アルベルト・シュペーア
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| アルベルト・シュペーア Albert Speer |
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| 任期: | 1942年2月7日 – 1945年5月23日 |
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| 出生: | 1905年3月19日 マンハイム |
| 死去: | 1981年9月1日 ロンドン |
| 政党: | 国家社会主義ドイツ労働者党 |
ベルトルト・コンラート・ヘルマン・アルベルト・シュペーア(Berthold Konrad Hermann Albert Speer 1905年3月19日 マンハイム - 1981年9月1日 ロンドン)は、ナチス・ドイツの政治家。建築家。軍需大臣。アルバート・シュペーア、アルベルト・シュペールなどとも表記される。終身刑に処されたルドルフ・ヘスを除けば戦後を生きたナチ関係者の中で最もアドルフ・ヒトラーと親しかった人物として知られる。
目次 |
[編集] 生涯
[編集] ナチス入党
マンハイムの建築家一家・シュペーア家の三人兄弟の次男として生まれた。アルベルトは若い頃は数学者になることが夢であったが、父や祖父と同じく建築家の道を歩むようになった。地方の大学より中央の有名な大学で建築を学ぶ夢は1923年のハイパーインフレーションで断たれ、シュペーアはカールスルーエ工科大学に進学した。1924年、インフレが安定化した頃、より格の高い大学であるミュンヘン工科大学に転学した。1925年、彼はさらにベルリン工科大学に転学している。彼はこの大学で、有名な建築家で機能主義者であったハインリヒ・テセノー(de:Heinrich Tessenow)の指導の下で学んだ。シュペーアはテセノーを非常に尊敬しており、1927年に彼の試験を通った後は助手となり、テセノーのゼミで週に3日学生に講義を行うなどした。この時期、1928年、シュペーアは7年前に知り合ったマルガレーテ・ヴェーバーと結婚している。テセノーは決してナチズムに賛同しなかったが、彼の学生にはナチズムに賛同するものが多く、学生らはシュペーアにベルリンのビアホールで行われる党大会に行くよう勧めた。
シュペーアは1930年12月のビアホールでの党大会に参加したが、後に、当時は若者の一人として政治にはあまり関心も知識もなかったと主張している。彼はこの時にヒトラーをはじめて見たが、党のポスターに描かれているような茶色の制服姿ではなく身なりのきちんとした青いスーツ姿で参加していたことに驚いた。シュペーアはこのときヒトラーの説く、共産主義の脅威やヴェルサイユ条約の破棄といった問題への解決方法に影響されたこともさることながら、何よりヒトラーという人物に強い影響を受けたと述べている。数週間後、シュペーアはまた党大会に出席したが、このときの司会はヨーゼフ・ゲッベルスであった。ゲッベルスが聴衆を逆上に追い込み感情を煽るやり方にシュペーアは嫌な思いをさせられたものの、ヒトラーから受けた強い印象を忘れることができなかった。翌日、彼は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党した。党員番号は 474,481 であった。
