ナリタブライアン - Wikipedia

ナリタブライアン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ナリタブライアンNarita Brian1991年5月3日 - 1998年9月27日)は日本競走馬種牡馬中央競馬史上5頭目のクラシック三冠馬。愛称・呼称は「ナリブー」「シャドーロールの怪物」「四冠馬」。半兄1993年JRA賞年度代表馬ビワハヤヒデがいる。1998年日本中央競馬会(JRA)顕彰馬に選出。

※以降、馬齢は全て旧表記を用いる。

ナリタブライアン
1996年3月9日 阪神競馬場。手前のゼッケン2番がナリタブライアン
品種 サラブレッド
性別
毛色 黒鹿毛
白斑 星額刺毛鼻梁鼻白[1]珠目上[2]
生誕 1991年5月3日
死没 1998年9月27日(8歳没・満7歳)
ブライアンズタイム
パシフィカス
母の父 Northern Dancer
生国 日本北海道新冠町
生産 早田牧場新冠支場
馬主 山路秀則
調教師 大久保正陽栗東
厩務員 村田光雄
競走成績
生涯成績 21戦12勝
獲得賞金 10億2691万6000円
  

目次

[編集] 概要

1993年8月にデビュー。同年11月から1995年3月にかけてクラシック三冠を含むGI5連勝、10連続連対を達成し、1993年JRA賞最優秀3歳牡馬1994年JRA賞年度代表馬及び最優秀4歳牡馬に輝いた[3]。(JRA賞の部門名はいずれも当時の名称)

しかし、1995年春に故障(股関節)した後、その後遺症から競走成績は低迷し、6戦して重賞を1勝するにとどまった(GI は5戦して未勝利)が、第44回阪神大賞典におけるマヤノトップガンとのマッチレースや短距離戦である第26回高松宮杯への出走によってファンの話題を集めた。第26回高松宮杯出走後に発症した屈腱炎が原因となって1996年10月に競走馬を引退した。三冠馬の中で、古馬になってからG1(級)のレースを勝てなかったのは、セントライトと同馬だけである[4]。その中で唯一、3歳G1、4歳G1、古馬混合G1を制したのは同馬だけである。総獲得賞金は当時の世界記録である10億2691万6000円に達した[5]

競走馬時代の主戦騎手南井克巳が務めた[6]

競走馬を引退した後は種牡馬となったが、1998年9月に破裂を発症し、安楽死処分がとられた。

[編集] 生涯

[編集] 誕生・デビュー前

ナリタブライアンは1991年5月3日北海道新冠町にある早田牧場新冠支場で誕生した。早田によると誕生後しばらくはこれといって目立つ馬ではなかった[7]が、次第にその身体能力が鍛錬にあたった牧場スタッフによって高く評価されるようになった[8]。一方で調教中に水たまりに驚いて騎乗者を振り落とすなど臆病な気性もみせた[9]

ナリタブライアンはやがて山路秀則馬主大久保正陽調教師とし、中央競馬に所属してデビューすることが決定した[10]

[編集] 競走馬時代

[編集] 3歳(1993年)

[編集] 競走内容

ナリタブライアンは1993年5月13日日本中央競馬会(JRA)の馬体検査を受け合格。同年5月19日栗東トレーニングセンターの大久保正陽厩舎に入厩し、主戦騎手南井克巳に決定した[11]

ナリタブライアンは1993年8月15日函館競馬場新馬戦でデビューした。「ビワハヤヒデの弟」として注目を集め2番人気に支持されたが2着に敗れ、その後中1週で再び同競馬場の新馬戦に出走して初勝利を挙げた。

その後4戦目のきんもくせい特別と6戦目の京都3歳ステークスを優秀な走破タイム[12]で優勝し、GI朝日杯3歳ステークスを序盤に馬群の中ほどにつけ第3コーナーで前方へ進出を開始する競馬によって優勝。GI初優勝を達成し、同年のJRA賞最優秀3歳牡馬に選ばれた。

[編集] 気性面の問題と対策

デビュー後まもなく、ナリタブライアンには気性面で2つの問題が現れた。1つは常にテンションが高く、特にレースが近づくとそれを察知し一層興奮する傾向があったこと[13]である[14]

この問題に対処するために、大久保はローテーションの間隔を詰めて多くのレースに出走させることによって同馬のエネルギーを発散させ興奮を和らげようとした[15]ただし、同馬が3歳時にとったローテーションは後に「一流馬のローテーションではない」と非難の対象となった[16]

