イギリス領インド帝国 - Wikipedia

イギリス領インド帝国

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インド帝国
Indian Empire (英語)


1858年 - 1947年


国旗 国章
国旗 国章
国歌 : 女王陛下万歳
イギリス領インドの位置
公用語 ヒンディー語ウルドゥー語英語など
首都 カルカッタ1858年-1912年
ニューデリー1912年-1947年
皇帝
1858年 - 1901年 ヴィクトリア女王
1901年 - 1910年 エドワード7世
1910年 - 1936年 ジョージ5世
1936年 - 1936年 エドワード8世
1936年 - 1947年 ジョージ6世
副王
1858年 - 1862年 カニング伯爵チャールズ・カニング(初代)
1947年2月21日 - 1947年8月15日 マウントバッテン伯爵ルイス・マウントバッテン(最後)
変遷
成立 1858年
消滅 1947年
通貨 ルピー

イギリス領インド帝国(イギリスりょうインドていこく)とは、1877年イギリスインドに成立させた属国インド帝国(英語:Indian Empire)を指す。英領インド英印とも呼ばれる。またイギリスによる統治を指してヒンディー語でब्रिटिश राज(英語ではBritish Raj)と呼ぶ。1947年 - 1948年インド連邦パキスタン(1971年に更にバングラデシュが分離)・スリランカ(当時セイロン)の3国へと分離独立して消滅した。

目次

[編集] 概要

インド大反乱(セポイの乱)の後、イギリスはムガル皇帝を廃し(ムガル帝国の滅亡)、東インド会社を解散させ、イギリス国王(当時はヴィクトリア女王)がインド皇帝を兼任することでイギリス領インド帝国が成立した。本国イギリスにはインド省が、インドには「インド副王」の称号を持つイギリス人総督が置かれた。1824年からの3次におよぶイギリス・ビルマ戦争によって、1886年~1937年までは現在のミャンマーもその領土としていた。国際連盟国際連合ともに原加盟国である。

国内は直轄州と大小552の藩王国にわかれており、軍隊(英印軍)も存在した。

[編集] 地方行政区画

20世紀になる頃のインド帝国の直轄領は、州知事あるいは州準知事が統治する8つの州から構成されていた。1905年のベンガル分割令において、ベンガル州は、東ベンガル及びアッサムと西ベンガルの2つに分割されたが、1911年に、東西ベンガルは再統一され、さらに、ビハール州オリッサ州が新設された[1][2]

[編集] 主要8州

Province of British India[1] 面積 (千平方マイル) 人口 (百万人) 州の最高責任者
ビルマ 170 9 準知事
ベンガル州 (現在のバングラデシュ西ベンガル州ビハール州オリッサ州によって構成) 151 75 準知事
マドラス州 142 38 知事
ボンベイ州 123 19 知事
連合州 (現在のウッタル・プラデーシュ州ウッタラーカンド州 107 48 準知事
中央州とベラール 104 13 政務長官
パンジャーブ州 97 20 知事
アッサム州 49 6 政務長官

[編集] それ以外の直轄領

主要8州以外にも、政務長官が統治する複数の州が存在した[3]

Minor Province[3] 面積 (千平方マイル) 人口 (千人) 州の最高責任者
北西辺境州 16 2,125 政務長官
バローチスターン州 46 308 バローチスターン担当政務長官
クールグ 1.6 181 マイソール担当政務長官
アジュメール-メルワーラ 2.7 477 ラージプーターナー担当政務長官
アンダマン・ニコバル諸島 3 25 政務長官

[編集] 藩王国

チャールズ・キャニングの改革により、藩王国は、無嗣による断絶が回避されることとなった。また、イギリス政府は、藩王としての「権利、権威、名誉」を尊重することで、藩王国の領域を間接的に支配することに成功した。ただ、藩王国の規模の大きさは大小さまざまであり、ニザーム藩王国デカン高原)、マイソール王国(南インド)、トラヴァンコール藩王国(現在のケーララ州)、カシミール・ジャンムー藩王国(北インド、en)がその代表として挙げられる。

藩王国の内政に関して、イギリスは駐在官を通じて、日常的な業務に干渉するのみならず、大臣の罷免、任命権にまで及んだ。イギリスの干渉の理由は、第一に、藩王国と帝国の一体化をイギリスが望んだこと、第二に、多くの藩王国内において、民主的、民族主義的な運動が高揚したことが挙げられる[4]。また、イギリスは、藩王国内において一体性が保たれていなかったことから、分割支配を試みた。

同様の政策は、1886年から帝国の一州に組み込まれたビルマにも適用された。コンバウン朝より自立していたシャン族、カヤー族、カチン族の有力者に、イギリスの主権を承認することと引き換えに、藩内の行政権を認めた[5]