シュペーアのナチ党員としての大きな仕事は、1932年にカール・ハンケ(シュペーアは彼の別荘を手がけたことがあった)が、ベルリンの党支部の建物の改修を進めていたゲッベルスに彼を紹介したことから始まった。後に政権獲得後、ゲッベルスの宣伝省の建物改修も彼が行った。ゲッベルスはシュペーアの仕事ぶりに感銘を受け彼をヒトラーに紹介し、ヒトラーは彼のお気に入りの建築家である新古典主義建築家のパウル・トロースト(de:Paul Troost)教授が行なっていた総統官邸(初代)の改修を手伝うよう命じた。シュペーアはヒトラーの依頼にこたえ、総統官邸のうちヒトラーが大衆の前に姿を見せるためのバルコニーを追加するという貢献を見せた。シュペーアはこうしてヒトラーの内輪の仲間の重要な一員かつ親しい友人となり、ナチ党の中でも独特の地位を得た。シュペーアによれば、ヒトラーは官僚的と見た人物には強い軽蔑を隠さず、一方でシュペーアのような芸術家の仲間たちには、彼自身がかつて建築や芸術への野心を持っていたためにある種の絆を感じたのか、非常に尊敬した態度を見せていた。こうした状況からシュペーアは、晩年人を遠ざけることが顕著になっていったヒトラーの素顔について一級品の証言を残している。
[編集] 党主任建築家
1934年にトローストが死去すると、シュペーアは党主任建築家の地位を引き継いだ。主任建築家となってからの彼に与えられた初期の仕事は、レニ・リーフェンシュタールの映画『意思の勝利』の舞台となり、彼の業績の中でももっとも有名なニュルンベルクの党大会会場(de:Parteitagsgelände)であった。自伝で彼は、最初のデザインではパレード会場がまるで「射撃クラブの会合」に見えてしまうと自嘲気味に語っている。彼は一からデザインを作り直し、党大会会場の設計図を完成させた。
会場は古代アナトリアのヘレニズム期の建築、「ペルガモンの大祭壇」(ベルリンのペルガモン博物館に収められているもの)のドーリア式建築を参考とし、これを24万人を収容できる巨大な規模に拡大したものであった。1934年の党大会では、シュペーアはパレード会場を150基の対空サーチライトで囲み、夜間には垂直に照射して光の大列柱を作り出した。この「光の大聖堂」のビジュアルインパクトは今も語り草となっている。以後1938年まで毎年9月、この会場はニュルンベルク党大会のために使用された。シュペーアはニュルンベルクで他にもさまざまなナチ党の建築を計画したが、殆どは実現しなかった。例えば、オリンピックに代わる競技大会、「アーリアン・ゲームズ」の会場となる40万人収容のスタジアム、「ドイツ・スタジアム」(Deutsche Stadion)はその一例である。これら党建築の設計に当たり、シュペーアは廃墟価値の理論を創案した。ヒトラーが熱烈に支持したこの理論によれば、今後新築されるすべての建築は、数千年先の未来において美学的に優れた廃墟となるべく建築されるべきだということであった。ナチスドイツが未来に残す廃墟は、古代ギリシア・古代ローマの廃墟がその文明の偉大さを象徴しているように、第三帝国の偉大さを後世にまで伝えるべきものであった。この理論から、鉄骨や鉄筋コンクリートによる建築よりも、記念碑的な石造建築が多く生み出されることとなった。
1937年にはシュペーアはパリ万博のドイツ・パビリオンを手がけた。この建物は、スターリン様式を代表する建築家ボリス・イオファンが手がけたソ連パビリオンの正面にあり、巨大さを競い合っていた。両バピリオンはそのデザインにより金メダルを同時受賞している。
[編集] ベルリン建設総監
シュペーアはベルリン建設総監 (Generalbauinspekteur für die Hauptstadt Berlin) に任ぜられ、ベルリンの再開発計画にも関与した。大ドイツの首都にふさわしくベルリンを改造するメガロマニアックな首都改造計画「ゲルマニア計画」である。ベルリン市街は、ブランデンブルク門や国会議事堂の西寄りに建設される、長さ 5km の巨大な南北軸の大通りに沿って再編成され、巨大な新古典様式の政府機関ビルや大企業本社ビルが通りの両側に並べられ、北端には「フォルクスハレ」( Volkshalle )と呼ばれる大会堂が建つことになっていた。これはローマのサン・ピエトロ大聖堂の大ドームに基づく巨大ドーム建築であったが、高さ 200m 以上、直径 300m と、サン・ピエトロ大聖堂の17倍大きなドームが予定されていた。一方、南北軸の南端には凱旋門が計画されたが、これもパリのエトワール凱旋門を基にしながらもさらに巨大なもので、高さは 120m となるはずだった。南北軸の大通りには、南側と北側に巨大な鉄道駅、「南駅」「北駅」を設ける計画だった。また大通りはたくさんの車線を設けるために幅広く確保して、凱旋門より南へも 40km に渡り伸びる予定だった。
