編集] ポーランド時代

15世紀になるとこれらの諸都市や世俗諸侯はドイツ騎士団による支配を嫌い、それぞれがポーランド王の庇護を求めるようになった。1440年、これら諸都市は各地の世俗諸侯や(ドイツ騎士団に属さない)僧侶とともにプロイセン連合を結成してドイツ騎士団と対立、ポーランド王国(ポーランド=リトアニア連合)と同盟した。1410年1466年に終結したドイツ騎士団とポーランド王国との2度にわたる戦争ではいずれもポーランド王国が勝利し、1466年に締結された講和条約(第二次トルニ和約)によってポーランド王国は西プロイセンを獲得(ポーランド王領プロシア)、ドイツ騎士団を東プロイセンへと追いやってそこをポーランド王の属国とした(プロイセン公領)。この結果、プロイセン連合に加盟する全ての諸都市と各侯領はポーランド王を宗主として完全な自治権を獲得し、以後は自由を謳歌して大いに繁栄することとなった。リヴォニアクールラントについては、クールラントはリヴォニアに従属、リヴォニアはプロイセン公領に従属、プロイセン公領はポーランド王国に従属する、という重層的な形になった。リヴォニア議会は1561年、プロイセン公支配を嫌ってポーランド王兼リトアニア大公ジグムント2世アウグストの庇護を求め、以後リヴォニアとクールラントはポーランド=リトアニア連合に直接従属するようになり、ポーランド王の宗主権のもとで自治を獲得し発展した。

プロイセン公領は1525年ポーランド王国ジグムント1世の宗主権を確認した上で、騎士修道会国家からホーエンツォレルン家の公を君主とする世俗国家のプロイセン公国へと転換し、ドイツ騎士団総長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハが最初のプロイセン公となった。135年後の1660年ブランデンブルク選帝侯を兼ねたフリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)の時代にポーランド王国の宗主権から名目上も独立した。

[編集] 以後の各地のバルト・ドイツ人居住地域

ポーランド王国からの独立を果たした東プロイセン地方では1701年フリードリヒ1世神聖ローマ皇帝レオポルト1世からプロイセンにおける王号(König in Preußen)の使用を認められた。1709年から1710年にかけて東プロイセン地方ではペストが発生し、ケーニヒスベルクだけで1万人近い人々が命を落とし、人口は約3万人に激減した。ロシア帝国とプロイセン王国との戦争で1758年に、ケーニヒスベルクは女帝エリザヴェータのもとロシア領となった。1763年にプロイセン王国が支配権を取り戻したケーニヒスベルクは、1773年にプロイセン王国東プロイセン管区の中心都市とされた。ナポレオン戦争ではベルリンが陥落したため、ケーニヒスベルクがプロイセン王国の暫定的な首都となった。この時代の東プロイセンでは、戦争で疲弊したプロイセンの王侯貴族に代わって都市に住む中産階級が力を持ち、自由主義が謳われ、諸都市は民兵を組織し一定の自治権を獲得した。戦争と疫病で荒れたケーニヒスベルクの人口も1819年には6万人以上に回復し、1824年からはケーニヒスベルク地方の行政中心地となった。1848年革命では、東プロイセン地方全土で自由を求める市民のデモが発生し、プロイセン王による専制政治に対抗したデモの参加者は自由と民主主義のシンボルである黒・赤・金の三色旗を掲げて行進した。この三色旗は現在のドイツ連邦共和国国旗となっている。デモを押さえ込もうとしたプロイセン兵の発砲をきっかけとしてデモは大暴動に発展し、王は一定の民主化を市民に約束することになった。

タリンリガをはじめとしたスウェーデン王国支配地では、17世紀を通じてスウェーデン絶対主義に支えられ、教育の推進、農民の解放、衰退期のハンザ同盟に替わるバルト海貿易による商業活動によって、バルト地方の繁栄の時代をもたらした。その主役はバルト・ドイツ人であった。特にリガは、スウェーデン第2の都市とまで呼ばれ、その公用語はバルト・ドイツ語であった。この時代は、現地人に「幸福なスウェーデン時代」と呼称され、リガ、タリン、ナルヴァなどの都市が発展して行った。18世紀大北方戦争の後にロシア帝国に組み込まれた都市でも、バルト・ドイツ人による自治は保たれた。新たな支配者ロシア帝国もまた、バルト・ドイツ人を重用した。そしてこの時代の啓蒙運動によって、エストニア人ラトヴィア人が民族として自認しはじめた。