[編集] 歴史

[編集] キャニング総督からリポン総督の時代 1858-1884

チャールズ・キャニング。初代インド副王に就任した

インド大反乱を鎮圧したイギリス政府は、1858年8月2日、インド統治改善法を可決した。インド統治改善法により、イギリス東インド会社が保有していた全ての権限はイギリス国王に委譲されることとなった。また、イギリス本国ではインド担当国務大臣のポストが新設され、その補佐機関として、インド参事会が設けられた。また、インドにおける総督の肩書きに「副王」の称号が付与された。11月1日チャールズ・キャニングen、就任期間:1858年11月1日-1862年3月21日)が初代の「副王」に就任した[6]

キャニングによるインド統治の方法は、推定されうる反乱の要因を摘み取るものであったため、インド大反乱の要因となった「養子縁組の否定」を否定した。その結果、インドは、藩王の地位は保証されることとなり、インドの人口の約3分の1が約500人の藩王による間接統治に置かれることとなった[6]。このことは、過去の封建体制の有力者をイギリス統治の防波堤として重視しつつ、議会主義の理念や自由主義的政治理念をもって、インドを統治するという、矛盾を孕んだものであった[6]。しかし、このことにより、キャニングは、インド統治の確立に成功した。

第2代副王であるエルギン伯ジェームズ・ブルース(就任期間:1862年3月21日-1863年11月20日)がインドで客死したため、シク戦争などインドでの経験が豊富であったジョン・ローレンスen、就任期間:1864年1月12日-1869年1月12日)が急遽、イギリス本国からインドに赴任することとなり、第3代副王となった。ローレンスは、内政面では、インド人への教育機会の拡大を図った。とはいえ、ローレンスはインド人を高等公務員に就任することに関しては制限を続けた。一方、外交面では、アフガニスタンやペルシャ湾岸地域への介入を回避しながらも、ブータンへの戦争(en:Duar War)を実施し、勝利した。経済面では、オリッサラージプーターナーで飢饉が発生した(それぞれはオリッサ飢饉_(1866年)ラージプーターナー飢饉_(1869年)en)を参照)。

1877年、リトン第5代副王(en、就任期間1876年4月12日-1880年6月8日)が、ムガル帝国の古都デリーで「帝国会議」(デリー・ダルバール(en))を主催し、ヴィクトリアのインド皇帝即位が発表された。この会議の目的は、藩王、地方豪族、都市の有力者を体制内に取り込むことであった[7]。リトンの時代には、アフガニスタンとの最終的な衝突が展開され、また、インド国内では、525万人が餓死するインド大飢饉(en)が発生する[8]など、インド国内の経済は混乱した時代でもあった。

リポン第6代副王。

リトンによるアフガニスタン侵攻は、イギリス本国において、政変へと発展した。当時イギリス本国で首班を務めていたディズレーリが総選挙で敗北し、第2次グラッドストン内閣が発足すると、リポンが第6代副王に就任した[9]

リポンは、インドで西洋式教育を受けた階層から大きな支持を受けた。リトンが1878年に制定した出版物規制のための法律である「土着言語出版法」を廃止し、1882年には部分的にではあるが、選挙で選出された議員から構成される自治制度の大枠を作成した[9]。しかし、リポンは、自らの統治の後半、「イルバート法案」(en)を廃案にしたことで、インド人の反感を買う結果を招いた。この法案は、イギリス管区の首都ではインド人判事がヨーロッパ人を裁くことができるが、他の地方ではそれができない状態を改善するための法案であったが、インド在住のヨーロッパ人の反対の世論に屈服し、廃案になった[9]

[編集] ダファリン総督からエルギン総督の時代 1885-1899

第7代副王として、ダファリン(en、就任期間:1884年12月13日-1888年12月10日)が就任した。第三次イギリス・ビルマ戦争が1885年に始まったが、翌年、この戦争はイギリスの勝利に終わり、ビルマの植民地化が完成した。

ダファリン時代の1885年に、今後のインドの政治を主導するインド国民会議が結成された。リポン時代にイルバート法案が廃案されていたこと、「富の流出」が進んでいたこと[10]、当時のインド人が高級官僚に昇進することが困難であったこと[10]が、結成の要因として挙げられる。とはいえ、インド国民会議に参加したのは、ヒンドゥーがほとんどであり、イスラーム教徒の参加はほとんどなかった。また、穏健的な政治活動で出発した国民会議は、バール・ガンガーダル・ティラクen)が参加したことにより急進化する[11]1893年には、ヒンドゥーとムスリムの間では、西インド、連合州、ビハール州、ビルマのラングーンと広範囲にわたる暴動が発生し、100人以上が死亡する事態となった[11]。牛を神聖視するヒンドゥーは、牛の保護を求めて行動し、肉屋のほとんどがムスリムであったために、この問題を契機に自らのそのほかの権利も剥奪することを恐れたことが暴動の原因であった[11]