シュペーアの記述(シュパンダウ刑務所で書かれた回顧録)によれば、計画がすべて完成すれば8万軒の建物が立ち退きのために壊されると見られていた。シュペーアはこの計画のためにユダヤ人をベルリン市内の住宅から追放し、立ち退きに遭うアーリア人種をそこに住まわせようとしたという主張があるが、実際にシュペーアがそのような考えを持っていたか、ユダヤ人追放の責任があるかどうかについては議論がある。
ゲルマニア計画の最初のステップは1936年のベルリンオリンピック会場(ヴェルナー・マルヒ設計)であった。またシュペーア自身はヴェルサイユ宮殿の鏡の間より2倍長い大ホールのある新総統官邸を設計した。ヒトラーはさらに大きい三代目の総統官邸を設計するよう要請したが、これはついに実現しなかった。ゲルマニア計画は1939年の第二次世界大戦開戦により中断され、以後再開されることはなかった。ヒトラーは壮大なゲルマニア計画に強い思い入れがあり、実現をベルリン陥落の迫る最期の時まで気にかけていた。新総統官邸は1945年のベルリンの戦いで大きく損傷し、戦後、占領軍であるソ連軍によって破壊された。
南北軸は実現しなかったものの、ブランデンブルク門を基点とする東西軸は着工しておりティーアガルテンに街灯などが残存している。現在ティーアガルテンに建っている戦勝記念塔も、この計画のために国会議事堂前から移設されたものである。
シュペーアには、同じくヒトラーお気に入りの建築家であるヘルマン・ギースラー(de:Hermann Giesler)という建築上のライバルがおり、二人は建築上の問題やヒトラーからの関心を惹くためにたびたび衝突していた。
[編集] 軍需相
軍需相(兵器・弾薬大臣)のフリッツ・トートが飛行機事故死したため、シュペーアは1942年後任の軍需相(正確には、1942 - 1943年兵器・弾薬大臣、1943 - 1945年軍需・軍事生産大臣)に就任する。はじめは門外漢であると固辞していたが、ヒトラーの熱心な要請に押される形で就任に至った。ヒトラーが若い彼を大抜擢したのは彼が過去の建築プロジェクトでみせた緻密な計画と組織経営力を兼ね備えた優秀なテクノクラートであったからである。英米軍による大空襲の中、生産体制を整備し兵器増産を成功させた。
一般的に部品の共通化などの生産体制の効率を推し進め、軍需生産を増大させたのは全てシュペーアの功績であるように言われているが、実は彼が行った政策の殆どは前任者であるトートが既に考えていたものであった。しかしトートは、ヒトラーから政治的に全幅の信頼を寄せられていたシュペーアとは違い、政治的権力を持っていなかったため、各企業や省庁間などの利害関係の調整を纏めきれず、結果的にあまり成果を挙げることができないまま、事故死してしまう。後任のシュペーアはヒトラーの信頼というバックボーンを活かし、トートが立案していた部品の共通化などの実現に向け関係企業・省庁を纏めあげ、見事生産体制の効率化を達成、結果的に功績は全て彼のものとなった。
また、能率化、コストダウンを重視していたためV2ロケット、ドーラなど、ヒトラーが欲していた高コストで大きな破壊力を誇る兵器よりも小型で使い勝手のいい兵器を作りたがっていた。しかし、建築でこそヒトラーと対等に渡り合ってきたシュペーアであったが兵器に関しては全くの素人であったこともありヒトラーに押し切られてしまい、結局シュペーアの懸念が現実のものとなり新兵器開発計画は頓挫してしまった。そして初めてシュペーアはヒトラーに対し不満を覚えることになり、シュペーアは部下にヒトラーに対する愚痴をこぼしていたとの証言もある。
[編集] 戦中・戦後
