テンプル騎士団 - Wikipedia

テンプル騎士団

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テンプル騎士団(―きしだん)は、中世ヨーロッパで活躍した騎士修道会。正式名称は「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち(ラテン語Pauperes commilitones Christi Templique Solomonici)」であり、日本語では「神殿騎士団」や「聖堂騎士団」などとも呼ばれる。

テンプル騎士団の紋章
二人の騎士は清貧の精神および騎士にして修道士という二重性をあらわしている

十字軍活動以降、いくつかの騎士修道会(構成員たちが武器を持って戦闘にも従事するタイプの修道会)が誕生したが、テンプル騎士団はその中でももっとも有名なものである。創設は1096年第1回十字軍の終了後であり、ヨーロッパ人によって確保されたエルサレムへの巡礼に向かう人々を保護するために設立された。

目次

[編集] 概要

テンプル騎士団の最大の特徴は、構成員が修道士であると同時に戦士であったという点にある。同騎士団の団員たちは数次にわたって行われた十字軍活動の中で大きな役割を果たした。さらに特筆すべきは、テンプル騎士団が王族や貴族たちの財産を預かる中で独自の金融システムを発達させ、国際銀行の元祖ともいうべき役割を果たしていたことである。ヨーロッパ全域に広がったテンプル騎士団は聖地がイスラム教徒の手に奪い返されて本来の目的を失った後も活動し続けたが、1300年代初頭にフランス王フィリップ4世の陰謀によって壊滅させられ、以後活動禁止となった。

[編集] 組織構造

テンプル騎士団はれっきとした修道会であったため、会憲と会則を保持していた。会の発足時には改革シトー会の創立者で当時の欧州キリスト教界で強い影響力を持っていたクレルヴォーのベルナルドゥスの支援を受け、ベルナルドゥス自身が会憲の執筆を行ったことで知られる。テンプル騎士団は各国に管区長(マスター)とよばれる地区責任者がおり、騎士団全体を統括するのが総長(グランド・マスター)であった。総長の任期は終身で、東方における軍事活動と西方における会の資産管理のどちらにも責任を負っていた。

テンプル騎士団は以下の4つのグループから構成されていた。

  • 騎士 - 重装備、貴族出身
  • 従士 - 軽装備、平民出身
  • 修道士 - 資産管理
  • 司祭 - 霊的指導

通常、一人の騎士には十人ほどの従士がついていた。 さらに一部の修道士は資産管理業務を専門としていた。テンプル騎士団は十字軍従軍者の資産を預かる業務も行っていたが、あくまで主目的は戦闘にあった。

テンプル騎士団は入会者や各地の信徒から寄進を受けることで資産を増やしたが、その資産を用いて聖地や中東地域に多くの要塞を配置し、武装した騎士団を常駐させた。テンプル騎士団のユニフォームは白い長衣の上に赤い十字架のマークをつけたもので、テンプル騎士団を描いた絵でもよく見られる。

騎士団の入会儀式では、入会への意志の固さが問われ、秘密儀式が行われていた。入会式の全容が秘密とされたことが後に騎士団を異端として告発するにあたって利用された。しかし秘密儀式といっても、実際には通常の騎士団のような誓いや、修道会のような清貧・貞潔・従順の誓いを立てていたにすぎなかった。上級騎士たちは決して降伏しないことを誓い、戦死こそが天国の保障であると考えていたとされる。このような戦士としての士気の高さ、熱心に行われた鍛錬と十分な装備などがあいまって中世最強の騎士団と呼ばれるほどになった。

[編集] 歴史

[編集] 創設と初期の活動

アル=アクサー・モスク
テンプル騎士団初期の本部、エルサレムの神殿の丘にある。元の神殿の遺構の上にたてられたため、十字軍はその神殿を「ソロモン王エルサレム神殿」と呼んだ。また、テンプル騎士団の名はこの「神殿の丘」の「神殿(temple)」から取られた。