19世紀最後の10年間は、1896年1899年の大飢饉(en)、1890年代のペストの大流行とイギリス側に失政が目立った時代であった。

[編集] カーゾン総督からミントー総督の時代 1899-1910

1907年から1909年のベンガル地方の地図

1899年、ジョージ・カーゾン(en、就任期間:1899年1月6日-1905年11月18日)が第11代副王として就任した。カーゾンは外交面では、1903年チベットに初めて外交使節を派遣(en:British expedition to Tibet)した。また、アフガニスタンとの国境線で常に不安定であった北西部において、「北西辺境州」を設置することで、治安の回復を図った。内政面においては、肥大化した官僚制度の整理、商工省の新設、インド考古学研究所の設立[12]を実施した。

しかし、カーゾンの統治政策の本性は、1904年のインド大学法と1905年ベンガル分割令によって、明らかとなった。インド大学法において、官吏の統制が強化され、インドにおける高等教育の発展が阻害された[13]。ベンガル分割令において、ベンガルを二分し、ベンガル東部とアッサム地方でもって東ベンガル州を新設し、ベンガル西部とオリッサ州、ビハール州とを合わせて西ベンガル州を新設することで、それぞれの州の多数派をムスリムとヒンドゥーにしてしまうことで、ベンガルで盛り上がっていた反英運動を分断することにあった[12]。ベンガル分割令は、1911年に撤回されるが、それは分割したベンガル州を再統一し、ベンガル、オリッサ、ビハール、アッサム各州に自治権を持った州とする、いわば、ベンガル人に対しての妥協がなされる形となった[14]

1905年、カーゾンが辞任し、第12代副王としてミントー卿(en、就任期間:1905年11月18日-1910年11月23日)が就任した。ミントーは各地で起こっていた反英運動を徹底的に弾圧した。1906年ジョン・モーリインド担当国務大臣が尊敬する、国民会議「穏健派」のゴーパル・クリシュナ・ゴーカレーが議長に就任するが、ティラクを中心とする「急進派」が過激活動を展開した。ティラクは1907年逮捕され、6年の懲役を受け、マンダレーへ流されることで、国民会議は穏健派が支配することとなったが、国民会議は分裂により、急速に求心力を失う結果となった[15]

また、ミントーは、ヒンドゥーとムスリムの分断を図った。教育を受けたムスリムの一部、有力なムスリムの太守、地主の間で共有されていた分離主義・親英的な人々[16]を後押しする形で、1906年、全インド・ムスリム連盟が結成された。全インド・ムスリム連盟は、ベンガル分割令を支持し、国民会議のあらゆる主張全てに反対した。

[編集] ハーディング総督からチェムズファド総督の時代 1910-1921

1911年のデリー・ダルバールに参列したマリク・ウマル・ハイヤット・ハーン。パンジャーブ地方の有力者である。

チャールズ・ハーディング(en、就任期間:1910年11月23日-1916年4月4日)が第13代副王として、就任すると、その翌年、ジョージ5世メアリー王妃がインドを訪問し、デリーにおいて、戴冠式典が挙行された。イギリス国王がインド帝国時代にインドを訪問したのはこれが最初で最後であり、その式典で、カルカッタからデリーへの遷都が宣言された。

ハーディング総督時代のインド政治を左右したのは当時の国際情勢であった。1911年から始まった伊土戦争とそれに続く2度のバルカン戦争により、オスマン帝国の宗教的権威が大きく揺らぐこととなった。ムスリム大衆の間には親トルコ的感情が生まれることとなり、後に、オスマン帝国が第一次世界大戦で敗れると、ヒラーファト運動へと発展することとなった。

1914年、第一次世界大戦が開戦すると、6月に釈放されていたティラクをはじめ、多くの民族主義指導者はイギリスへの支持を打ち出した。ティラクをはじめとする彼らの期待は、インドのイギリスによる支持は、終戦後、結果として、インドへの大幅な自治が認められるという期待に基づいていた[17]。100万人以上のインド人が徴兵に応じ、フランス、中東で戦死した[18]

大戦期、インド経済は極度のインフレーションと重税に直面することとなり、民族主義的な政治運動が展開される環境が整った。その結果、「自治連盟(Home Rule Leagues)[17][18]」によるインド政界の活性化、革命的な運動の展開[17]が見られるようになった。前者の活動を指導したのは、1つは、ティラクを中心とする勢力であり、もう1つは、イギリス人女性アニー・ベサントであった。後者の革命的活動はベンガル、マハーラーシュトラから、全北インドに広がりを見せた[17]