2つ目の問題は生来臆病な性格であったために疾走中に自分の影を怖がり、レースにおいて走りに集中することができなかったことである。この問題は同馬にシャドーロールを装着し下方の視界を遮ることによって解決され、初めてシャドーロールが装着された京都3歳ステークス以降のレースでは競馬評論家大川慶次郎が「精神力のサラブレッド」と評するほどの[17]優れた集中力を発揮するようになった。

もっともシャドーロール装着以前からナリタブライアンの関係者は同馬の素質を高く評価しており、大久保や南井は同馬が敗れたレースにおいてもその素質を賞賛するコメントを残した(ナリタブライアンの関係者による評価を参照)。

[編集] 4歳(1994年)

[編集] 競走内容

4歳時となったナリタブライアンの緒戦には、東京優駿(日本ダービー)を見据え東京競馬場のコースを経験させておこうという大久保の意向により、1994年2月14日共同通信杯4歳ステークスが選ばれた。レースでは馬群の中ほどに控え、最後の直線入り口で早くも先頭に並びかけるとそのまま抜け出して優勝した。なお前日には兄のビワハヤヒデが京都記念を優勝しており、兄弟による連日の重賞制覇となった[18]

共同通信杯の後、大久保はクラシック第一戦の皐月賞に向けスプリングステークスを経由して出走することを決定。同レースでは第3コーナーにおいて最後方からまくりをかけ優勝した。この時点でそれまでのレースぶりやライバル馬との力関係から「既に三冠は確実」とも評価されるようになり、皐月賞では圧倒的な1番人気に支持された。同レースではゴール前200mの地点から抜け出すと、中山競馬場芝2000mのコースレコードを破る走破タイムで優勝し、5連勝を達成するとともにクラシック一冠を獲得した(スプリングステークスおよび皐月賞に関する詳細については第54回皐月賞を参照)。

続く東京優駿では皐月賞の内容がファンによって高く評価され、圧倒的な1番人気に支持された。同レースでは直線の長い東京競馬場でありながら、まくりをかけながらも出走馬の中で最も速い上がりを繰り出して優勝。クラシック二冠を達成した。(レースに関する詳細については第61回東京優駿を参照

東京優駿の後、夏場は札幌函館の両競馬場において調整されることが決定した。これは避暑を行う[19]とともに厩舎スタッフが直接調整を行うための措置であった。通常、出走予定のない競走馬に両競馬場内の馬房が与えられることはないが、ナリタブライアンの実績および話題性、更に当時の競馬ブームの状況下、放牧に際しての予期せぬアクシデントの危険が考慮された結果、特例で許可された。9月4日の昼休みには函館競馬場内のパドックにおいてファンへの披露が行われた。

ナリタブライアンの秋緒戦には菊花賞トライアル競走京都新聞杯が選択された。北海道から栗東トレーニングセンターへ戻った後、それほど強い調教が課されていなかったことから体調面を懸念する声もあり、「ナリタブライアンが負けるとすればこのレース」とも言われた。同レースでは圧倒的な1番人気に支持されたが、最後の直線で一時先頭に立つも内から伸びてきたスターマンに競り負けて2着に敗れ、懸念が的中する形となった。しかし菊花賞では、京都新聞杯出走後ナリタブライアンの体調は上向いたと判断され、クラシック三冠達成への期待も相まって圧倒的な1番人気に支持された。レースでは、早めに抜け出すと後続を突き放し、兄ビワハヤヒデが前年にマークしたレースレコードを更新する走破タイムで優勝し、日本競馬史上5頭目となるクラシック三冠を達成した[20]京都新聞杯および菊花賞に関する詳細については第55回菊花賞を参照)。

古馬との初対戦となった有馬記念では圧倒的な1番人気に支持された。その有馬記念では、4コーナーで早くも先頭に立つと、そのまま突き抜けて優勝(レースに関する詳細については第39回有馬記念を参照)。1994年の通算成績を7戦6勝・GI4勝とし、同年のJRA賞年度代表馬及び最優秀4歳牡馬に選ばれた[21]。年間総収得賞金は、過去最高額となる7億1280万2000円であった。