テンプル騎士団の歴史は第1回十字軍の派遣にさかのぼる。第1回十字軍は聖地の占領に成功したものの、中東地域におけるキリスト教徒の勢力は依然として不安定なものであった。そのため、聖地の守護を唱えたフランス貴族ユーグ・ド・パイヤンのもとに九人の騎士たちが集まった。彼らは聖地への巡礼者を保護するという目的で活動を開始し、すでに活動していた聖ヨハネ騎士団修道会の例にならって聖アウグスティノ修道会の会則を守って生活するという誓いを立てた。エルサレム王国ボードワン2世は彼らの宿舎の用地として神殿の丘を与えた。神殿の丘にはもともとソロモン王のつくったエルサレム神殿があったという伝承があった。このことから会の名称「テンプル騎士団」が生まれることになる。

騎士団の本部があった神殿の丘の位置を示すエルサレムの地図。

ユーグ・ド・パイヤンは自分たちのグループもヨハネ騎士団のような騎士修道会として認可されたいと願い、当時の宗教界の大物であったクレルヴォーのベルナルドゥスに会則の作成と教皇庁へのとりなしを願った。ベルナルドゥスの尽力の甲斐あって1128年1月13日、フランスのトロアで行われた教会会議において教皇ホノリウス2世はテンプル騎士団を騎士修道会として認可した。当時のヨーロッパ貴族の間で聖地維持のためになんらかの貢献をしたいという人々が多かったため、テンプル騎士団はフランス王はじめ多くの王侯貴族の寄進を得、入会者も増えた。1139年には教皇インノケンティウス2世がテンプル騎士団に国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務を免除されるなど多くの特権を付与したことでその力が増すことになった。

テンプル騎士団は1147年第2回十字軍に際して、フランスのルイ7世を助けて奮闘したため、十字軍の終了後、ルイ7世は騎士団にパリ郊外の広大な敷地を寄贈した。ここにテンプル騎士団の西欧における拠点が建設された。この支部は壮麗な居館のまわりに城壁をめぐらした城砦のごときものであり、教皇や外国人君主がフランスを訪れる際の宿舎となり、王室の財宝や通貨の保管まで任されるようになった。1163年には教皇アレクサンデル3世が自らの選出に際し、尽力したテンプル騎士団に報いる形で回勅『Omne Datum Optium』を出して修道会と財産の聖座による保護、司教からの独立などの特権を賦与した。

テンプル騎士団の騎士たちの強さと勇敢さは伝説的なものであった。特に1177年にモントギサールの戦いでサラディン率いるイスラム軍を撃退し、フランスのフィリップ2世やイングランドのリチャード1世(獅子心王)とも共闘、スペインポルトガルでも対イスラム教徒戦闘に従事して、その勇名を不動のものとした。

しかし、数々の特権を受けて肥大化していく騎士団に対し、地域の司教たちや他の修道会から批判が行われるようになった。それだけでなく、後述するように一切の課税を免除され、自前の艦隊まで有して商業活動や金融活動を行っていた騎士団は商人や製造業者たちの敵意を受けるようになっていった。

[編集] 巨大金融機関としての発達

軍事組織としての表の顔に加えて持っていた騎士団のもう一つの顔が金融機関としてのものであった。もともとは入会者たちは、この世の栄華を捨てる証として個人の私有財産を会に寄贈して共有しており、この慣習はほかの修道会でも行われていた。会の活動目的が聖地守護と軍事活動であっても実際に前線で戦うのは会員の数%にすぎなかった。ほとんどの会員は軍事活動そのものより、それを支援するための兵站および経済的基盤の構築にあたった。特筆すべきは、テンプル騎士団が巡礼者の預金証を作成し、彼らの資産を預かるサービスを編み出したことである。