インドにおける民族意識の高揚、かつての分裂が無意味であることを自覚したティラクは国民会議の再統合を促した。その結果、1916年のラクナウ大会では、国民会議の再統合の達成と全インド・ムスリム連盟との対立関係は解消された。国民会議と連盟の間では、ラクナウ協定en)が締結され、両者の協力関係が確認された。しかし、ラクナウ協定の意義は、分離選挙制度に基づく政治改革であったことから、インド政治に宗派主義が復活する可能性を残した[17]


アムリトサルの虐殺

イギリスはヒンドゥー、ムスリムの二大勢力が大同団結した自体を重く見て、1917年8月20日、エドウィン・サミュエル・モンタギュen)・インド担当国務大臣により、モンダギュ宣言が発表された。イギリスは植民地インドの即時独立を容認することはなく、全人的に自治権を拡大させる政策を採った。モンタギュとチェムズファド第14代副王(en、就任期間:1916年4月4日-1921年4月2日により、モンタギュ-チェムズファド改革en)と呼ばれる改革を推進することで、インドの民族主義者の懐柔と同時に、1919年には、ローラット法が可決され反英主義者の弾圧も行う姿勢を見せるようになった。ローラット法が適用されて展開された悲劇がアムリトサルの虐殺である。

しかし、この時代、インド独立運動では大きな転換点、世代交代を迎えた。今までの独立運動を指導してきたティラクの死亡、南アフリカからのモハンダス・カラムチャンド・ガンディーの帰国である。

[編集] リーディング総督時代 1921-1926

グジャラート州・ケーダー県で活動していた際のガンディー

ガンディーが南アフリカから帰国したのは、1915年のことである。帰国した後のガンディーは、インド各地を回り、インドの現状の把握を理解した。インドにおけるガンディーの闘争の歴史は、1917年のチャンパーラン・サティヤーグラハとその翌年のアフマダーバードの工場ストライキ(en)で始まる。チャンパーランでの闘争において、ガンディーの市民的不服従運動は勝利を収め、アフマダーバードの工場ストライキにおいて、インド人の政治的覚醒を促すことに成功する[19]

アムリトサル事件以降、ガンディーは国民会議派の支持を集めることに成功した。糸をつむぐ姿のガンディーとはもっとも相容れない資本家層の支持も取り組むことに成功したことで、インド独立闘争は、第三段階へと移行することとなった。とりわけ、ガンディーを支持したのは、人口が稠密であるビハール州と連合州であった[20]

一方で、ガンディーを支持しなかった層が存在したことも確かである。1つが各地の藩王国や人口密度が極めて低い山間部である。これらの地域にはガンディーの主張が正しく伝わらなかった[20]。その理由は国民会議の運動員の中心は都市部の学生であったこと、そのため、前述の地域に赴くことができなかったこと、赴くことができなかったのは、鉄道等のインフラストラクチャーが整備されていない物理的側面と各地の藩王がナショナリズムを排斥していたからに他ならない[20]。また、ガンディーの主張にインドの公用語ヒンディー語にすべきであるという点があったことから南インドでの活動の拡大にも限界があった[20]

もう1つの層は、ムスリム層である。ムスリム連盟を指導することとなるムハンマド・アリー・ジンナーは、合法的な独立闘争を展開することを目指したゴーカレーに師事していたこともあって、国民会議を脱退し、ムスリム連盟に参加する。1920年セーヴル条約により、オスマン帝国の瓦解が明らかになるにつれ、ヒラーファト運動は停滞するようになった。さらに、1924年ケマル・アタテュルクにより、トルコ共和国の設立が宣言されると、ヒラーファト運動は破綻した[20]。ラクナウ協定から1922年までの6年間はヒンドゥーとムスリムの間は最後の蜜月の機関であったが、それぞれの大衆動員は、別個でされていたこともあり、徐々に、宗派主義がインド政界に台頭するようになった[20]

1921年の年末までに、ガンディーを除くほとんどの民族主義指導者が逮捕された。その数は、3000人に達した[21]。だが、12月の国民会議アフマダーバード大会では、非暴力・非協力の運動の方針が再確認され、運動は継続された。しかし、次の年になるとガンディーが指導してきた運動は徐々に暴力性を帯びるようになった。ガンディーは、民族運動の停止を決定し、3月10日は、イギリス政府により、ガンディーは逮捕された。こうして、ヒンドゥー、ムスリム両方の反英闘争は一旦、終止符を打つこととなった[21]

