バリ島
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バリ島 (Pulau Bali) は、東南アジアのインドネシア共和国に属する島で、首都ジャカルタのあるジャワ島のすぐ東側に位置する。周辺の諸島とともに、第一級地方自治体 (Daerah Tingkat I) であるバリ州を構成し、人口は約320万人。バリ・ヒンドゥーに根ざした世界として知られるが、1990年代以降、イスラム教徒の移民流入が目立つようになっている。
目次 |
[編集] 地理
[編集] 位置
バリ島は、アルプス・ヒマラヤ造山帯に属する小スンダ列島の西端に位置している。島の西にはバリ海峡を挟んで大スンダ列島に属するジャワ島が、東にはロンボク海峡を挟んでロンボク島を含むヌサ・トゥンガラ諸島があり、帯状の列島のひとつをなしている。バリ海峡の最も狭いところは3kmほどであり、バリの海岸からはジャワ島の姿形をとらえることができる。
このような地理的関係にあるバリ島は、広くはインド洋からフィリピン、紅海につながる「ひとつの海」の周縁に位置し、他の東南アジア地域と同様、古来より、この広大な海における交易を介した人と物、言葉と思想の移動、交通の一地点となった。そして、交易の主体となって人びとの生活の小宇宙を形成する王国が誕生し、バリ島の「歴史」が紡がれ始める。
[編集] 地形
バリ島の面積は5,633km²。島の北部を東西に火山脈が走り、バリ・ヒンドゥーにおいて信仰の山とされるアグン山(標高3,142m)やキンタマーニ高原で知られるバトゥール山(標高1,717m)など多くの火山を有している。バトゥール山近辺には温泉も湧出している。この火山帯の活動により、バリ島の土壌はきわめて肥沃なものとなってきたと同時に、時に人びとに災害をもたらしてきた。
そして、バリ島の南部では、火山脈に位置するブラタン湖などの湖水からの流れを下流域に向かって分岐させるかたちで水量が計算通りに振り分けられており、島の南側全体が緑にあふれる土地になっている。この水を管理する技術は今日まで生かされており、その水系はスバックと呼ばれる伝統的な水利組織によって21世紀初頭までその自然環境とともに維持されている。
北部では雨こそ少ないが、コプラやコーヒーが栽培され(キンタマーニ・コーヒーなど)、牧畜も行われている。これに対して島の西部は、ほとんどが深い森林に覆われた最高1,000m前後の丘陵地帯になっており、海岸沿いの漁村を除けば、ほとんど無人である。今日一大観光地として発展しているバドゥン半島も乾燥地帯である。
したがって、バリの村落の大半は、一部の都市地域を除けば農村であり、土地の農業利用率が極めて高い。農業は水耕農作が中心であり、とりわけ、上にみたように棚田で知られるバリ島南部の斜面一帯では、年間を通じて安定した水の供給がなされ、二期作から三期作が可能となっている。ただし、21世紀初頭では平野部を中心に急速に宅地化が進んでもいる[1]。
[編集] 気候
バリ島周辺はサバナ気候に属し、その季節は、北西季節風の吹く雨季(10月 - 3月)と、南東季節風の吹く乾季(4月 - 9月)とに明確に分かれる(この季節風による荒波によって海上交通が困難であったことが一因となって、以下に見るようにバリ島は島外世界から相対的に独立性を保った歴史的発展をとげることになった)。乾期の間は東部、北部を中心にたびたび水不足に陥る。また雨季といっても、一日中雨が降るわけではなく、実際には多くても一日に2 - 3時間のスコールである。ただし、ひどいときには道路が30cmほど浸水することもある。
一年を通じて気温の変化はほとんどなく、年間の最低平均気温は約24度、最高平均気温は約31度、また、平均湿度は約78%である[3]。いつでも暑く湿度も高いが、体に感じる暑さは、海からの風によってやわらげられている[4]。
[編集] 生態
バリ島の動植物のほとんどはアジアの他の諸島から渡ってきたものであり、バリ島原産のものはまれで、アジアに特徴的にみられる動物相、植物相が広がっている(東のロンボク島との間に生物地理区の境界を表わすウォレス線が走っている)[5]。
動物については、古くから、トラ、野牛、猿、キツツキ、パイソン、ヤモリなどが数多く棲息し[4]、300種類以上の鳥類が観察できるが[6]、1940年頃にはバリトラが絶滅し、鳥類で唯一の原産種でありバリ州の州鳥であるカンムリシロムクもまた近絶滅種となっている。さらには、近代農業の進展やリゾート地での殺虫剤の散布などによる生態系の変化も見られる[7]。バリで唯一の原野が残されている西部国立公園では、灰色の猿やリス、イグアナなどの野生生物が生息している。また、バリの人びとにとって馴染み深いのは、トッケイヤモリと呼ばれる大型のトカゲであり、鳴き声を7回連続で聞くと幸福が訪れるという言い伝えがあるほか、害虫を補食することから大切に扱われている。