シュペーアはたびたび前線に視察に赴き前線の意見を軍備計画に反映させることにつとめた。大戦末期、シュペーアは資源の備蓄が底を尽き始めていることを政府幹部のなかで最も痛感している一人であった。1944年1月、シュペーアは心労と過労のため倒れベルリン郊外の病院で静養生活に入った。そこで彼はヒトラーに疎んじられているとの周囲の雑音に心痛し、ヒトラーに対して辞職を申し出た。辞職願を受け取ったヒトラーは驚きすぐさま病院へ使いを出し「君に嫉妬する者があらぬ噂を煽り立てているだけだ。私は決して君を疎んじてなどいない。頼りにしている。病を治し一日も早く復帰することを願っている」と手紙を書き送った。5月になるとシュペーアは心労から立ち直り現場に復帰した。その頃、米英による軍需施設や生産施設、輸送機関に対する空爆作戦でドイツの生産能力は甚大な被害を受けていた。シュペーアは燃料工場の9割が破壊されたことを受けこの時初めて「将来の破局」という直接的な表現をつかいヒトラーを戒めた。しかし、シュペーアに限らず部下の悲観的意見には決して耳を傾けることがなかったヒトラーはこの報告を無視したためシュペーアは従来どおりの仕事を続けざるを得なかった。
1944年10月、アメリカ軍のドイツ西部侵攻が始まった。そしてその冬、ドイツ工業の心臓部ともいえるルール地方が連合国の激しい砲火によって壊滅した。シュペーアはルール地方を視察に訪れ、もはやドイツに戦争を継続し得るだけの能力がないことを確信し、これまでの「戦争に必要な物資をいかに生産調達するか」という方針から「いかに早く敗戦後のドイツが復興できるか」という方針に転換することを決意した。そのため国内の工場や産業をいかに戦火から守るかということに苦心したが、これはヒトラーら軍幹部の方針とは正反対であった。ヒトラーは工場、企業、インフラストラクチャー施設などの破壊(焦土作戦)命令を下した。シュペーアはヒトラーのこの命令に対して激しく抵抗し、あの手この手でヒトラーにその非を直訴した。一度は翻意したヒトラーであったが結局焦土作戦は遂行され戦後ドイツ復興の足枷となった。この作戦が決行された時のシュペーアの様子について当時の部下は「こんなに激昂したシュペーアを見たことはいまだかつてなかった」と証言している。また、焦土作戦が決定されたことを受け、反逆罪を覚悟した上で、「3月18日までは戦況の好転に望みをついないでいました。しかしもうその望みは潰えました。ドイツ国民の生活基盤を破壊する破壊という手段を総統自ら行使しませんよう」とドイツを破壊するヒトラーを真正面から非難し焦土作戦の愚を書き連ねた信書をヒトラーに手渡した。しかし、ヒトラーは何もなかったかのようにその手紙のことについては不問とした。その後シュペーアは戦後復興を目指し戦後処理に向けた仕事をするためヒトラーとは別に行動するようになった。
しかし1945年4月23日、ドイツ北部から飛行機で総攻撃真っ只中のベルリン・首相官邸地下壕を訪問し、ヒトラーと会談した。その内容は、シュペーア自身は『緊急の目的』とだけ語り、誰にも詳細を明かすことはなかった。しかし、シュペーアの副官M・V・ポーザーによると、シュペーア自身がヒトラーから後継者に指名されることを懸念し、ヒトラーに反対の意を直訴したのではないか、という(『ヒトラーと6人の側近達』より)。結局、これが二人の最後の面会となった。
ドイツ降伏後、シュペーアはハンブルクのラジオ局から演説を行い、今は敗戦を悲しむよりも復興のために働くべきだと訴えた。その後連合軍に逮捕され、ニュルンベルク裁判で禁固20年の刑を受ける。戦犯で唯一、ナチスの戦争犯罪を自ら認めた。
1966年にシュパンダウ刑務所を出獄後、誕生からニュルンベルク裁判までの半生を記録した回顧録を出版した。同書は数少ない、ヒトラーの側近が見たナチスの内幕を描いた貴重な証言として知られている。この本の内容は非常に鮮明に、自分とヒトラーとの出会いからニュルンベルク裁判までがこと細かに書かれている。ヒトラーに熱狂する人々や党内部の抗争、終戦間近になってからのゲーリングの異様な行動、ボルマンの心情、ヒムラーの言動、ライの異様なまでの野心、正気を失っていくヒトラーとそれを共に滅びていくゲッベルスなど、生々しくも忠実に描写されている。また、ニュルンベルク裁判でのデーニッツやヘス等被告人の様子も非常に詳しく描かれている。