ベンガル出身の指導者C.R.ダース。

1922年、国民会議は分裂の危機に直面していた。立法参事会に積極的に進出して、さらには立法参事会を政治闘争の部隊として利用すべきであると考えていたジャワハルラール・ネルーやC.R.ダース(en)のグループと議会政治は大衆の間での活動を軽視させ民族主義の熱を冷ますと考えた「固守派」と呼ばれるグループの対立であった[22]。12月、ネルーとC.R.ダース(en)は国民会議の一派閥として、スワラージ党(en)を結党した[22]

1924年に釈放されたガンディーも両派閥の仲裁に入ったが、不調に終わる。しかし、1907年の分裂のようなことを回避することは両派閥とも共有されていた。その後のネルーのスワラージ党は、1923年の選挙で101議席中42議席を獲得し、1925年3月には、中央立法会議の議長として、ヴィッタルバーイー・パーテル(en)を送り込むことに成功した[22]

おおよそこの時代は、インド独立運動において、高揚とその後の停滞した時代という向きが見られる。

[編集] アーウィン総督からウィリンダン総督の時代 1926-1936

1927年、ジョン・サイモン(en)を委員長とするサイモン委員会(en)が発足した。1929年から、モンダギュ・チェムズファド改革の見直しをすることが決まって板からであるが、委員会の人選をめぐって、インド人を憤慨させることとなった。というのも、委員会のメンバー全員がイギリス人で占められていたからである。

イギリスのこの不手際により、第16代副王アーウィン卿(en、就任期間:1926年4月3日-1931年4月18日)は、インドはカナダオーストラリアと同様の「自治領」になるだろうと宣言したものの、インド人のサイモン委員会に対する不信感を払拭することはできず、さらに、2回目の非暴力運動の準備が始まった。

1928年には、ネルーが中心となり、「ネルー報告」(en)がまとめられた。インドの即時独立を要求する内容はイギリス政府に受け入れられず、さらに、徐々に目立ち始めてきたヒンドゥーとムスリムの対立を露呈する結果となった[23]

1928年12月、国民会議派はカルカッタで大会を開き、ガンディーも大会に参加した。ガンディーは戦闘的左派をなだめるのに成功し、ネルーが父モーティーラール・ネルー(en)に代わり、国民会議の議長に就任した。さらに、翌年のラホール大会で、国民会議は、「プールナ・スワラージ(完全独立)」(en)を採択した。

ガンディーが指導する第2回非暴力運動の頂点は、「塩の行進」で頂点に達した。ガンディーの行進により、インド中に運動は拡大した。森林法(en)が1927年に可決していたが、この法律は、マハーラシュトラ、カルナータカ、中央州で次々と破られた。さらに、今までインド独立運動で大きな役割を果たしてはいなかった女性が積極的に参加したことも特徴であった。パシュトゥーン人ハーン・アブドゥル・ガッファール・ハーンen)は、クダーイー・キドマトガールを組織し、非暴力と独立闘争に誓いを立て[24]、インドの東端ナガランドでは13歳のラーニー・ガイディンリュー(en)がヒロインとなり、国民会議の呼びかけに応じた[24]

ファイル:Gandhi Downing Street.jpg
ダウニング街に赴いたガンディー。

イギリスは、国民会議抜きで、円卓会議を開催していたが、実効性は全く持たなかった。1931年3月、アーウィン卿はガンディーとニューデリーの総督府で面会する。その結果、ガンディー・アーウィン協定(en)が結ばれ、非暴力運動は一旦、中止され、ガンディーはロンドンで開催される第二回英印円卓会議に参加する。しかし、イギリスはインドの独立を認めず、ガンディーは得ることもなく帰国した。帰国したインドで待っていたのは、世界恐慌の影響で不満が充満していた農村部の窮状であった。ガンディー及び国民会議は1931年12月より、小作料と地租の不払い運動を開始せざるをえなかった[24]

ウィリンダン卿。第2回非暴力運動を徹底的に弾圧した。

第17代副王になったウィリンダン卿(en、就任期間1931年4月18日-1936年4月18日)は、前任のアーウィンとの政治姿勢は全くの正反対の人物であり、徹底的な弾圧を実施した。10万人以上のサッティヤーグラハ参加者の投獄、数千人の土地・家屋、その他の財産の没収、民族主義的な新聞の検閲[24]が実施された。ウィリンダンの弾圧は最終的に成功を収め、民族運動は1934年には完全に終結した。