[編集] 幻に終わったビワハヤヒデとの兄弟対決

野平祐二調教師はナリタブライアンの勝った皐月賞を「大人と子供の戦い」[22]、東京優駿を「1頭だけ別次元」[23]と評したように、クラシック3冠の序盤において既に同世代の競走馬を能力的に大きく凌ぐ存在として認識された。そのため1994年上半期の古馬中長距離路線において3戦3勝、GI2勝の成績を収めた兄ビワハヤヒデを最大のライバルとみなし、兄弟対決に期待するムードが高まった。ビワハヤヒデの管理調教師であった浜田光正は、ナリタブライアンが皐月賞、ビワハヤヒデが天皇賞(春)を優勝した時点で「弟があんな強い勝ち方をするんだから兄の面目にかけても負けられない。年度代表馬の座を賭けることになるだろう」とナリタブライアンとの対決を強く意識するコメントを出している[24]

ビワハヤヒデ陣営は後半シーズン開始前にジャパンカップ不出走を表明したため、有馬記念における兄弟対決実現に期待が集まったが、ビワハヤヒデは天皇賞(秋)において発症した故障により引退を余儀なくされ、対決は実現しなかった。

なお、兄弟の比較および有馬記念における対決が実現していた場合の予想について、野平は「中距離では互角、長距離では心身両面の柔軟性に優れるナリタブライアンにやや分がある」、競馬評論家大川慶次郎は「ビワハヤヒデが有馬記念に出ていたら勝っていたんじゃないか」としている[25]。なお、血統評論家の久米裕は「血統構成上は甲乙つけがたい」[26]としている。

[編集] 5歳(1995年)

[編集] 競走内容

有馬記念後は放牧に出さず栗東トレーニングセンター内の厩舎で調整を行い、天皇賞(春)優勝を目指した。緒戦の候補には阪神大賞典および大阪杯が挙がったが、「休み明けはゆったりしたペースの中で走らせたい」という大久保の意向により、長距離戦である阪神大賞典が選ばれた。同レースにおいてナリタブライアンは生涯最速の上がり(3ハロン33.9秒)を繰り出し、直線で抜け出すと独走で優勝した。しかしレース後まもなく右股関節(全治2か月)を発症していることが判明し、天皇賞(春)への出走は断念された。

ナリタブライアンは約1か月間厩舎で静養したのち早田牧場新冠支場で療養生活を送り、7月上旬から2か月にわたって函館競馬場内において調整が行われた。しかし軽い運動しか行われなかったため、マスコミによって体調不安が指摘された。なお函館競馬場でナリタブライアンを見た岡部幸雄騎手(当時)は、「もうカムバックは難しいだろうなぁと思った」と述べている[27]。9月に栗東トレーニングセンターに戻った後も負荷の強い調教が積極的に課されることはなく、体調不安や調教不足を指摘する声は根強かったが大久保は天皇賞(秋)への出走を決定。1番人気に支持されたがレース終盤に失速し12着に敗れた(なお同レース出走に関する大久保への批判については調教師とマスコミとの対立を参照)。その後ジャパンカップ・有馬記念に出走したが、かつてのパフォーマンスには程遠い内容の走りでそれぞれ6,4着に敗れた。

なお、主戦騎手の南井は10月14日(天皇賞(秋)の2週間前)にレース中の落馬により右足関節脱臼骨折(全治4ケ月)を負い騎乗が不可能となったため、天皇賞(秋)では的場均[28]、ジャパンカップ、有馬記念および翌年の阪神大賞典では武豊が騎乗した。

[編集] 股関節炎発症とその後遺症

阪神大賞典出走直後から、ナリタブライアンの腰部には疲労蓄積による異常がみられるようになり、負荷の強い調教をこなすことができなくなった。厩舎スタッフは軽めの運動をさせつつ天皇賞(春)出走を目指したが、1995年4月7日に精密検査の結果右股関節炎を発症していることが判明し、静養に入ることとなった[29]

復帰後のナリタブライアンの体調については、万全ではないという判断が多くなされた。大川慶次郎は天皇賞(秋)の後、厩舎において同馬を見た際の印象として「整体が狂っている、それもかなり重症ではないか」[30]、肉がまったくなく、全盛期を100とすれば60か70[31]と評価した。岡部幸雄は、天皇賞(秋)出走時の状態について「全然、覇気がなかった」と評した[32]。また、ジャパンカップにおいてランドに騎乗したマイケル・ロバーツは「パドックで見たナリタブライアンは私の記憶している全盛期の同馬ではなかった」とコメントした。また天皇賞(秋)から有馬記念にかけてのレース振りについて、的場均と武豊はともに「途中まではいい感じだったが、直線で止まってしまった」とコメントした。