植物では、ワリンギンと呼ばれるベンガルボダイジュがインド文化の影響から霊木として扱われ、香しいジュプン(プルメリア)とともに寺院や民家の庭などで広く見られる。また、バンブー(竹)も多く生息しており、儀礼の開始の合図として用いられるガムランの笛の材料になっている。他には、多種多様のヤシが実っており、ココナツ、砂糖、燃料、繊維などが採出されている。
[編集] 歴史
[編集] 有史以前
紀元前2000年頃には、台湾起源のオーストロネシア語族が居住していたとされ[8]、紀元前1世紀ごろから交易を介してインドや中国の影響を受けるようになり、ドンソン文化の影響を受けた銅鼓が発見されるなど、古くから人が住み稲作を中心とした文明が開けていた。
4世紀に入ると、ヒンドゥー教に属するジャワの人びとが来住し、ヒンドゥー・ジャワ時代をむかえ、その初期からジャワ王の支配下のもとで発展を続けた。そして、西暦913年頃に、ようやく、スリ・クサリ・ワルマデワによって独自のワルマデワ王朝が築かれたとされている。
[編集] ジャワ王朝の影響(11世紀 - 16世紀)
11世紀に入るとバリ島の王朝は東ジャワのクディリ王国とのつながりを強めるようになる。スバックなど21世紀初頭でも続いている伝統的な文化・慣習の起源は少なくともこの頃にまで遡ることができ、たとえば、カヤンガン・ティガや家寺院の建立は、この頃にジャワから渡った僧侶クトゥランが広めた慣行とされている[9]。1248年には、クディリ王国を滅ぼしたジャワのシンガサリ王国クルタナガラ王の軍隊によって征服され服属するも、その8年後には、当のシンガサリ王国が新王国マジャパヒトによって滅ぼされたために、再び自由を手にする。
しかし、1342年、今度はマジャパヒト王国に侵攻され、ついに400年近く続いたワルマデワ王朝は終焉をむかえる。マジャパヒト王国は、クディリ王国末裔ムプ・クレスナ・クパキサンの第四子スリ・クトゥット・クレスナ・クパキサンを遣わしゲルゲル王国を築かせ[10]、バリ島はマジャパヒト王国の間接的な支配下におかれることとなったのである。
しかし、16世紀にマジャパヒト王国がイスラム勢力により衰亡すると、王国の廷臣、僧侶、工芸師たちがバリに逃れるようになる。そして、彼らの影響によって、古典文学や影絵芝居、音楽や彫刻などヒンドゥー・ジャワの影響を受けた文化が花開いた。さらには、ジャワから渡来した高僧ダン・ヒャン・ニラルタがタナロット寺院やウルワツ寺院など数々の寺院を建立するなど、宗教面での発展も見られた。
[編集] 群雄割拠による王国時代(17世紀 - 19世紀)
しかし、ゲルゲル王国の黄金時代は長くは続かず、1651年、ゲルゲルの王が家臣の謀反をきっかけとしてクルンクン(現在のスマラプラ)に遷都すると、その実権は各地に拠点をおいた貴族家の手に移ってしまう。そして、17世紀から18世紀にかけて、各地の貴族は自らがマジャパヒト征服時の貴族(とりわけ、ヒンドゥー教高僧ワオ・ラオ)の正統な末裔であることを自称するようになり[11]、クルンクン王国のほかに7つの小国(タバナン王国、バドゥン王国、ギアニャール王国、カランガスム王国、バンリ王国、ムンウィ王国)が乱立し、バリ島は群雄割拠の時代を迎えることとなった。
17世紀には、オランダ東インド会社を始めとしたヨーロッパ勢力による進出が見られたが、これといった特産品のないバリ島は植民地統治上特に重視されず、各地方の王族の支配によるバリ人による自治が長く続いた(ちなみに、バリ島に最初に上陸したヨーロッパ人は、1597年のオランダ商船乗組員であった)。
このバリの王国の権力構造を分析した人類学者のクリフォード・ギアツは、それを「劇場国家」のメタファーで描き出している。すなわち、ギアツによれば、
〔バリの〕国家が常に目指したのは演出(スペクタクル)であり儀式であり、バリ文化の執着する社会的不平等と地位の誇りを公に演劇化することであった。バリの国家は、王と君主が興行主、僧侶が監督、農民が脇役と舞台装置係と観客であるような劇場国家であった[12]。
こうしたギアツの劇場国家論は、確かに象徴人類学の金字塔であったが、しかし、その後、「洗練された象徴世界の解読は時間なき固定化された世界を描き出し、実践が生み出される歴史過程を喪失」[13]しているとの批判が生まれた。そして、21世紀初頭では、儀礼世界と権力世界との二項対立を乗り越えた分析によって王国の歴史的過程には大きな流動性が存在していたことが明らかにされ、「王国の流動性を制するからこそ王の存在とその力は明らかとなり、その力によって階層秩序が支えられている」[13]ことが描き出されている。
[編集] オランダによる植民地化とバリ・ルネッサンス(20世紀前半)
19世紀末になると、当時の帝国主義的風潮の下、オランダがバリ島の植民地化を進め、各地の王家を武力により支配下におき始める。まず1846年にバリ島側の難破船引き上げ要請を口実として、東北部に軍隊を上陸させ、ブレレンとジュンブラナを制圧。徐々に侵攻を進め、1908年には、最後に残ったクルンクン王国を滅ぼし、全土を植民地とするに至った。しかし、この際にバリ島の王侯貴族らがみせたププタン(無抵抗の大量自決)によってオランダは国際的な非難を浴びることとなり、オランダ植民地政府は現地伝統文化を保全する方針を打ち出すことになった。