1932年11月には、再び、国民会議は抜きで第三回英印円卓会議が開催された。その結果、1935年には、インド統治法(en)が公布された。

[編集] ホープ総督の時代 1936-1943

第18代副王ヴィクター・ホープ(en、就任期間:1936年4月18日-1943年10月1日)の時代は、全世界をファシズムが覆う時代であった。また、独立前のインドにおいては、インド統治法に基づいて、総選挙が実施され、国民会議主導の政治が展開された時期である。一方で、社会主義思想の台頭、農民・労働者組織の成長、藩王国人民の闘争の展開、宗派主義の伸長といったこれまで以外の動きが活発化した時代でもあった。加えて、1939年より始まった第二次世界大戦が、インドの将来を方向付けた時代でもあった。

1935年のインド統治法の特色は、中央に全インド連邦を設置し、州レヴェルでは州自治の基本に基づく州政府の設立を定めた。このインド連邦構想は、イギリス領の各州と藩王国の連合として考えられたものである。しかし、連邦制構想は、藩王がこの構想に対して、情熱を失ってしまったために破綻してしまう。

一方、州の権限が拡大されたことにより、州政治の活発化した。国民会議は、不十分であったこの統治法に基づく選挙に臨むことを決定し、1937年の総選挙の結果、ベンガル州(農民大衆党とムスリム連盟による連立政権)とパンジャーブ州(連合党)を除く9州で単独政権ないしは会議派が参画する連立政権が成立した。

しかし、州政権をとった国民会議は、公約のほとんどを実行することはなかった。その背景には、国民会議の支持層が商業界、知的専門的業界、裕福な農民層であったからである[25]。とはいえ、国民会議による政権によって、市民的自由(出版や急進的組織への規制の撤廃、労働組合や農民組織の活動と発展の許容、政治犯の釈放など)の促進[26]、あるいは、小作権に関しての規定[26]、一部の州では、ハリジャン(不可触民)の地位改善[26]に取り組むこともあった。

ミナーレ・パキスタン。ラホールのこの場所でラホール決議は採択された

とはいえ、国民会議は完全にムスリム層からの支持を失った。その背景には、国民会議自身が気づかない無礼あるいは鈍感にあった[25]。ムスリム連盟は1937年総選挙では、全国のムスリムの5%程度の支持しか獲得できず、ムスリム人口が多数派の州であったとしても、第一党になることはかなわなかった。しかし、インド国民会議が徐々にヒンドゥー色を強めていく過程で、全国のムスリムは国民会議による中央政権の樹立の可能性に対して危機感を抱くようになった。その結果、1930年ムハンマド・イクバールによる連盟ラホール大会での議長演説が「パキスタン構想」として、次第に支持されるようになり、ついに、1940年のラホール大会で、ジンナーは、二民族論(en)を含めたラホール決議(en)を採択するにいたり、ヒンドゥーとムスリムの分裂は決定的となった。

バンガロールでのクイット・インディア運動のデモ行進

第二次世界大戦初期、イギリスはインドを懐柔することにより戦争の協力を、インドはイギリスからできるだけ有利な条件を引き出すことを念頭においていた。しかし、緊迫する戦争情勢がイギリスの大幅な妥協を用意せざるをえないようになった。1942年4月にロンドンから空路でデリーにスタッフォード・クリップスen)が派遣された(クリップス使節団en)。しかし、クリップス使節団はウィンストン・チャーチルがイギリス帝国の解体を望まないこともあり、国民会議は1942年夏、クイット・インディア運動[27][28]en)を展開することで、インド独立を目指した。

イギリスはインド情勢の急変に対して、徹底的な弾圧で対処した。50大隊を導入し、反乱は6週間で鎮圧された[28]。全ての会議派のリーダーは約3年間拘束された[28]。とはいえ、この反乱の意義は、「民族感情が達していた深さと、人々がはぐくんだ闘争と犠牲の偉大な能力を示したという事実[27]」であった。

[編集] ウェーヴェル総督からマウントバッテン総督の時代 1943-1947

第19代副王として就任したウェーヴェル(en、就任期間:1943年10月1日-1947年2月21日)は、1945年6月、インド帝国の夏の首都シムラーに、ガンディー、ジンナー、刑務所から釈放されたばかりの国民会議のリーダーを招集した(シムラー会談)。シムラー会談において、イギリスは戦争に協力したムスリム側の主張を大きく認めていたが、ジンナーの「ムスリム側の代表はムスリム連盟のみに限定されなければならない」という主張のために、会談は決裂した[29]。ウェーヴェルもムスリム連盟の戦争協力を評価していたこともあり、この決裂を容認した[29]

1946年になると、イギリスはインド統治の放棄の姿勢を見せるようになった。背景には、

  1. イギリスが超大国の座から既に転落していたこと。
  2. イギリスの経済力、軍事力の破綻。
  3. イギリスは、インド人官僚、軍人からの忠誠を獲得できる見込みが小さくなってきたこと。
  4. インド民衆の自信