大川はナリタブライアンの体調が引退するまでに故障前の状態に戻ることは無かったとしている。

[編集] 6歳(1996年)

[編集] 競走内容

1996年の緒戦には前年と同じく阪神大賞典が選択された。レースでは前年の年度代表馬マヤノトップガンマッチレースの末に下し、同レース連覇を果たすとともに1年ぶりの勝利を挙げた。なお、この第44回阪神大賞典はしばしば日本競馬史上の名勝負のひとつに挙げられる一方、このときのナリタブライアンは全盛期ほどの状態にはなかったとする見解もあり、全盛期を思い出させる圧倒的な瞬発力は無かった(レースに関する詳細については第44回阪神大賞典を参照)。

阪神大賞典を勝利したことによってナリタブライアンの復活が印象づけられ、復帰した南井が騎乗した天皇賞(春)では1番人気に支持されたが、レースではサクラローレルに差されて2着に敗れた。なお大久保はこのレースにおける南井の騎乗法[33]に不満を覚え、南井をナリタブライアンの主戦騎手から降板させた(レースに関する詳細については第113回天皇賞を参照)。

天皇賞(春)の後、陣営は宝塚記念優勝を目標に据えた。大久保は宝塚記念の前に一度レースに出走させる方針を立て、武豊騎乗で芝スプリント戦のGI・高松宮杯に出走させることを決定した。中長距離の実績馬がスプリント戦に出走するのは極めて異例のことであったためこの出走は話題を呼んだが、レースでは終盤に追い上げるも4着に敗れた。なお出走後通算獲得賞金が10億2691万6000円となり、メジロマックイーンを抜いて歴代1位(当時)となった(レースに関する詳細については第26回高松宮杯 (競馬)を、同レース出走に関する大久保への批判については調教師とマスコミとの対立を参照)。

[編集] 屈腱炎発症・引退

高松宮杯から約1か月後の6月18日、調教後に右前脚に屈腱炎発症。同月28日に函館競馬場、8月には早田牧場新冠支場へ移送して治療が行われた。大久保はナリタブライアンの復帰に強い意欲を見せていた[34]が、9月に日刊スポーツがナリタブライアンの引退が決定したと報道。さらに読売新聞の取材に対して山路が引退を認めた。10月に入り大久保も交えて話し合いが行われ、正式に引退が決定した[35]

11月9日には京都競馬場で、11月16日には東京競馬場で引退式が行われた。関東と関西2か所で引退式が行われた競走馬はシンザンスーパークリークオグリキャップに続きJRA史上4頭目であった。なお1998年には史上24頭目の顕彰馬に選出された。