このような新たなビジネスモデルの構築と、多くの寄進を集めたことによって12世紀から13世紀にかけて騎士団は莫大な資産をつくり、それによって欧州から中東にいたる広い地域に多くの土地を保有した。そこへ教会と城砦を築き、ブドウ畑や農園を作り、やがて自前の艦隊まで持ち、最盛期にはキプロス島全島すら所有していた。パリにあったテンプル騎士団の支部はフランスの非公式な財務省といえるほどの規模になり、たびたびフランス王に対する財政援助を行っている。

[編集] 聖地の喪失

1187年ハッティンの戦い十字軍は聖地エルサレムを失い、これが転換点となった

騎士団の経済的な発展とは裏腹に1187年までに中東情勢は悪化の一途をたどっていた。当時の総長ジェラール・ド・リデフォールは宿敵サラディンとの数次にわたる戦闘に敗北するだけでなく、自らが捕虜となるという致命的な失態を演じた。これは投降よりは死を選ぶという騎士団の勇名に泥を塗ることになった。ジェラールは一度は解放されたが、再び捕虜となって斬首されたため、ヨーロッパにおいてテンプル騎士団への風向きが変わっていく。

1290年アッコンが陥落すると、ヨーロッパ人は完全に聖地周辺の足がかりを失うことになった。軍事活動がなくなっては存続できない他の騎士団が存亡をかけて新たな目標を見つけていく中で、特権と財産に守られていたテンプル騎士団には危機感がなく、スペインでのアラブ人との小競り合いを除けば、ほとんどすべての軍事活動を停止するようになっていた。

[編集] 騎士団の壊滅

フランス王フィリップ4世(1268 - 1314)

騎士団の破滅は急に訪れた。13世紀の終わり、中央集権化をすすめていたフランス王フィリップ4世(美男王)は財政面でたびたびテンプル騎士団の援助を受けていたにもかかわらず、自らの新しいアイデアに夢中になっていた。それは当時もっとも勢力のあった二つの騎士団、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団を合併し、自らがその指導者の座について聖地を再征服する。その後、自分の子孫にその座を継承していくことで自らの一族が世々にわたって全ヨーロッパにおよぶ強大な影響力を持てるだろうという夢であった。しかし、現実問題としてフランスは常に財政難にあえいでいた。フィリップ4世は腹心のギヨーム・ド・ノガレの献策にしたがって、1296年には教皇庁への献金を禁止し、通貨改鋳を行う。さらに1306年にはフランス中のユダヤ人をいっせいに逮捕、資産を没収した後に追放するという暴挙に出た。こうしてまとまった資産を手にしたフィリップ4世が次に目をつけたのが富裕なテンプル騎士団であった。

フランスのSaint Martin des Champsにある、テンプル騎士団の建物。

一方、当時のフランスはイギリスとの戦争によって多額の債務を抱え、テンプル騎士団が最大の債権者であった。そのため、フィリップ4世は債務の帳消しをはかってテンプル騎士団の壊滅と資産の没収(略奪)を計画したともいわれる。

いずれの動機であれ、まず、手始めにフィリップは聖ヨハネ騎士団との合併をテンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーに提案し、即座に拒絶された。そこで王はどのようにテンプル騎士団の資産を没収するかを検討したが、そもそも何の罪もない人々を一般的な裁判形式で裁いても有罪の立証に持ち込むことは難しいことがわかった。そこで(匿名の証言を採用できる)「異端審問方式」を用いることで有罪に持ち込もうと考えた。異端審問を行うには教皇庁の認可が必要であるが、当時の教皇はフランス王の意のままに動くフランス人のクレメンス5世であり、何の問題もなかった。こうしてテンプル騎士団を入会儀式におけるソドミー行為、反キリストの誓い、悪魔崇拝といった容疑で起訴することになった。