この伝統文化保護政策にとって大きな影響を与えたのが、1917年のバリ島南部大地震以降の厄災である。この地震による死者・負傷者はそれぞれ千名を上回り、さらに翌1918年には世界的に流行したインフルエンザがバリにも波及、さらに1919年には南部バリでネズミが大量発生し穀物の収穫量が激減した。こうした災難を当時のバリの人びとは、当時の政治的・社会的な混乱の中で神々に対する儀礼をおざなりにしていたことに対する神の怒りとして捉えた[14]。そこで、清浄化のために、バロンの練り歩きやサンヒャン・ドゥダリ(憑依舞踊)が盛んに行なわれるようになり、呪術的な儀礼、演劇活動がバリ中で活性化することになった。ところが、こうした一時的な現象を、オランダ人たちはバリの伝統文化として理解し表象し[15]、震災復興とともに保護を進めたのである。とりわけ復興計画の中心人物だった建築家のモーエンは、バリの真正な伝統文化の存在を信じ、地震前のバリが中国文化やヨーロッパ文化を移入していたことを問題視して、こうした「あやまち」を復興の過程で排除することを目指したが、結局のところ、彼もまたオリエンタリズムの枠組みから逃れることはできなかった[16]。
以上のようなオランダの文化保護政策を背景として、バリ島は「最後の楽園」のキャッチ・コピーならびに「上半身裸体の婦女」のイメージとともに欧米に紹介され[17]、とりわけグレゴール・クラウゼの写真集『バリ島』に魅せられた欧米の芸術家が来島するようになった(1924年にバタビア - シガラジャ間の定期船の就航が始まっている)。たとえば、1932年にバリを訪れたチャールズ・チャップリンは、「バリ行きを決めたのは(兄の)シドニーだった。この島はまだ文明の手が及んでおらず、島の美しいおんなたちは胸もあらわだというのだ。こんな話が僕の興味をかきたてた」[18]と記している(なお、この間の観光客数は、1920年代には年間1,200 - 3,000人ほどであったが、1930年代中盤には年間3万人に達したとする統計もみられる[19])。
こうして、彼ら欧米人の影響を受け、1930年代のバリは「バリ・ルネッサンス」の時代を迎え、現在の観光の目玉である音楽(ガムラン等)、舞踏(レゴン、ケチャ等)、絵画の様式が確立することとなった。この中心にいたのは、ウブドの領主であるチョコルダ・スカワティ一族に招待されたドイツ人の画家で音楽家であるヴァルター・シュピースである。彼の家には、メキシコの画家ミゲル・コバルビアスやカナダの音楽研究家コリン・マックフィー、人類学者のマーガレット・ミード、グレゴリー・ベイトソン、オーストリアの作家ヴィッキイ・バウムなどが集った。彼/彼女らは、総じて「真正なバリ」へとそのまなざしをむけ、「バリのバリ化」を進めることにもなった[20]。
また、オランダは、カーストの位階秩序を固定化し、各地の王族を通した間接支配を行い、灌漑・道路等農業設備を整理しアヘンやコーヒーと言った商品作物の栽培を奨励する一方で、学校の設営、風俗改革(裸身の禁止)等のヨーロッパ的近代化政策も実施した。また、貴族と平民の間の格差が強調されるなかで、奴隷制が廃止されるなど平民間の身分間の違いが薄まったことで、「平等的な村落社会」という特質が強化されることにもなった[21]。
[編集] 第二次世界大戦と日本軍の占領統治(1942~1945年)
太平洋戦争中にバリ島は日本の占領下に置かれた。1942年2月、日本軍が侵攻を開始。オランダ軍が駐屯していなかったため、日本軍にはほとんど被害がなく、バリ島沖海戦の勝利を経て、わずか20日でオランダ軍は全面降伏した。現地人は反植民地主義の「解放者」として出迎えるも、同年6月にはオランダと同様の統治体制が布かれることになった。この際には、戦前からバリ島で商売を営み信望を集めていた民間人・三浦襄が日本軍の民政部顧問として、軍部と現地社会との仲介役、緩衝役となって活躍した。
しかし、戦況の悪化に伴い物資、労働の徴集が強圧的に進められるようになると、現地の生活は困窮を極めることとなり、1944年の半ばからはジャワと連携した反日本軍運動も見られるようになった[22]。同年9月、インドネシア独立を容認する小磯声明が出され、1945年4月にはスカルノが来島しインドネシア独立に向けて演説。民族団結の気運がにわかに高まり、7月に「小スンダ建国同志会」が結成される。
三浦は日本人として唯一、この同志会に加わり、事務総長に就任、インドネシア独立に向けて活動した。しかし、まもなく敗戦を迎え、独立計画は頓挫。1945年9月7日、三浦は、バリの人びとに対して、日本の国策を押しつけ無理な協力をさせたことを謝罪して自害した。
[編集] ングラ・ライの玉砕とインドネシア独立(20世紀中葉)