1981年、イギリスの愛人宅において心臓発作で倒れ、ロンドンのセント・メリー病院で死去した。BBCに出演するために渡英していたと言う。
ハイデルベルクのBergfriedhofに夫婦そろって埋葬されている。
[編集] 評価
シュペーアはニュルンベルク裁判の被告の中で唯一人、自己の戦争犯罪を認めた。また、釈放された後も積極的にマスコミ等でナチスの犯罪を批判し続けた。しかしその一方でユダヤ人虐殺については「自分は直接関知していない」「うすうす感じてはいたが積極的に知ろうとしなかったので知らなかった」などと述べている。
それらのシュペーアの弁解については、建設総監・軍需相として強制収容所の囚人や捕虜が使役されていた採石所や軍需工場を度々視察し、労働者の増員を労働力配置総監のフリッツ・ザウケルに度々要求していたシュペーアが知らなかったはずがない、という見方が強くある。
上記に記した建設総監時代に計画責任者として従事した「ゲルマニア計画」においては、退去を命じられたベルリン市民の代替居住地の供給案として、本人の弁によれば「あくまで、その場での思い付き」「いかに効率よくコストを下げる方法のひとつとして」と前置きした上で「ユダヤ人の居住地域を、退去を命じられたベルリン市民に与えてはどうか」とヒトラーに進言し、それが実行に移された。またユダヤ人退去計画の具体的な実行計画を計画したのも彼がトップを勤めた建設総監であった事が最近の研究で明らかになっている。但し、どういったプロセスを経過して、彼がユダヤ人退去計画に関わり、どういうポジションにいたのかは詳細はまだまだ不明な部分が多い。
また鋼材やセメントといった戦略物資の分配を職権に持つ軍需相として強制収容所建設のための材料配分を認める書類も現存しており、シュペーアの言い分に信を置くことはできない。特にアウシュビッツ強制収容所の拡張計画設計においては詳細な内容(死体置き場の数、死体焼却所の数等、それら建設に伴う積算書)を記した計画設計書に、彼の部下が現地調査を実施し、その報告を元に、拡張計画書と設計図に彼が目を通し、それに許可を与えたサインが近年発見されている。しかし拡張計画をどの部署が計画し、その設計図を誰が書いたかはわかっていない。V2ロケット製造工場(ミッテルバウ・ドーラ強制収容所)の立ち上げは軍需相時代の業績のひとつであるが、ここでは多数のオランダ、ポーランドの戦争捕虜、政治犯が強制労働で死亡しており、ここの視察にシュペーア本人が何度も訪れていた事が、最近の研究結果で確認されている。
また、シュペーアは戦後ヒトラーをはじめとするナチス幹部を批判し続けた。これに関しても、彼の良心からでた告白ではなくて保身のための変心にすぎない、との意見もある。これは彼が友人ルドルフ・ヴォルゲースに宛てた手紙とヴォルゲースの日記(chronik文書)と戦後、彼がマスメディアに向かって発信した言葉を比較検討した場合、戦前と戦後では明らかな違いがある。しかしこれは彼に限ったことではなく、戦後を生きたその他大勢のナチスドイツ幹部にも当てはまる上、そもそも発言の違いの原因が何であったのかはわからない。
総合的に判断すれば、シュペーアが「ホロコースト」「戦争捕虜の強制労働」と言ったナチスの戦争犯罪を知っていた事は間違いない。しかし、それらの政策にどれだけ関わっていたかは現在も不明である。理由としては彼以外のナチス側の証言者、現在研究者、ユダヤ人と戦争捕虜側の証言者、それそれが独自の主観で評価と証言をしており尚且つ、ある一定の信憑性を以って、それらの証言が迎えられているのが現状である。
[編集] 家族
シュペーアは、妻マルガレーテ(1905年-1987年)との間に二男二女をもうけた。長女のヒルデ(1936年生まれ)は緑の党の政治家となった。長男のアルベルト(1934年生まれ)は父と同じく建築家となった。次女のマルガレーテ(1938年生まれ)は写真家となった。そして、次男のアルノルトは医師となった。
[編集] 文献