[編集] 競走成績

年月日 競馬場 競走名


オッズ
(人気)
着順 騎手 斤量 距離(馬場) タイム
(上り3F
着差 勝ち馬/(2着馬)
1993 8. 15 函館 3歳新馬 8 8 8 2.9(2人) 2着 南井克巳 53 芝1200m(重) 1:13.7(37.3) 0.2 ロングユニコーン
8. 29 函館 3歳新馬 9 6 6 2.0(1人) 1着 南井克巳 53 芝1200m(重) 1:12.8(37.4) -1.4 (ジンライ)
9. 26 函館 函館3歳S GIII 9 5 5 3.8(2人) 6着 南井克巳 53 芝1200m(重) 1:14.9(39.6) 0.8 マリーゴッド
10. 24 福島 きんもくせい特別 9 6 6 1.7(1人) 1着 清水英次 53 芝1700m(良) 1:43.1(36.0) -0.5 (ランセット)
11. 6 京都 デイリー杯3歳S GII 15 4 6 4.2(2人) 3着 南井克巳 54 芝1400m(良) 1:22.7(35.1) 0.7 ボディーガード
11. 21 京都 京都3歳S 8 6 6 2.0(1人) 1着 南井克巳 55 芝1800m(良) R1:47.8(34.6) -0.5 (テイエムイナズマ)
12. 12 中山 朝日杯3歳S GI 14 5 8 3.9(1人) 1着 南井克巳 54 芝1600m(良) 1:34.4(35.7) -0.6 (フィールドボンバー)
1994 2. 14 東京 共同通信杯4歳S GIII 10 2 2 1.2(1人) 1着 南井克巳 57 芝1800m(良) 1:47.5(35.1) -0.7 (アイネスサウザー)
3. 27 中山 スプリングS GII 10 2 2 1.2(1人) 1着 南井克巳 56 芝1800m(良) 1:49.1(35.6) -0.6 フジノマッケンオー
4. 17 中山 皐月賞 GI 18 1 1 1.6(1人) 1着 南井克巳 57 芝2000m(良) R1:59.0(35.8) -0.6 (サクラスーパーオー)
5. 29 東京 東京優駿 GI 18 8 17 1.2(1人) 1着 南井克巳 57 芝2400m(良) 2:25.7(36.2) -0.9 エアダブリン
10. 16 阪神 京都新聞杯 GII 10 6 6 1.0(1人) 2着 南井克巳 57 芝2200m(良) 2:12.2(34.5) 0.1 スターマン
11. 6 京都 菊花賞 GI 15 3 4 1.2(1人) 1着 南井克巳 57 芝3000m(稍) R3:04.6(34.3) -1.1 ヤシマソブリン
12. 25 中山 有馬記念 GI 13 7 11 1.2(1人) 1着 南井克巳 55 芝2500m(良) 2:32.2(34.8) -0.5 ヒシアマゾン
1995 3. 12 京都 阪神大賞典 GII 11 1 1 1.0(1人) 1着 南井克巳 58 芝3000m(良) 3:08.2(33.9) -1.1 ハギノリアルキング
10. 29 東京 天皇賞(秋) GI 17 4 7 2.4(1人) 12着 的場均 58 芝2000m(重) 1:59.4(35.7) 0.6 サクラチトセオー
11. 26 東京 ジャパンC GI 14 2 3 3.7(1人) 6着 武豊 57 芝2400m(良) 2:25.3(35.4) 0.7 ランド
12. 24 中山 有馬記念 GI 12 6 8 3.8(2人) 4着 武豊 57 芝2500m(良) 2:34.1(35.6) 0.5 マヤノトップガン
1996 3. 9 阪神 阪神大賞典 GII 10 2 2 2.1(2人) 1着 武豊 59 芝3000m(良) 3:04.9(34.5) 0.0 (マヤノトップガン)
4. 21 京都 天皇賞(春) GI 16 2 4 1.7(1人) 2着 南井克巳 58 芝3200m(良) 3:18.2(35.5) 0.4 サクラローレル
5. 19 中京 高松宮杯 GI 13 4 5 4.3(2人) 4着 武豊 57 芝1200m(良) 1:08.2(34.2) 0.8 フラワーパーク

※タイム欄のRはレコード勝ちを示す。

[編集] 引退後

[編集] 種牡馬となる

1997年に生まれ故郷である新冠町のCBスタッド(早田牧場の傘下)で種牡馬となり、内国産馬として史上最高額となる20億7000万円のシンジケートが組まれた。1997年には81頭、1998年には106頭の繁殖牝馬と交配された。

[編集] 胃破裂により死亡

1998年6月17日腸閉塞を発症。緊急の開腹手術を行い一旦は快方に向かったが、同年9月27日破裂を発症。手当ての術がなく安楽死の措置がとられた[36]。まだ8歳(現在の表記では7歳)の早世であった。 当時異例とも言える監視カメラ冷暖房つきの馬房が、ナリタブライアンの為に特別に設置されていたが、病状発症の際の発見は遅れてしまった。

[編集] 死後

同年10月2日には追悼式が行われ関係者・ファン600人が参加した。またCBスタッド内にが建てられ、通常競走馬は死後火葬されるところを特別に土葬による埋葬が許可された。戦後土葬が許可されたサラブレッドはナリタブライアンとシンザンテンポイントマルゼンスキー・そしてナリタブライアンの母であるパシフィカスの5頭のみである。

死後ナリタブライアンの命日にあたる2000年9月27日にはナリタブライアン記念館が開館した。詳細は同項目を参照。クラシック三冠達成から10年後の2004年10月、JRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」の一環として「ナリタブライアンメモリアル」が同年の菊花賞施行日に京都競馬場にて行われた。

[編集] 種牡馬としてのナリタブライアン

ナリタブライアンは2世代にわたって産駒を残しており、死亡から2年後の2000年に1世代目が、翌2001年に2世代目がデビューした。重賞を勝つ馬は出なかったが[37][38]、産駒に牝馬が多かったため、母の父として血を残すことを期待されている。2007年にナリタブライアンを母の父にもつ笠松競馬場所属のマルヨスーパーラブが重賞競走のOdds Park Fan Selection in 笠松を優勝した。