1945年8月17日、ジャカルタでスカルノがインドネシア共和国の独立を宣言。「小スンダ州」とされたバリでは親共和国派による統治体制の確立が画策されていた。しかし、戦前以来の旧体制の切り崩しが進まず、1946年3月には再びオランダが上陸し、親共和国派の企図は失敗に終わる。このオランダ上陸に対しては激しいゲリラ戦が展開され、そのクライマックスである1946年11月20日には、バリ島西部のマルガにて、グスティ・ングラ・ライ中佐が壮烈な戦死を遂げ、彼の率いていたゲリラ部隊も全滅した(しかし、その勇名は今日のバリ島の国際的な玄関口であるングラ・ライ空港(デンパサール国際空港の現地正式名称)にとどめられている。なお、この際には旧日本軍の残兵の加勢がみられ[23]、このこともあってか現在のバリの人びとの対日感情は良好である)。
如上のゲリラ戦を鎮圧したオランダは、1946年12月、バリを親オランダの「東インドネシア国」に帰属する自治地域として宣言し、旧体制を利用したオランダによる間接統治が敷かれることになった。ただし、このなかでも共和国派と親オランダ派の抗争は続き、1949年にオランダがインドネシア共和国に主権委譲をした後は共和国派が優勢になり、1950年の独立をもって、ついにバリは共和国に組み込まれることになった。
しかし、スカルノ時代のバリ島社会は大いに乱れ、とりわけ国民党と共産党による政治的な対立が地域社会にまで及んだ。1965年の9月30日事件に端を発する共産党狩りの際には、一説によるとバリ島だけで10万人が虐殺された[24]。
[編集] スハルト体制下の観光開発(20世紀後半)
| 総計 | 日本 (順位) | |
|---|---|---|
| 1970年 | 24,340 | - ( - ) |
| 1975年 | 75,970 | - ( - ) |
| 1980年 | 146,644 | - ( - ) |
| 1985年 | 211,222 | 48,217 (2) |
| 1990年 | 489,710 | 71,383 (2) |
| 1995年 | 1,014,085 | 104,819 (2) |
| 2000年 | 1,412,839 | 362,270 (1) |
| 2003年 | 993,029 | 185,751 (1) |
| 2004年 | 1,458,309 | 326,397 (1) |
| 2005年 | 1,386,449 | 310,139 (1) |
| 2006年 | 1,260,317 | 255,767 (1) |
| 2007年 | 1,664,854 | 351,604 (1) |
スハルトによる開発独裁の時代に入ると、バリ島はようやく平穏を取り戻す。そして、インドネシア政府の周到な配慮の下、観光による外貨獲得を最大の目的とした観光開発が始まり、1970年代以降、世界的な観光地へと成長することとなった[26]。
1963年、日本からの戦争賠償金によりサヌールにバリ・ビーチ・ホテルが建設され、1966年に開業。1967年にングラ・ライ空港が開港すると、サヌールがバリ島へのマス・ツーリズムの最初のメッカとなった。
ただし、当時のサヌールやクタでは無計画な開発が進みインフラ面でも大きな支障が出ていたことから、ジャカルタ中央政府は新たにヌサドゥアをパッケージ型の高級リゾートとして開発することを決定。日本のパシフィックコンサルタンツインターナショナルが具体的な計画策定を担当した[27]。ただし、当時のオイル・ショックなど世界的な経済不況により開発は進まず、1983年になり、わずか450室の客室とともにヌサドゥア・ビーチが開業した。しかし、その後、ヌサドゥアは世界有数のホテルが林立する一大リゾートへと発展していく。
このようにバリ島の観光開発は長らく中央政府主導で集権的に進められ、観光関連の税収のほとんども中央に吸い上げられてきた[28]。しかし、こうした中央主導によって「創られた伝統」を現地の人びとはそのまま受け止めることはなく、逆に自らの伝統の価値に自覚的な関心を持つようになり、画一的なイメージや「観光のまなざし」と向き合いながら、自身の文化を巧みに鍛え上げることにもなった[29]。
1989年に入ると、バリ州政府は、独自に観光開発のマスタープランの見直しを行ない、ガジャマダ大学から総合観光村タイプの開発が提唱され、これを採用。ヌサドゥアのような大規模開発とは対極をなす、バリの村の日常的な生活、文化を観光客が体験できるような「観光村」の整備が開始され、2008年現在、プングリプラン、ジャティルイの二村が完成している。
[編集] 地域自治の動きとテロリズム(20世紀末~21世紀初頭)
| ヒンドゥー教 | イスラム教 | キリスト教 | 仏教 | 合計 | |
|---|---|---|---|---|---|
| 1985年 | 2,383,032 | 132,752 | 22,085 | 14,899 | 2,552,068 |
| 1990年 | 2,515,634 | 140,813 | 28,279 | 14,909 | 2,699,635 |
| 1995年 | 2,631,210 | 158,564 | 22,215 | 16,037 | 2,828,026 |
| 2000年 | 2,752,131 | 180,401 | 44,951 | 21,287 | 2,998,700 |