火刑に処される騎士団員

1307年10月13日[1]フィリップ4世はフランス全土においてテンプル騎士団のメンバーたちを何の前触れもなく一斉に逮捕。異端的行為など100以上の不当な罪名をかぶせたうえ、罪を「自白」するまで拷問を行った。異端審問において立ち会った審問官はすべてフランス王の息のかかった高位聖職者たちで、特権を持ったテンプル騎士団に敵意を持つ人ばかりであった。騎士団は異端の汚名を着せられ、資産は聖ヨハネ騎士団へ移すこと、以後の活動を全面的に禁止することが決定された[2]

さらに1312年、教皇クレメンス5世はフィリップ4世の意をうけて開いたヴィエンヌ公会議で正式にテンプル騎士団の禁止を決定、フランス以外の国においてもテンプル騎士団の禁止を通知したが、効果はなかった[3]。たとえばポルトガルでは国王が逮捕を拒否し、「キリスト騎士団」という名前での存続が認められた。カスティーリャとアラゴンでもテンプル騎士団に対する弾圧は一切行われなかった。ドイツとキプロス島では裁判までは行われたが証拠不十分で無罪の判決が下された。また教皇庁と対立していたロベール(ロバート1世)王の率いるスコットランドはそもそも教皇の決定など意に介していなかったので同地の騎士団も弾圧を免れた。

資産の没収を終えると、フィリップ4世は口封じのために1314年、投獄されていた4人の指導者たちの処刑を指示。ジャック・ド・モレーら最高指導者たちはシテ島の刑場で生きたまま火あぶりにされた。

[編集] 名誉回復

テンプル騎士団については19世紀にいたるまで彼らの異端という汚名は晴らされることがなく、無批判に受け入れられていた。しかし1813年にフランスのレイヌアールが初めてこれに疑義を呈した。最終的に1907年にドイツの歴史学者ハインリヒ・フィンケが「彼らの罪状は事実無根で、フィリップ4世が資産狙いで壊滅させた」ことを明らかにした。

現代のカトリック教会の公式な見解では、テンプル騎士団に対する異端の疑いは完全な冤罪であり、裁判はフランス王の意図を含んだ不公正なものであったとしている。また、ヴィエンヌ公会議で教皇がテンプル騎士団の禁止を決定したことも、当時の社会からの批判に流されたものであったと結論づけている。2007年10月12日にローマ教皇庁はテンプル騎士団の裁判資料である『Processus Contra Templarios』(テンプル騎士団弾劾の過程)を公開・頒布した[1]

[編集] テンプル騎士団の伝説

テンプル騎士団にまつわる伝説は多い。伝説の多くはテンプル騎士団の最初の本部が置かれたエルサレム神殿とのつながりから生まれたものである。たとえば彼らがエルサレム神殿の跡地から聖杯を見つけた、あるいは聖櫃を、あるいはイエスがかかった十字架を発見したなどというものである。また、多くの団体が自らの出自をテンプル騎士団と結びつけることでその神秘性を高めようとしてきた。

代表的なものはフリーメーソンで、彼らは19世紀に入ってから神殿の図が入った紋章を使い始め、自らのルーツをテンプル騎士団と結び付けようとした。代表的な伝説は、テンプル騎士団がロバート・ブルース支配下のスコットランドで存続したというもので、ここからスコットランド儀礼のフリーメーソン団やフランスを中心とするジャコバイト系フリーメーソン団、さらには種々のオカルト系フリーメーソン団が生まれた。さらに『ダ・ヴィンチ・コード』など多くのフィクション作品において、テンプル騎士団の神秘的なイメージは利用されつづけている

[編集] テンプル騎士団歴代総長(1118年 - 1314年)