が挙げられる[30]

特に、第3点は重要であり、インド国民軍参加者への裁判の巨大な大衆デモの動員[30]、1946年2月のボンベイで起きたインド海軍の反乱[30][29]であった。

こうした中、1945年から1946年の冬、総選挙が実施された。この際の総選挙は分割選挙(ヒンドゥーとムスリムそれぞれが留保議席を保有する)であったが、国民会議とムスリム連盟の一騎打ちの様相を示した。国民会議は非ムスリム議席の90%を確保と8つの州で政権を掌握することに成功した[29]。一方、ムスリム連盟も中央議会のムスリム留保議席30を独占し、地方議会のムスリム留保議席500のうち442を獲得することに成功した[29]

国民会議と連盟の間の、いかなる妥協も見出せない状況を打開するために、イギリスは、1946年3月、閣僚使節団を派遣し、複雑な三層構造の連邦制案を提示した。東西のムスリム多数州(現在のパキスタン、バングラデシュの領域)とヒンドゥーが多数を構成する中央部・南部にインドを分割し、それぞれの州に大幅な自治権を付与する案に対して、ジンナーは、賛意を表明した[29]。しかし、中央集権国家を目指した国民会議は、イギリスの案を一蹴した。ネルーによる7月10日の演説でその内容が明らかとなり、それぞれの州がヒンドゥー、ムスリムどちらの州に所属するかは自由に判断できるようにすべきであるという内容は、ジンナーの「パキスタン構想」を打ち砕くものであった[29]

カルカッタの虐殺。直接行動の日の結果が生み出された悲劇である。

ジンナーは閉塞した状況を打開するために、8月16日に直接行動の日(en)を定めた。ジンナーは、直接行動の日において、ムスリム側は、「どんな様式、形態においても直接的な暴力行為に訴えるための日であってはならない[31]」と考えていたが、実際に生み出されたのは、カルカッタ市内では4000人を超える市民の殺害、ビハール州では約7000人のムスリムが殺害、ベンガルのノアカリ地方では数千人のヒンドゥーが殺害と悲劇[29]のみであった。ノアカリ地方にいたっては、ガンディーが直接仲裁に行って、初めて、悲劇の収拾がなされた[29]

最後の副王として、1947年ルイス・マウントバッテンが就任した。その前年、国民会議主導による中間政府の設立が宣告された。パンジャーブ州の東西分割問題、東ベンガル州、バローチスターン、シンド、北西辺境州の各州がインドと新設されるパキスタンのどちらに帰属するかで議論が展開された[32]が、6月3日、2つに分割した形での独立が正式に発表された[30]。藩王国のほとんどは、内務大臣サルダール・パテールの手腕により、インドへ帰属することとなった。

1947年8月15日、デリーの赤い城におけるネルーの独立宣言を持って、インドは独立を達成した。また、同日、パキスタンも独立を宣言し、インド帝国は滅亡することとなった。

[編集] 年表

[編集] 経済

[編集] イギリスを支えるインドの富

当時のインド経済は、イギリス東インド会社時代から引き続き、「富の流失」に直面していた。インド政庁は毎年、イギリス本国に対して莫大な経費を支払っており、インドで生み出された富がインドに投資されるという環境ではなかった。インドから流失した富は、イギリスに対してポンドで行われ、インドが銀本位制を採用していたこともあり、19世紀末の銀価格の下落は、結果的にインドによるイギリスへの支払額を増大させることとなった。イギリスは常に、インドに対して輸出超過の状態を創出することにより、その貿易黒字でもって、インド以外の貿易で生まれた赤字を補填する形を採っていた[33]

[編集] 頻繁に発生した飢饉

少なくとも、帝国時代の農業生産力は、著しく低下していたと考えられる。その背景には、イギリスによる経済的搾取のみならず、在来の産業が衰退しながらも、これに代わる産業が発展することがなかったこと、農業の停滞を導いた農村の構造、農民への様々な階層からによる搾取が挙げられる。このような搾取構造により、農民層が農産物を獲得する手段を持っていなかったことが、飢饉をより深刻なものとした。

代表的なものでは、地方レヴェルで発生した飢饉としては、1866年に発生したオリッサ飢饉、1869年のラージプーターナー飢饉、1873年に発生したビハール飢饉が有名であり、全国的な飢饉としては、3回のインド大飢饉(enenen)が挙げられる。1854年から1901年の間でのインド国内の死亡数は、28,825,000人に上るという推計[34]があり、さらに、第二次世界大戦中のベンガル飢饉では300万人が命を落とした。