| 2004年 | 2,907,540 | 186,613 | 66,720 | 19,045 | 3,179,918 |
スハルト政権末期には、中央主導による大規模な開発に対する反対の声が強まり、1998年のスハルト政権の崩壊後は、1999年の地方分権法を経て、地域自治の動きが強まっている。そして、その動きを加速させたのが、二度にわたるテロ事件である。バリ島は、欧米先進国からの裕福な白人系観光客が集まるとともに、異教徒であるヒンドゥー教圏であることから、2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降のイスラム過激派による国際テロリズムの格好の標的とされたのである。そして、以下の二度の大規模な無差別テロ事件が発生した。
- 2002年10月12日 : クタ地区の人気ディスコをねらった自爆テロ。犠牲者202名。詳しくはバリ島爆弾テロ事件 (2002年)を参照。
- 2005年10月1日 : ジンバラン地区及びクタ地区のレストランをねらった同時多発自爆テロ。犠牲者30名以上。詳しくはバリ島爆弾テロ事件 (2005年)を参照。
この二度のテロ事件によりバリ島の観光業は深刻な影響を受けることになったが、2007年には過去最高の外国人旅行者数を記録するなど、今ではかつての賑わいを取り戻している。しかし、他方で現地社会では、ジャワ島他からのイスラム教徒の移民労働者の急増に対する社会不安が高まる一方である[31]。
[編集] 生活と宗教 - バリ・ヒンドゥーの世界
[編集] 地域生活
バリ島の地域社会では、バリ・ヒンドゥーに基づく独特な慣習様式(アダット)に従った生活が営まれており、オランダ植民地化以後も近代行政(ディナス)と併存するかたちで続いている[32]。21世紀に入ってもなお、バンジャールやデサと呼ばれる地域コミュニティをベースとしてさまざまな労働作業(ゴトン・ロヨン)や宗教儀礼が共同で執り行なわれており[33]、バンジャールからの追放は「死」に等しいとまでされているほどである。
また、バリの人びとは、特定の目的ごとに「スカ」ないし「スカハ」と呼ばれるグループを形成して対応することが多い。たとえば、ガムラン演奏団、青年団、舞踊団、自警団、合唱団といった具合に、ときにバンジャールを超えて形成され、多くはバンジャールと異なり加入・脱退が自由である。こうしたありようをギアツは「多元的集団性」と呼んでいる。
このスカの組織化パターンのために、バリの村落社会構造に、極めて集合的でありながらも奇妙なまでに複雑で柔軟なパターンが生まれている。バリの人びとが何かをする場合、それがひどく単純な作業であっても、集団をつくる。実際のところ、この集団には、マーガレット・ミードとグレゴリー・ベイトソンが指摘したように、ほとんど常に技術的に必要な数をはるかに上回る人員が集まる。混雑し、賑わい、いくぶん乱雑であわただしい社会環境の創出は、……最も基礎的な仕事でさえ、その遂行のために必要であるように思われる。重要な社会的活動へのアリにも似た取り組み方(バリ人自身は苦笑いを浮かべながらこのことをベベック・ベベカン〔「アヒルのよう」〕と表現する)は、……いかなる集団にも一つの目的に向かう傾向がみられ……、逆説的にも、多元的集団性とでも呼びうるものに導く。[34]
このように、人びとはバンジャールなどの地域組織に属することで小さい頃から隣人との助け合いの心を身につけており、喧嘩を好まない。このような背景もあって、住民の性格は非常に温厚である。
[編集] 宗教
詳細はバリ・ヒンドゥーを参照
バリの人びとのおよそ90%が抱いているバリ・ヒンドゥーと呼ばれる信仰は、バリ土着の信仰とインド仏教やヒンドゥー教の習合によって成り立っているものである。バリの慣習村(デサ・アダット)では、土地や祖先神への信仰が生きており、人びとはデサ・アダットの土地を清浄に保ち、穢れを避ける義務を負っている。このために、古くからの慣習(アダット)もかなり色濃く残されており、店や家の前には毎朝チャナンと呼ばれるお供え物をするなど、宗教的な活動に多くの時間が使われ、したがって、バリ島では毎日、島のどこかで祭りが行われているのである。バリ人は祭りごとが大好きであるとの話がよく耳にされるが、バリ人にとってのお祭り(ウパチャラ)とはあくまで以上のような宗教的な儀式なのである。こうした背景から、バリ人は非常に精神的に満足した者が多いといわれる。
また、バリ・ヒンドゥーの世界観は方角によっても支えられている。とりわけ重要なのが「カジャ」(山側)と「クロッド」(海側)の組み合わせである。カジャとクロッドの対比は、上と下、優と劣、清浄と不浄といった象徴的価値観と密接につながっており、寺院の位置や葬儀の場所、屋敷の構造などが、この対比に従って決められている。また、この秩序観から、人の頭をさわったり頭の上に手をかざすことや左手でカネを扱ったり食事をすることがタブーとされている。