  1. ユーグ・ド・パイヤン(Hughes de Payens 1118 - 1136)
  2. ロベール・ド・クラオン(Robert de Craon 1136 - 1146)
  3. エヴェラール・デ・バレス(Everard des Barres 1146 - 1149)
  4. ベルナール・ド・トレムレ(Bernard de Tremelay 1149 - 1153)
  5. アンドレ・ド・モンバール(André de Montbard 1153 - 1156)
  6. ベルトラン・ド・ブランシュフォール(Bertrand de Blanchefort 1156 - 1169)
  7. フィリップ・ド・ミリー(Philippe de Milly 1169 - 1171)
  8. オドー・ド・サンタマン(Odo de St Amand 1171 - 1179)
  9. アルノー・ド・トロージュ(Arnaud de Toroge 1179 - 1184)
  10. ジェラール・ド・リドフォール(Gérard de Ridefort 1185 - 1189)
  11. ロベール・ド・サブレ(Robert de Sablé 1191 - 1193)
  12. ジルベール・オラル(Gilbert Horal 1193 - 1200)
  13. フィリップ・ド・プレシス(Phillipe de Plessis 1201 - 1208)
  14. ギヨーム・ド・シャルトル(Guillaume de Chartres 1209 - 1219)
  15. ペドロ・デ・モンタギュー(Pedro de Montaigu 1219 - 1230)
  16. アルマン・ド・ペリゴール(Armand de Périgord 1232 - 1244)
  17. リシャール・ド・ビュレ(Richard de Bures 1245 - 1247)
  18. ギヨーム・ド・ソナク(Guillaume de Sonnac 1247 - 1250)
  19. ルノー・ド・ヴィシエ(Renaud de Vichiers 1250 - 1256)
  20. トマ・ベラール(Thomas Bérard 1256 - 1273)
  21. ギヨーム・ド・ボージュー(Guillaume de Beaujeu 1273 - 1291)
  22. ティボー・ゴーダン(Thibaud Gaudin 1291 - 1292)
  23. ジャック・ド・モレー(Jacques de Molay 1292 - 1314)

[編集] 騎士団ゆかりの地

中東
  • 岩のドームおよび神殿の丘(エルサレム)
  • アッコの城砦跡
  • アトリート城(巡礼城 ハイファ
  • カラク城(ヨルダン)第7代総長フィリップ・ド・ミリーに関連した城塞
  • トルトーザ(シリア タルトゥース
  • シャステル・ブラン(シリア サフィータ
  • サフェド
イングランド
  • テンプルチャーチ、ミドルテンプル、インナーテンプル(ロンドン)
  • テンプルコンブ(サマーセット)
  • ルンディ島(デヴォン)
  • ウェスターデール(北ヨークシャー)
フランス
スペイン・ポルトガル
  • コンベント・デ・クリスト、トマル城およびサンタ・マリア・ド・オリバル教会(ポルトガル)
  • コインブラのスール城(ポルトガル)
  • アラゴンの灌漑設備(スペイン)
そのほか
  • キプロス島のコロッシ城
  • ベルリンのテンペルホフ城(ドイツ)

[編集] 脚註

  1. ^ この日が金曜日だったため、以後「13日の金曜日は不吉である」というジンクスが生まれたともいわれる。
  2. ^ 資産を聖ヨハネ騎士団に移すという決定はあくまでも表向きのもので、フランス国内のほとんどの資産は王の手に渡った。
  3. ^ 公会議そのものでも、フランス寄りの枢機卿以外はみなこの決定に激しく抗議したが、教皇の権威をたてに押し切った。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • 橋口倫介『十字軍騎士団』(講談社学術文庫 講談社、1994年)
  • レジーヌ・ペルヌー『テンプル騎士団』(橋口倫介訳、文庫クセジュ604 白水社、1977年)
  • 同『テンプル騎士団の謎』(「知の再発見」双書104 創元社、2002年)
  • M・ベイジェント、R・リー『テンプル騎士団とフリーメーソン』(林和彦訳、三交社、2006年)
  • Gilles C. H. Nullens『正統と異端 第二巻:テンプル騎士団とヨハネ騎士団』(高橋健訳、無頼出版、2007年)

[編集] テンプル騎士団を扱った作品一覧

モデルとしたものも含む。


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