著者氏名は、刊行当時の表記。
- アルバート・シュペール・著、品田豊治・訳 『ナチス狂気の内幕 -- シュペールの回想録』 読売新聞社 1970年
- 回顧録。原題は、Erinnerungen von Albert Speer。
- アルベルト・シュペーア・著、品田豊治・訳 『第三帝国の神殿にて -- ナチス軍需相の証言』(中公文庫上下 BIBLIO20世紀) 中央公論新社(上巻:2001年7月 ISBN 4-12-203869-3、下巻:2001年8月 ISBN 4-12-203881-2)
- 上記、『ナチス狂気の内幕--シュペールの回想録』(読売新聞社 1970年刊)の文庫版
- H.R.トレヴァ=ローパー著、橋本福夫訳『ヒトラー最期の日』(筑摩叢書・筑摩書房、1975年)
- ヒトラー研究の古典。著者はヒトラー政権幹部の中でシュペーアを高く評価し、その評価に多くの頁を割いている。
- ロバート・ジェラトリー・編、レオン・ゴールデンソーン・著、小林等・高橋早苗・浅岡政子・訳 『ニュルンベルク・インタビュー 上』 河出書房新社 2005年11月 ISBN 4-309-22440-7
- 上巻「第1部 被告」に、「軍需相 アルベルト・シュペーア」のインタビューを収録。
- アルベルト・シュペーア・著 Spandauer Tagebücher, Propyläen, 1975, ISBN 3-549-17316-4
- 回顧録。
- Arndt Verlag・編 Hitlers Neue Reichskanzlei,Haus des Deutschen Reiches 1938-1945, Kiel,2002,ISBN 3-88741-051-3
- アルベルト・シュペーアの設計による新総統官邸の写真集。
- ルドルフ・ヴォルゲースの手紙と日記(1941-1981)・・・所謂chronik文書、シュペーアの友人であり、ナチスの中堅幹部でもあったヴォルゲースがシュペーアに宛てた手紙と、彼の事を特に記録した日記。シュペーアを研究する上では一級史料となっている。
[編集] メディア
- 『ヒトラーの建築家 アルベルト・シュペーア』 ハインリッヒ・ブレロアー監督 ; ハインリッヒ・ブレロアー, ホルスト・クーニグスタイン脚本 ; ゲモット・ロール撮影監督 ; ハンス・ピーター・ストローアー音楽 ; ティロ・クライン, ミカエル・ヒルド製作
- 再現ドラマシーンを交えたシリーズ伝記作品 DVD-BOX5枚組の構成は、
- 「ドキュメンタリー 本当に彼は知らなかったのか?~20年後のシュペーア~」
[編集] ドキュメンタリー
- 『アルベルト・シュペーア ヒトラーと6人の側近たち』(6部構成の内、最終回)(ZDF製作、NHKソフトウェア)
- ビデオ、1996年 のちDVD再発売 NHK海外ドキュメンタリーで放映された。
- 『ヒトラーの共犯者 12人の側近たち』 グイド・クノップ/高木玲訳、原書房上下、2001年の一部となっている。
[編集] 外部リンク
- Albert Speer's New Reich Chancellary - a documentation
- BBC - BBC Four - Audio Interviews - Albert Speer
- A tribute to Speer's architecture
- Testimony of Albert Speer at us-israel.org
- Speer und Er German docudrama broadcast in May 2005, presenting new incriminating evidence of Speer's role, e.g. in the construction of Auschwitz.
- 3d animated Reich Chancellery
- シュペーアの墓について
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