このようにバリ島はバリ・ヒンドゥーのコスモロジーに根ざした世界が広がっているが、1990年代以降、ジャワ島を中心として数多くの人びとが、観光産業での労働従事を目的として移り住み始めるようになっており、イスラム教徒が急増している[35]。
[編集] 言語
伝統的な言語としてバリ語が存在するが、老人などを除き、都市部を中心として日常的、公式的にはインドネシアの公用語であるインドネシア語が用いられる。学校教育もインドネシア語でなされ、バリ語が教えられることもない。ただし、2000年代からの地方分権化を背景としたバリ文化再興の運動(アジェグ・バリ)の一環として、義務教育でバリ文字が教えられるようになっている。そして、2006年からはバリ・ポストから「オルティ・バリ」というバリ語の新聞が週刊で復刊され、バリの文芸作家たちが作品を発表していたり、バリ語のラジオ放送が盛んになったり、バリ語のポップ歌謡も流行りだしている[36]。
[編集] 文化と芸術 - 観光文化としての伝統文化
先に見たように島南部を中心として土地が肥沃であったことから、昔からバリの人びとは余裕を持った生活を送ることができた。そこで、農民は朝夕それぞれ2、3時間働くと、その日の残りは絵画、彫刻、音楽、ダンスなどの創作活動に当てるなど、美術・芸術活動にも勤しんでいた。
バリの美術には、古くからのインド的性格が残存しており、時代が新しくなるにつれ、バリ島独自の土着的な性格が強くなっていく。インド色の濃い遺品として、たとえば、ペジュン出土の粘土製の奉納板(8世紀ごろ)にはインドのパーラ朝美術を思わせる仏教尊像が描かれている。さらにインド・ヒンドゥーの石彫であるドゥルガー像(11世紀ころ)が傑作として挙げられる。
ただし、今日のバリで見られる、とりわけ観光客向けの芸能・美術のほとんどは、1920年代以降のオランダ植民地時代以降の歴史のなかでバリを訪れた欧米人との共同作業によって構築されたものである[37]。そして、これらの文化芸能は、当時の欧米人によっても、また戦後のインドネシア政府によっても、さらには大衆観光客によっても、バリの「伝統文化」として表象され、「ツーリスト・パフォーマンスが、いまやバリの伝統として認められている」[38]。今日のバリの「伝統文化」は「観光文化」にほかならないのである[39]。
さらに、スハルト体制崩壊後は、分権化の流れの中で、地域自治の確立を目指す動きがインドネシア社会全体でみられるようになり、バリでは、その一環として地域文化の振興が掲げられ、『バリポスト』を中心として、バリTVが創設されるなど、アジェグ・バリの運動が起きている[40]。もちろん、現在のバリでも近代的な西洋文化を巧みに取り込み続けており、街では携帯電話を手にメールを打つ姿なども多く見られるし、また、島民の移動手段は主にオートバイとなっている。
[編集] 舞踊・音楽
バリ島の祭礼や儀礼には、必ず舞踊が伴う。そうした舞踏・音楽芸能についていえば、舞踊芸術のケチャやレゴン、バロン・ダンス、憑依舞踊のサンヒャン・ドゥダリ、そして、これらの伴奏にも使われるガムランやジュゴグ(竹のガムラン)がよく知られている。これらは、確かに元来は共同体の宗教儀礼として行なわれてきたものであるが、実際に観光客に見せているのは、共同体の祭祀からは切り離され観光用に仕組まれたレパートリーである。
その成立過程を見てみると、オランダ植民統治時代に当時の中心地シガラジャでクビヤールと呼ばれる舞踊・音楽・ガムラン編成が生まれている。そして、1920年代後半に観光客を運ぶ運転手を通じて瞬く間に南部にも広がり、観光のための創作活動が盛んになり、こうして舞踊芸術が宗教的文脈から切り離されいったのである[41]。
たとえば、バロンとランダの戦いをモチーフとしたチャロナラン劇は、そもそもは宗教儀礼として19世紀末に成立したものであるが、トランス状態に陥った男性がクリスで胸を突くといった場面が見られる今日の演劇性に富んだ形態は、1930年代前後に「観光客に分かりやすくみせるために」成立し島内に広まったものである[42]。
今日のバリの舞踊芸術は、宗教的な重要性に応じて、以下の三段階に区分されている。
- タリ・ワリ (tari wali)
- 共同体の宗教儀式そのもの、または儀式を完結するものとして機能する舞踊。「ワリ」は「捧げ物」ないし「供物」を意味する。ルジャン、ペンデット、サンギャン、バリス・グデなどが含まれる。
- タリ・ブバリ (tari bebali)
- ワリに比べて儀式性、限定性は弱いが、宗教儀式の伴奏あるいは奉納芸として機能する。トペン、ガンプーなど。
- タリ・バリ=バリアン (tari balih-balihan)
- タリ・バリ=バリアンは「見せ物」を意味し、観賞用、娯楽用につくられたものを指す。クビヤール・スタイルのものはこれに属する。
[編集] 影絵芝居
影絵芝居(ワヤン・クリ)は、バリの人びとにとって、時空を超えた知識と教養の源泉である。すなわち、芸能としてワヤンは、それを鑑賞する人間の意識の底に次第に堆積されてゆく、潜在的な価値の体系なのである。ワヤンのストーリーは、主に古代インドの叙事詩である『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』であり、人形使いのダランは、サンスクリットの知識を有した特別な僧侶であるプダンダが務める。