ポーランド=リトアニア連合支配地はこの期間の度重なる戦争で、それまで住民の繁栄を庇護してきた連合王国の国力が急激に衰退し、1772年の領土分割(第1次ポーランド分割)によってポーランド王領プロイセンがプロイセン王国に併合された。それまで繁栄を謳歌していたダンツィヒ(グダニスク)とその近隣の諸都市や侯領の自治権は、プロイセン王国の専制政治によってひどく侵害されるようになった。1793年に行われた第2次ポーランド分割でトルン(トルニ)までもがその近隣の諸都市や侯領と共にプロイセン王国に併合された。これら旧ポーランド王領プロイセンの諸都市と侯領の全てはこの第2次ポーランド分割と同時に自治権を剥奪された。1803年にはナポレオン戦争が勃発し、1807年にはこれらの諸都市がプロイセン王国の支配から解放され、ダンツィヒは自治権を獲得、トルンはポーランド継承国家であるワルシャワ公国の都市となり、再び自由を得た。しかし1814年にプロイセン王国がナポレオンに勝利すると、ダンツィヒもトルンも再び自治権を剥奪され、ダンツィヒはダンツィヒ行政管区の行政中心地としてプロイセン王国に直接管理されるようになり、トルンはプロイセン王国内の一地方都市に転落した。

[編集] ドイツ人意識の発生過程と現代

ナポレオン戦争はドイツ人のアイデンティティを確立することになった。ドイツ民族意識の高揚とともに「ドイツ語響く所ドイツであれ」と謳われ、後には「ドイツの国歌」の中でメーメル川までドイツと歌われるようになった(ゲルマニズム)。しかしこの時代のバルト・ドイツ人の間ではドイツ民族意識とともに、王侯貴族と中産階級の階級対立も同時に存在した。民主化を求めて王侯貴族と対峙した市民は1848年革命を起こし、その結果一定の民主化が行われた。

1871年ドイツ帝国成立においてはバルト海沿岸の「バルト・ドイツ」も帝国領とされた。しかし、第一次世界大戦に敗戦しポーランドが独立するとポーランド回廊によって、東プロイセン飛び地となった。

第二次世界大戦後はヤルタ会談の取り決めによってケーニヒスベルクはカリーニングラードと改名され、ソ連に編入され、さらにポーランドは国境線を西にずらし、ダンツィヒ(グダニスク)を含むプロイセン地方全域がポーランド領とされ、ドイツ国境はオーデル・ナイセ線へ西方向に後退した。バルト・ドイツ人はオーデル川の西に追放された(ドイツ人追放)。

[編集] 民族の構成

バルト・ドイツ人の700年の歴史の過程を見るとき、彼らがドイツ人だけを先祖にもつのではなく、先住民のプルセン人ラトヴィア人、エストニア人、リヴォニア人のほか、隣接する地方から殖民してきたポーランド人とリトアニア人、そのほかデンマーク人、スウェーデン人スコットランド人オランダ人といった、多種多様な人々と混血していることを認識しなくてはならない。

この地域では当初ドイツ騎士団実効支配し、都市ではドイツ騎士団(および後にドイツ騎士団や各公国に対する宗主権を獲得したポーランド王国リトアニア大公国)の裁可によって主にドイツ式の都市法が適用されたため、ドイツ語やドイツの習慣が支配的であった。このような状況で住民の通婚が進んだ結果、ドイツ人でない人々もドイツ人の文化に同化していった(「ドイツ化」現象)。彼らはドイツ人の言葉と習慣を身につけ、しばしば姓名をもドイツ風に変えた。

バルト・ドイツ人とはこうして中世近代に混血した人々である。

[編集] 主なバルト・ドイツ人

[編集] 外部リンク

[編集] 関連項目


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