[編集] 種牡馬成績

成績詳細
年度 2000年 2001年 2002年 2003年 2004年 2005年 2006年 2007年
順位JRA 223位 58位 38位 57位 134位 139位 234位 -
順位(全国) 290位 83位 54位 68位 151位 156位 274位 -
AEI(全国) 1.26 0.85 1.15 1.42 0.90 1.19 0.99 -
総出走頭数 17 89 119 59 34 19 7 2
総勝ち頭数 6 27 49 28 16 7 3 1
総獲得賞金(円) 4923万 3億1864万 4億6186万 3億2570万 1億1727万 8529万 2748万 89万

[編集] 主な産駒

[編集] 特徴

[編集] レーススタイル

基本的な戦法は差し。第3コーナーから直線の入り口にかけてまくりをかけ、一気に先頭集団まで上がっていくレースも多かった。中にはスプリングステークスのように、最後方から一気に先頭集団に並びかけていったレースもある。さらに東京優駿では、直線の長い東京競馬場で第3コーナーからまくりをかけ、そのまま出走馬中最速の上がりを記録してゴールインした。なおレースでは優れた集中力を発揮し、「他をぶっちぎって勝つ」と称された[39]が、これには前述のように気性の問題が関係していた。

[編集] 競走馬としての特徴

  • 臆病な気性を馬具シャドーロール)装着による改善に成功して以降は優れた集中力を発揮するようになり、競走成績が向上した。シャドーロール装着以前は勝利数よりも敗戦数が多く(2勝3敗)、三冠達成までの敗戦数(4敗)は日本のクラシック三冠馬の中で最多である[40]。また、クラシック三冠馬の中で唯一デビュー戦で敗れている。
  • 興奮しやすい気性の持ち主でもあり、その緩和のために数多くのレースに出走した。三冠達成までの出走数(13)は日本のクラシック三冠馬の中で最多である[41]。また生涯を通じての出走数(21)もクラシック三冠馬の中で最多である[42]

[編集] 競走馬名および愛称・呼称

  • 競走馬名「ナリタブライアン」の由来は、馬主山路秀則大久保正陽厩舎への預託馬に使用していた冠名「ナリタ」に父ブライアンズタイムの馬名の一部「ブライアン」を加えたものである。同馬の現役当時は「ブライアン」の呼称が一般的だったが、一部の競馬雑誌や漫画ではナリブーの呼称が用いられていた。
  • 気性改善のために装着された白いシャドーロールはナリタブライアンの代名詞的存在となり、同馬は「シャドーロールの怪物」と称された。後にナリタブライアンは精神的に成長しシャドーロールを装着しなくとも走りに集中できるようになったが、定着したイメージを崩さないために敢えて外されなかった。
  • クラシック三冠を含むかつての八大競走を4勝していることから四冠馬とも称される。

[編集] 評価

[編集] ナリタブライアンの関係者による評価

ナリタブライアンの関係者はデビュー前からナリタブライアンに高い素質を感じていた[43][44]。(ただしマスコミに対しては高評価を与えた馬ほど走らないというジンクスを意識して「ビワハヤヒデと比べるのはかわいそう」など控え目なコメントを出し続けていた。[45]

デビュー後も関係者は高い評価を与え続けた。

  • 南井はデビュー戦で2着に敗れたにもかかわらず、「この馬はすごい」と評した[46]。その後も南井はナリタブライアンに高い評価を与え続け、東京優駿優勝後には「今まで乗った馬の中で一番強いんじゃないか」とコメントした[47]
  • 大久保はデビュー戦の後「この馬は強い。モノが違う」と絶賛し[48]、早田に対し初勝利を挙げた2戦目のレース後に「この馬は、兄を超えますよ」[49]、函館3歳ステークスでは6着に敗れたにもかかわらず「凄い馬ですね。間違いなく大物になります。」と語った[50]。さらにスプリングステークスを優勝した際「ダービーを勝てそうか」と問われ、「まあいけるんじゃないの」と答えた[51]
  • きんもくせい特別で騎乗した清水英次は「(清水が騎乗したことのある)ナリタタイシンの今頃よりも乗りやすい。とにかく器が違う。」と評した[52]。また騎手を引退した後に、自身が騎乗した中でトウメイと並んで最も賢い競走馬だったと評した[53]