[編集] 植民地経済の形成

19世紀の後半にはインド経済は世界経済の一角に完全に組み込まれた。しかし、主な産品は、綿インディゴジュートコメ、採油用種子、といった一次産品が多く、これらの輸出用作物の国際価格の変動は大きかった。綿は、南北戦争をはさむ前後20年間に価格が3倍に上がったが、1900年までには1/9まで下落した。インディゴは合成染料に代用されるようになり輸出産品としての価値を失い、インド経済を支える一次産品はジュートと茶であった[33]

この時代のインド経済は輸出産品を生産する農業に大きく依存しており、工業転換はほとんど進まなかった。また、商品作物の生産のために、彼らが口にする穀物類は輸入に頼らざるを得なかった。穀物の生産を伸ばすことができたのはインダス川灌漑が成功したパンジャーブ地方であった。パンジャーブ地方では、小麦、サトウキビ、トウモロコシの生産が伸び、海外向けのみならず、国内向けにも生産するようになった[33]

イギリス東インド会社時代から続いていた鉄道の建設は引き続きインド国内で実施された。19世紀末におけるインドの鉄道総延長距離は世界で第5位になっており、商品作物の生産地と輸出港を結んだ。1887年に建設されたヴィクトリア・ターミナス駅(現名称チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅)がロンドンメルボルンのヴィクトリア駅と同様の建築様式で建設されたことは、当時のインドがイギリス帝国の中心であったことの証である[33]。加えて、インドにおける鉄道網の整備によって、徐々にではあるが工業化の媒介となった。ゾロアスター教徒であったジャムセジー・タタen)は、1877年にナーグプルに紡績工場を建設し、その後、ムンバイアフマダーバードにも紡績工場を建設した[33]。また、1907年にはビハールに、タタ・スチールを創業し[33]、現在のタタ・グループの原型が形成されたのもこの時代である。同様に、ラージャスターンのマールワールで商業活動を展開していたビルラ家も第一次世界大戦中に繊維工業、鉄鋼業に進出し成功を収めていった[33]

イギリス領インド帝国は「イギリス国王の王冠にはめ込まれた最大の宝石」とも表現された。1900年、カーゾン提督は、以下のように述べることでインドの重要性を訴えた。

"我々は、インド以外の全ての植民地を失っても生き延びることができるだろう。しかし、インドを失えば、我々の太陽は没するであろう[35]"

[編集] 印僑の登場

インドからイギリスのインド以外への植民地に労働力人口が移動したのもこの時代である。彼らのことを印僑と呼ぶ。イギリスの植民地の中で、特に熱帯地域へ人口の移動が促進された。移住先として選ばれたのは、サトウキビ生産が活発だった西インド諸島ジャマイカトリニダード島)、生産や天然ゴムのプランテーションが発達したイギリス領マラヤ、あるいはケニアザンジバルといった東アフリカ、南アフリカモーリシャスといったインド洋沿岸地域、フィジーなどの太平洋地域にも人口の移動が促進された[33]

その中で、東アフリカ貿易ルートで活躍したイスマーイール派のアーガー・ハーン一族やビルマとセイロンで商業作物の開発に投資したナットゥコッタイ・チェッティヤールのように商業活動で成功した人々も登場した[33]。また、移住先でのインド人が人種差別で苦境に立たされていることを世論に喚起したマハトマ・ガンディーが登場した。

インド人の移動は、何も植民地に限定されていたわけではない。イギリス本国に留学しそのまま、現地にとどまった者も多い。ロンドンで弁護士業を開業し、その後、帰国した人物の中では、後のパキスタン建国の父であるムハンマド・アリー・ジンナーがいる。

[編集] 南インドの経済の動向

北インドにおける手工業による綿織物産業は、イギリス東インド会社時代に崩壊し、その後、タタ一族などにより、工場制機械工業による紡績工業が勃興した。一方、南インドの手工業による手織業は、イギリスとの競争に巻き込まれることはなかったが、北インドの産業構造の転換により、ボンベイやアフマダーバードとの競争を余儀なくされた。その理由は来たインドの綿織物工業の市場であったのは中国であったが、そこから駆逐されたことが理由である[36]

そのため、南インドの手織業は、

  1. 上級階層向けの高級織物、この織物には金糸が使用された。
  2. 国内外の下層向けである廉価品で儀式などにも利用できるもの。これらには、人絹糸を使用した。
  3. 海外市場向けの色物

などに生産の中心を移した[36]。そのことにより、1920年以降の南インドの手織業に従事する人口は、マドラス州において、38万人前後(1911年)から30万人前後(1921年)を経て、49