[編集] 工芸
バリ島の伝統工芸の起原は、火葬などの宗教儀礼時の供物にある。したがって、いかに精緻に作られていようとも、強度に対する関心は低い。木彫りについては、装飾工芸として、扉や柱などの建築物、彫像、小物、演劇の仮面などで日常的に利用されてきたが、今日の動物の愛らしい彫像はやはり「バリ島ルネッサンス」の時代に生まれたものである。布地では、シーツやタオルなど幅広く用いられるサロン、織物では「ジャワ更」とも呼ばれるバティック(ならびにイカット織)がよく知られている。ほかには、チュルク村の銀細工も歴史的によく知られている。しかし、工芸品の製作者たちのほとんどは自らの創造性を生かした創作活動に励んでいるわけではなく、その作品は値切って買いたたかれるような代物になっている[43]。
[編集] バリ絵画
色彩豊かで緻密な描写が特徴であるバリ絵画の原点は、16世紀後半のマジャパヒト王国時代のころとされ、王宮向けの装飾絵画として発展し、『ラーマーヤナ』、『マハーバーラタ』やヒンドゥーの多神教の神々などが題材とされてきた。当時から伝わるバリ絵画の技法はカマサン・スタイルと呼ばれ、基本的には5色(黒、白、黄、青、茶色)を使用し遠近法を用いず平面的に描かれることが多い。特にカマサン村では、伝統的な技法の継承に加え、新しい感性を加味し発展させている。
オランダ支配時代の1920年代に来島した前述のヴァルター・シュピースやオランダ人の画家ルドルフ・ボネらと、グスティ・ニョマン・レンパッドに代表される地元作家との交流から芸術家協会(ピタ・マハ協会)が生まれ、遠近法などの新しい技法が加わることでさらに発展し、バリ絵画は国際的な水準にまで引き上げられた。1930年代のピーク時には、100名以上の芸術家がピタ・マハ協会に所属していた。この間に生まれた画法としては、墨絵のような細密画を特徴とするバトゥアン・スタイル、ボネの指導によって生まれた、日常の風景を題材とするウブド・スタイルなどがある。
また、商取引によるバリ絵画作品の散逸を防ぐ動きが現地の画商の間で見られている。そのさきがけとなったのが、ウブドの画商パンデ・ワヤン・ステジョ・ネカであり、ウブドでは彼の設立したネカ美術館が運営されている。ほかには、かつてルドルフ・ボネらが1956年に開設したウブド絵画美術館(プリ・ルキサン)、デンパサールのバリ博物館、バリ文化センター、そして、1932年からサヌール海岸に居を構えたベルギー人画家ル・メイヨールの作品を収めたル・メイヨール絵画美術館などがある。しかし、他方では、高名な画家の作品を手に入れた美術品店が、それをモデルにして若い絵師に贋作を作らせ観光客に売りつけるケースもあり、美術品店嫌いの画家も多い[44]。
[編集] 経済と観光 - バリ島経済を支える観光業
| 産業区分 | 金額 | % |
|---|---|---|
| 農林漁業 | 6,011,426 | 20.7% |
| 採鉱・採石業 | 196,471 | 0.7% |
| 製造業 | 2,610,131 | 9.0% |
| 電気・ガス・水道業 | 522,533 | 1.8% |
| 建設業 | 1,132,719 | 3.9% |
| 商取引、ホテル、レストラン | 8,452,944 | 29.2% |
| 通信輸送業 | 3,275,453 | 11.3% |
| 金融業 | 1,969,622 | 6.8% |
| サービス業 | 4,815,272 | 16.6% |
| 合計 | 28,986,595 | 100% |
芸能・芸術の島として知られ、かつ、早くからビーチ・リゾートが開発されてきたバリは、世界的な観光地となっており、東南アジア各地のビーチ・リゾートのモデルとなっている。先進国の経済的価値を基準として比較すると物価水準がかなり低廉であり、比較的若年層でも十分楽しめることも人気の一要素である。訪れる観光客で一番多いのが日本人であり、二番目はオーストラリア人である[46]。したがって、バリ島の貨幣経済は観光収入で成立するものとなっており、財政面でもバリ州の収入の三分の二が観光関連によるものとなっている[47]。
バリ島は古くから農業中心であったが、バリ州の産業部門別就業人口の推移を見てみると、1971年には農林漁業が66.7%、商業・飲食・ホテル・サービス業が18.8%であり、1980年でも農林漁業が50.7%、商業・飲食・ホテル・サービス業が29.8%であったのが、2004年には農林漁業が35.3%にまで減少し、商業・飲食・ホテル・サービス業が36.4%に達している[48]。農民の平均月収が50ドル(約5,000円)未満であるのに対して、観光業従事者のそれは50 - 150ドル(約5,000 - 15,000円)に達する[49]。バリ州全体の域内総生産高でみると、農業はなお全体の20%以上を占め、観光業もバリ州のフォーマルな経済活動の40%を占めるに至っており、また、工芸品の輸出額は年額15億ドル以上にのぼる[50]。