[編集] 競馬関係者による評価

  • 東京優駿のレース後、野平祐二は自身が管理したシンボリルドルフとの比較において「これからいろいろあるだろうが、現時点ではブライアンが上かな」とした[54]
  • 武豊は他の競走馬に騎乗してブライアンと対戦した際の感想として、「全然勝てる気がしない。ナリタブライアンに負けても仕方がないと納得してしまう」とコメントしている[55]
  • オリビエ・ペリエ騎手は「印象に残る馬」の1頭としてナリタブライアンを挙げ、「全盛時の走りは世界クラスだった」と述べている[56]
  • ビッグレッドファームおよびサラブレッドクラブ・ラフィアン前代表の岡田繁幸氏は函館3歳ステークスで同馬を見たときに「来年のダービーはもって行かれた」と感じたという。

[編集] 競走馬としての評価

[編集] 客観的評価

  • 中央競馬には2005年までにクラシック三冠を達成した馬が6頭いるが、三冠を達成するまでに4度敗れており、歴代三冠馬の中では最も負け数が多い。
  • クラシック三冠の合計着差は、タイム差は計2.6秒、馬身差は計15馬身半にも及び、タイム差・馬身差ともに歴代三冠馬の中で最大である。
  • 中央競馬のクラシック三冠馬のうち、3歳時のGI朝日杯3歳ステークス(現朝日杯フューチュリティステークス)も合わせて制したクラシック三冠馬はナリタブライアン一頭だけである。
  • 東京優駿では当時としてはハイセイコーの66.6%に次いで同レース史上2番目に高い61.8%の単勝支持率を集めた。同レース単勝馬券の配当額120円はシンボリルドルフの130円を下回り、当時としては同レース史上最低のものであった[57]
  • 2000年にJRAが行った20世紀の名馬Dream Horses2000において37,798票を獲得し、1位となっている。雑誌「Number」が競馬関係者を対象に行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」[58]では3位であった(1位はシンザン)。
  • 全日本フリーハンデでは、三冠を達成した1994年に129ポイントを獲得している。これはシンボリルドルフの128ポイントを上回り、日本の4歳馬としては当時史上最高の評価である[59]

[編集] エピソード

[編集] デビュー前のエピソード

  • デビュー前の1992年3月から10月にかけては資生園早田牧場えりも分場において昼夜放牧によって鍛錬された[60]

[編集] 競走馬時代

  • 精神面の成長によって、4歳の春から調教の際にはシャドーロールを外していた。レースでシャドーロールをつけ続けたのは、「縁かつぎ」と「識別しやすい」ため、と大久保は皐月賞後に答えている[61]
  • 東京優駿直前の調教においてシャドーロールを外して走行させる試みがなされたが、走行の内容は芳しくなく、試みは失敗に終わった[62]
  • 大久保はナリタブライアンが出走し優勝したGIを2つ欠席している。1つめは朝日杯3歳ステークスであり、香港沙田競馬場へ遠征した管理馬のナリタチカラに同行していた。2つめは皐月賞で、盲腸を患い投薬治療を受けていた影響から自宅で静養していた(表向きは風邪をひいたためとされた)。
  • デビュー時456kgだった体重は、増減しつつも引退時478kgまで成長していた。なお出走時体重は448〜486kgで、これはサラブレッドの平均体重とほぼ一致する。

[編集] 調教師とマスコミとの対立

大久保は主にナリタブライアンのローテーションの組み方を巡り、しばしばマスコミによる批判の対象となった。一方大久保もそうした報道やマスコミの報道姿勢に反発し、両者の関係は必ずしも良好とはいえなかった。以下、主な対立について記述する。

[編集] 3歳時のローテーションに関して

レースに出走させ過ぎであるという批判はナリタブライアンが競走馬として頭角を現すようになった当初から根強く、たとえば岡部幸雄は5歳時に故障を発症したのは3歳時のキツいローテーションのツケであると述べている[63]。これに対して大久保は「レースに出走させることによって競走馬を強くする」という持論を展開し、反論した[64]。また早田は前述の気性面の問題を解消するための措置であったと大久保を擁護した。

[編集] 厩舎内取材禁止通達を巡って

皐月賞直前期、大久保はJRAを通じ、マスコミに対して厩舎内での取材を控えるよう通達を出した。これは厩舎内に無断で立ち入って写真を撮る者がいたためにとられた措置であったが、当時は何ら事情説明がなされなかったため、マスコミは高圧的だと強く反発した。同様の通達は同年の菊花賞、有馬記念の前にも出された[65]

