ハプスブルク家 - Wikipedia

ハプスブルク家

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ハプスブルク家の旗
1915年の4ダカット金貨フランツ・ヨーゼフ1世の肖像(左)とハプスブルク家の紋章である双頭の鷲
1547年時点でのハプスブルク家の領土

ハプスブルク家ドイツ語Habsburg)は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系貴族王族皇族の家系。古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門カエサル家)の末裔を自称し、中世時代の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。中世から20世紀初頭まで、オーストリア大公国神聖ローマ帝国スペイン王国、ナポリ王国トスカーナ大公国ベーメン(ボヘミア)王国、ハンガリー王国オーストリア帝国(のちにオーストリア=ハンガリー二重帝国)などの大公国王皇帝を代々輩出した。ヨーロッパ一の名門王家と言われている。スペイン語ではアブスブルゴ家Habsburgo)となる。

ルドルフ1世以来オーストリアを本拠としたことから、スペイン系を含めて「オーストリア家」(スペイン語:Casa de Austria, フランス語:Maison d'Autriche)とも呼ばれる。

目次

[編集] 沿革

[編集] 起源

ハプスブルク家はスイス北東部のライン川上流域を発祥地とする。この地にはハビヒツブルグ(Habichtsburg:「鷹の城」)古城が現存するが、この「ハビヒツブルグ」が訛って「ハプスブルク」になったと考えられている。1273年にハプスブルク伯ルドルフがドイツ王(皇帝に戴冠していない神聖ローマ帝国の君主)に選出されて世に出た。ルドルフ1世は、1278年にボヘミアオタカル2世マルヒフェルトに破り、1282年にオタカル2世の所領であったオーストリアを息子に与え、帝国南東部に勢力を広げる。これ以降、ハプスブルク家はスイスでは徐々に領地を失ったこともあって、もっぱら軸足をオーストリア地方に移す。1308年にルドルフの子アルブレヒト1世暗殺されてから一度ドイツ王位(帝位)を失うが、オーストリア公として着実に勢力を広げ、やがてルドルフ4世オーストリア大公を自称した。

1438年アルブレヒト2世がドイツ王になってからは王位をほぼ世襲化することに成功し、1508年マクシミリアン1世ローマ教皇から戴冠を受けずに皇帝を名乗り始める。その後、婚姻関係からハプスブルク家はブルゴーニュ公国領ネーデルラント、スペイン王国、ナポリ王国を継承し、皇帝カール5世の下でヨーロッパの一大帝国を現出させた。当時のスペインは中南米植民地として支配していたため、カール5世の領土は「日の沈まぬ」大帝国であった。さらにカール5世の弟フェルディナント1世ハンガリー王ボヘミア王に選出されたため、ハプスブルク家は東欧における版図を飛躍的に拡大した。

カトリックの擁護者としてプロテスタントと戦ったカールは、1521年に祖父マクシミリアン1世の所領を弟フェルディナントと分割したため、ハプスブルク家はスペイン系ハプスブルク家オーストリア系ハプスブルク家に分かれた。1549年に取り交わされた協定で弟フェルディナント1世の子孫が神聖ローマ帝国の帝位を世襲することになった。

[編集] スペイン系アブスブルゴ(ハプスブルク)家

スペイン系ハプスブルク家、すなわちスペイン・ハプスブルク(エスパーニャ・アブスブルゴ)家は、1580年から1640年までポルトガル王を兼ね、海外植民地を含めて「日の沈まぬ帝国」を実現した。フェリペ2世の在位中に最盛期を迎えるが、無敵艦隊の壊滅を契機としてその勢力は下り坂に入り、八十年戦争西仏戦争に敗れてヨーロッパの覇権を失った。

また、オーストリア・ハプスブルク家との度重なる近親結婚のためか、病弱な王が続いた。

1700年、虚弱なカルロス2世の死によって断絶した後、スペイン継承戦争を経て王位をスペイン・ブルボン家(ボルボーン家)に譲った。

[編集] オーストリア系ハプスブルク家

1600年のヨーロッパ

オーストリア系ハプスブルク家、すなわちオーストリア・ハプスブルク家(後のハプスブルク=ロートリンゲン家)は、カール5世の弟フェルディナント1世に始まる(ハプスブルク君主国)。1648年三十年戦争終結とともに結ばれたヴェストファーレン条約によって弱体化した。しかしオスマン帝国第二次ウィーン包囲1683年)撃退の後、ハプスブルク家は力を取り戻し、オスマン帝国を破りハンガリーを奪還する(1699年カルロヴィッツ条約)。スペイン継承戦争では、ハプスブルク家に支援を申し出たホーエンツォレルン家ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世プロイセンにおける国王の称号を認めるなど、神聖ローマ皇帝としての権威を示す。

1740年カール6世が男子を欠いたまま没したため、神聖ローマ皇帝位を喪失し、オーストリアは長女マリア・テレジアが相続したものの、それを不服とするプロイセンなど列強との間にオーストリア継承戦争が勃発した。オーストリアはシュレージエンを失うなど一時苦境に陥るが、イギリスグレートブリテン王国)の援助を受け劣勢を挽回し、1748年アーヘンの和約によってオーストリアベーメンハンガリーの継承を承認される。また、マリア・テレジアの夫であるフランツ・シュテファン1745年神聖ローマ皇帝となったことで、ハプスブルク=ロートリンゲン家として帝位を奪還した。その後、大国化するプロイセン王国に対抗するため、フランス王国と接近した(外交革命)。フランス王太子ルイ(ルイ16世)とマリア・アントーニア(マリー・アントワネット)の結婚もその一環である。しかしこの行為は、ドイツ諸侯の支持を失い、神聖ローマ皇帝としての権威を損なう結果となった。それでもオーストリアは大国としての地位を確保し、プロイセン、ロシアと共にポーランド分割に参加した。さらにマリア・テレジアとその息子ヨーゼフ2世啓蒙主義を推し進めるなど、積極的に富国強兵に努めた。