[編集] 農業
先に述べたようにバリ島経済の中心には農業(水田耕作)が伝統的に位置してきたが、世界的な観光地として成長した今でもなお、30%以上が農林漁業に従事している。スハルト体制以来の観光開発が南部バリの一部地域で集中的に行なわれたためである。水田耕作のほかには、ココナッツやコーヒーの栽培が盛んであり、樹園地ではバナナ、オレンジ、マンゴーが、畑では大豆、サツマイモ、落花生、キャベツ、トマトなどが栽培されている[51]。
また、1985年から2004年の間にバリ州における水田の面積は98,830から82,053へと16,741ヘクタールが減少し、その分、屋敷地および建築用地は27,761から45,746へと17,985ヘクタール上昇しており、水田の宅地化が進んでいることが分かる(しかし、この間の収穫量は品種改良によって増加している)[52]。こうしたなかで、土地所有層は地価の上昇による利殖の機会をさまざまに手にするようになっているが、他方でスバックのメンバーの圧倒的多数を占める小作人にとっては、農地の宅地化、近代化は失業を意味し、深刻な問題ともなっている。
[編集] 観光業 - 主な観光地と観光産業
[編集] 島南部のビーチ・リゾート
すでに見たように、バリ島の観光開発は、1969年のデンパサール国際空港の開港によってマス・ツーリズム向けの大規模開発が始まり、当初は、サヌールやクタが観光のメッカとなった。やがて、1980年代に入るとヌサ・ドゥアで高級リゾート向けの計画的な開発が進められ、1990年代に入ると、開発の波はこれらの地域を越えるようになり、主にクタの南北に広がり、スミニャック、レギャン、ジンバランからタンジュン・ブノアに至るまで沿岸部に広大な観光地帯が形成されるようになった。スミニャックの北部には、タナロット寺院が位置している。サヌールやクタでは、爆弾テロ事件前後から現地社会による治安の取り締まりが進み、屋台などは排除されるようになっている。
バリ島は、これら島南部の海岸を舞台としたサーフィンのメッカとなっており、乾季・雨季を問わず良質な波を求めて世界各国からサーファーが訪れている。サーフポイントも多く波質もさまざまである。最近ではサーフィンで生計を立てている者も多く、サーフショップやサーフガイド、またはサーフィン関連のスポンサーから収入を得ているプロサーファーも多い。
[編集] 州都デンパサール
州都デンパサールは、現地社会の商業中心地域であり、現地住民の通うショッピング・モール(バリ・モール、マタハリなど)、市場(手工芸品、織物市場のパサール・クンバサリや中央食品市場のパサール・バドゥンなど)、レストラン、公園が数多くある。その他、バリ州国立博物館やププタン広場などの観光地もある。
[編集] ウブド、山岳地帯
他方で、山側へ向かえば、山側のリゾート地域としてのバリ島の姿をみることができる。その代表がウブドである。この「芸術の村」はオランダ植民地時代から知られており、今日では、質の高いバリ舞踊やバリ・アート、バティック等の染色技術、竹製の製品等、伝統的な文化や民芸品の数々を目にすることができる。ウブド南部には、木彫の村マスも栄えている。
こうした山あいの地域では、物質文明・近代文明のしがらみに疲れた西洋人や日本人がバリに長期滞在しバリの文化を学んで行くケースも多く、数ヵ月から数年バリに滞在する者たちの間では、絵画、音楽、彫刻、ダンスなどを学び、さらには独自の芸術的な活動を始める人びとも見られる。ウブドには、ダルム・アグン寺院の位置するモンキーフォレストや、ネカ美術館などの美術館も建てられている。
そして、バトゥール山のそびえるバリ中部の山岳地帯は、キンタマーニ高原、ブラタン湖、タンブリンガン湖やジャティルウィの棚田など、バリ島の自然の骨格が現れた地域となっている。
[編集] 島東部、北部
また、島の東部、北部の海岸地帯でも、1970年代以降ビーチ・リゾートとして静かに開発が進んでいる地域がある。代表的なのは、バリ島東部のチャンディダサ、アメッド、バリ島北部のロヴィナ・ビーチ、バリ島北西部のプムトゥランなどである。これらの地域は、スキューバダイビング、シュノーケリングのスポットとして有名な海辺が複数ある。たとえば、バリ島東部のトランベンでは、日本軍の攻撃によって座礁したアメリカの輸送船リバティ号が、その後の火山噴火で海底に沈んでおり、ダイバーの間では非常によく知られている。
また、バリ島東部にはアグン山およびブサキ寺院が、島北部には、旧都シガラジャの港町も位置している。
[編集] 交通
[編集] 島外との交通
バリ島の玄関口であるデンパサール国際空港が島南部(クタのすぐ南)に位置しており、ジャカルタ、成田、シンガポール、シドニー、ロンドンなどの各地と航空路が結ばれている。開港当時は国策によりバリ島への直行便がなかったが、やがて解禁され、多くの観光客はこの直行便やジャカルタ経由便を利用するようになった。またインドネシアの島々を結ぶ国内線フライトの便数も多い。