[編集] 天皇賞(秋)出走に関して

前述のように体調不安や調教の不足が指摘されていたにもかかわらず大久保が出走を決断して大敗したため、出走を批判するマスコミが多かった。特に大川慶次郎は、「『あれほどの馬を状態が悪いのに使ってくるわけがない』と信じていたが間違いは調教師自身の見識にあった」「あれだけの馬を調教代わりにレースに使うのは間違いである」と大久保を強く批判し[66]、その後のジャパンカップと有馬記念を含め5歳秋における一連の出走について「関係者はよってたかってナリタブライアンをただの平凡な馬に蹴落とそうとしているのではないか」[67]という思いを抱いたと述べている。また岡部幸雄は出走に関して、「ああいう使い方だとミソをつけてしまう」、「あれだけ強かった馬の価値をただの馬に下げてしまう」、「結局、日本人の感覚って、そんなもの」と批判した[68]

これに対し大久保は「レースに出走させることによって競走馬を鍛えるという信念に基づく出走であった」「調教の動きがよかったので出走させた」[69]、「天皇賞(秋)に出走したことによりジャパンカップと有馬記念では成績は上昇しているので間違いだったとは思わない」[70]としている。なお大久保は天皇賞(秋)の直後からジャパンカップ直前期までの間、ナリタブライアンの体調に関してコメントすることを拒絶することで限定的な取材拒否を行った[71]

[編集] 高松宮杯出走に関して

[編集] 出走自体に関して

高松宮杯出走に関してはレースの前後を通じ、ナリタブライアンの距離適性の面から出走を疑問視ないし批判するマスコミが多かった。

大久保は出走を決断した理由について、当初「ブライアンは股関節炎の心理的な後遺症で長い距離を走らせると嫌がるようなそぶりを見せていた。そのために短距離戦を選んだ」と語っていた[72]。しかし後にはそれを否定し、天皇賞(春)ではナリタブライアンは思い切り走っていたとし、むしろ「本当に強い馬は距離やコース形態を問わず勝てるはずだ」という信念が強く反映された出走であったとしている[73]。さらに、世間をあっといわせたかった[74](ちなみにレース後、大久保は「盛り上がったでしょう」とコメントしている)、中京競馬場には一度も出走させていなかったためファンサービスの意味合いもあったとしている[75]。これに対し大川は「本当に強い馬は距離に関係なく勝てるはずだ」という思想は競馬番組の距離体系が整備されていなかった昔の考えであり、ひどい時代錯誤だと批判した[76]

[編集] 南井から武豊への乗り替わりについて

前述のように大久保は南井から武豊への乗り替わりを実行した。その理由について大久保は当初、「南井の負傷療養中に乗ってもらったお礼」であるとしていた[77]が、後に天皇賞(春)における南井の騎乗法を不満に思っての乗り替わりであったことをうかがわせる発言を行った[78]。これについて大川は、「南井ほどの、しかもナリタブライアンと一対のパートナーであった騎手を一度の騎乗ミスを理由にないがしろにすることは許されるものではない」という主旨の批判をした[79]

[編集] 血統構成

ナリタブライアンの両親(父ブライアンズタイム、母パシフィカス)は、ともに同馬の生産者である早田光一郎輸入したサラブレッドである(輸入の詳細な経緯についてはそれぞれの項目を参照)。

早田は生産した馬が種牡馬繁殖牝馬となった際に近親交配を避けやすいという理由からアウトブリードの交配を好み、ナリタブライアンについて両親がともに血統表を5代遡ってもインブリードを持たず、かつ互いを交配させて誕生する馬もまた血統表を5代遡ってもインブリードを持たないという認識のもとに交配がなされた。早田は、ナリタブライアンがデビュー当初数多くのレースに出走できた丈夫さをアウトブリードによるものとしている[80]。なお、ナリタブライアンは母パシフィカスの第5仔に当たる。

[編集] 血統表

血統表及びその見方については競走馬の血統#血統表を参照。

ナリタブライアン血統  ロベルト系/アウトブリード

*ブライアンズタイム
Brian's Time
1985 黒鹿毛
Roberto
1969 鹿毛
Hail to Reason Turn-to
Nothirdchance
Bramalea Nashua
Rarelea
Kelley's Day
1977 鹿毛
Graustark Ribot
Flower Bowl
Golden Trail Hasty Road
Sunny Vale

*パシフィカス
Pacificus
1981 鹿毛
Northern Dancer
1961 鹿毛
Nearctic Nearco
Lady Angela
Natalma Native Dancer
Almahmoud
Pacific Princess
1973 鹿毛
Damascus Sword Dancer
Kerala