1789年フランス革命は、ハプスブルク家に衝撃を与えた。ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑はハプスブルク家に脅威を与え、プロイセンと共にフランスに出兵する(フランス革命戦争)。しかしフランス革命政府軍に敗れるなど失態を犯し、さらにナポレオン・ボナパルトの台頭を許して、やがて全ヨーロッパがナポレオン戦争の災禍に呑み込まれ行く動乱の時代に突入する。

[編集] 神聖ローマ帝国解体後

1913年当時のオーストリア・ハンガリー帝国

19世紀初頭に神聖ローマ帝国はフランス皇帝ナポレオン1世の攻勢に屈して完全に解体し、ハプスブルク家のフランツ2世1806年に退位した。一方でフランツは、1804年にナポレオンがフランス皇帝として即位したのに先立って、オーストリア皇帝フランツ1世を称しており、以後ハプスブルク家はオーストリアの帝室として存続した。そして、ナポレオン1世追放後のヨーロッパにおいて、ウィーン体制護持の神聖同盟の一角として地位を保持し、ドイツ連邦内においても優位を保っていた。しかし、クリミア戦争でロシアと敵対して神聖同盟は事実上崩壊し、1859年にはサルデーニャ王国に敗北してロンバルディアを失い、1866年普墺戦争で大敗を喫し、ドイツ連邦から追放(ドイツ統一)、と国際的地位を低下させた。

国内でも、多民族国家であることから諸民族が自治を求めて立ち上がり、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がハンガリー人に対して妥協することで、帝国は1867年に、オーストリア帝国ハンガリー王国とに二分して同じ君主を仰ぐオーストリア=ハンガリー帝国に再編された。

それでも以後民族問題は深刻を深めていく。1908年ボスニア・ヘルツェゴビナ併合を行ったことから、それまでくすぶっていた大セルビア主義が高揚し、ロシアとの関係も悪化した。そして1914年皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻がボスニアの州都サラエヴォセルビア人青年に銃殺されるという「サラエヴォ事件」がきっかけとなって、オーストリアのセルビアへの宣戦から第一次世界大戦が始まる。長引く戦争、ロシアのレーニン政府の戦線離脱などの要因が重なり、連合国側はハプスブルク帝国を解体しないという当初の方針を踏み越え、チェコスロヴァキアに独立を約束してしまう。帝国内の民族も続々と独立し、盟邦ハンガリーさえもオーストリアとの完全分立を宣言し、ハプスブルク家の最後の皇帝カール1世亡命した。中欧に650年間君臨したハプスブルク帝国1918年に崩壊した。その後、ハプスブルク一族はオーストリアへの入国を禁止された。

1961年に至って、カール1世の長男オットー・フォン・ハプスブルクはオーストリア帝位継承権と旧帝室財産の請求権を放棄してオーストリア共和国に忠誠の宣誓を行い、オーストリアに入国を許された。ハプスブルク家は現在でもオットーがドイツ選出で、その息子カールがオーストリア選出でそれぞれ欧州議会の議員を務めており、もはや統一を一切視野に入れずに同民族国家としての親密な関係を保つEU時代の両国関係を象徴する存在となっている。

なお、単に「ハプスブルク家」と呼ばれることが圧倒的に多いが、マリア・テレジアの子の代以降、現在に至るまで正式な家名は「ハプスブルク=ロートリンゲン家」(Haus Habsburg-Lothringen)である。

[編集] 結婚政策

「戦争は他家に任せておけ。幸いなオーストリアよ、汝は結婚せよ」

の言葉が示すとおり、ハプスブルク家は婚姻によって所領を増やしていった。

現在も、最後の皇帝カール1世の子供達は婚姻によりスペインベルギールクセンブルクの君主位継承権を保持しており、それによって将来一族が君主に返り咲く可能性はある。

[編集] 血族結婚

一方で婚姻による所領の流失にも敏感であった。そのため、叔父と姪やいとこ同士(二重いとこの場合もあった)という血族結婚を数多く重ね、一族外に所領が継承される事態を防ごうとした。その結果、17世紀頃には誕生した子供の多くが障害を持っていたり、幼くして夭折するという事態が起こった。特にスペイン・ハプスブルク家ではカルロス2世のような虚弱体質・知的障害を併せ持った王位継承者を誕生させ、スペイン王位をブルボン家に渡すこととなった。そのブルボン家も血族結婚を古くから重ねており、ブルボン家とハプスブルク家の間で頻繁に婚姻が行われるようになると、双方で夭折したり、成人に達しても身体に障害を持った人物が続出した。

[編集] 幸福な結婚、多産の伝統

ほとんどは他の王侯がそうであるように政略結婚であった。しかしその割には夫婦仲が円満で子宝に恵まれたケースが多く、多産は伝統とも言える。そのため現代でもハプスブルク家に関して、陰謀などの血生臭いイメージはあまり無い。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

ウィキメディア・コモンズ


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